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ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、
              一社員から観た石津謙介社長.その5.



石津社長は何を行うにしても、思い付いた時が行動する時だった。

これは筆者にとっても生涯教訓として踏襲させて頂いている。
例えば旅行に出てお土産屋さんの前を通ったり、その場所にしかない珍しいお店、美術館のスーベニアショップ等で気に入ったものが在ったとしようか。

よくあるパターンとしては「今此処で買わなくても、帰りに買えば良いや、あるいはもっと良い物がこの先に在るだろうからそれを買おう」と思うのだが、それに成功した例がなかった。
つまり、今其処で「良いな此れ!」と思ったら、即購入しておかなければ買いそびれるというのだ。
この「思う即行動」の心掛けはチャンスを逃さない。
此れを実践できたのがヴァン ヂャケット入社後初めての海外出張時に嫌というほど身にしみて感じた。

 その自分の初めての海外出張には事前にひとつの面白い話があった。当時ヴァン ヂャケットでは、定期的に社員をアメリカを中心としたエリアに入社年度順に出張させていた。

社員の見聞を広げるのと、自社が扱っている商品のオリジナル背景・匂いを学ぶ機会を与える意味で業界でも珍しい存在だったというか、石津社長の理念が社員を育てる意味でそうさせていたのだろうと思う。

此れは販売促進部内で見聞した話だが、ある時主力商品のダッフルコートが生産遅れか暖冬で大量に余ってしまった。

主力商品だけに、さーどうするって事に成って販促部に解決方法等が持ち込まれた。
販売を促進する部署だから当然の事だが、未だかってそのように具体的な商品の即売り上げに直結するように切羽詰った案件は持ち込まれたことが無かった。

其処で販売促進部は出入りの広告代理店・電通の子会社や博報堂に解決方法を提案するよう要請した。
今風に言うならばソリューションって奴だろうか?

話が飛ぶが最近は簡単な言葉を横文字を使う事によって、さも自分達が高度な別の事をやっているかのように見せて、優位に立とうとしたり高い費用を請求するのが大手広告代理店のビジネス手法でまったく好きになれない。

VAN Dufflecoart.jpg
VANブランドも、Kentブランドも当初はメルトン1枚仕立てが多かった。



しかし、電通も博報堂も即効果のある提案は何もしてこなかった。
VANさんお得意のプレミアムを付けて売りましょうだの、販売員にインセンティブを付けてダッフルコート1着売る度にいくらかの報奨金を与える方法等、今までヴァン ヂャケット現場が既に行ってきた手法しか提案してこなかった。

勿論TVコマーシャルを流し宣伝する方法も提案して来たが、1着売る為に同額の宣伝費用が掛かるような馬鹿な提案を平気でしてくる事自体「門前払い」だった。

広告代理店という所は自社が儲からない提案は絶対にしない仕組みになっている事等、まだ筆者は全然知らなかった。

得意先が助かる、喜んでくれる提案であればその時儲からなくても信頼感を得て、その後大きな利益に繋がる仕事を出してくれよう・・・等とはこれっぽっちも考えない所だったのだ。
此れは21世紀になった今も全然変わっていない。

結局拉致が上がらず困っていた所、社内で誰かが社長に提案した。

「社内の全社員に解決策を提案させて、もし其の案が効果的と判断され採用されたら、其の発案者を世界一周の海外出張に行かせてやるってのは?」という企画が通り、全社員にアイディアを提案させた事があった。
1週間の提案期間を経て幾つかの案が提出されたのだが、其の中に1件素晴らしいものがあった。その内容とはこういうものだった。

Duffle 3 Colors.jpg
当時はダッフルコートと言えばキャメル、グレー、紺の3色が基本だった。



「ダッフルコートですよね?トラッドの定番でしょ?
我がヴァン ヂャケットの製品は伝統的なタイプだから、色はグレー、紺、キャメルですよね?

で、来年もまったく同じものを造って売るんですよね?
来期はトグルボタンの数が増えるとか、裏地にタータンチェックのキルティングが付くなんて事は無いですよね?
じゃあ何も今年無理して売る事は無いんじゃないでしょうか?
一旦商社に買い取ってもらい、保温保湿倉庫に保管してもらい、気温変化を見ながら来年秋に商社から買戻し、一番売り場が欲しい時期・タイミングで売り場に投入すれば一発で完売すると思います。」という提案だった。

勿論こんな提案は広告代理店から等出て来る訳が無い。
此れを「塩漬け」と呼ぶように成ったそうだ。流行性が少なく商品そのものに変化が在ってはいけないトラッド系の商品だったからこそ出来た話だった。
勿論提案者が世界一周の海外出張に出かけたのはいうまでもない。

筆者も1975年若林ヘッドの鞄持ちでアメリカへ出張する事になった。
入社3年目で海外へ出張させてくれる会社は、バブル前の当時としてもまだなかなか無かった時代だ。

おまけに行く先のUSA=アメリカ合衆国は翌年1976年の建国200周年(=バイセンテニアル)を控えて沸き立っている時期だった。

 http://3.bp.blogspot.com/-1WfBAL9FsO0/VShX_SMUHnI/AAAAAAAAL1M/i8Qcd9zymCw/s1600/USA%2Bbicentenial.jpg
当時日本で発売されたアメリカ建国200年祭関連ムック本



この海外出張が筆者に与えたものは実に大きかった。
それまでに本や雑誌、あるいは人から聴いた話で想像していた「アメリカ」と、実際に自分の眼で視た「USA」は随分と違った。眼から鱗の連続!

筆者の海外出張はアメリカ本土、サンフランシスコから入って、セントルイス(ミズーリ)、ニューヨーク、ワシントン経由でナッシュビル(テネシー)、フェニックス(アリゾナ)、ラスベガス(ネバダ)、サンディエゴ(カリフォルニア)、ティファナ(メキシコ)、ロサンゼルス(カリフォルニア)といった長旅だった。

確か2週間程の行程だったと思う。
ちょうど機内ではSugarloafのドント・コール・アス(Don't Call Us, We'll Call You)が何度も流れていた。
ビートルズのI feel fineのフレーズを使った何処と無く聴きなれた曲だった。
だからアメリカ大陸を横断する機内から視たUSAはこの曲と共に甦ってくる。
https://www.youtube.com/watch?v=i4njPe2_rho




ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目に海外出張!


アメリカ大陸を上空から見下ろしていると物の大きさがトンと判らない。
自分が今までに見た西部劇等の背景を思い出しながら砂漠にサボテンや樹木が点在する風景とダブらせてはみたものの、ニューメキシコやシェーンの舞台であるワイオミング辺りとは違うカンザスやミズーリ辺りの風景は結構緑に覆われていてイメージが異なっていた。

最初に地上で夜を迎えたのはセントルイス(=ミズーリ)だった。
其の当時、東京青山のヴァン ヂャケット社員の間ではウエスタン・スタイルをどこかにアレンジして着る事が流行っていて、特にウエスタン切り替えヨークが付きスナップボタンのウエスタンシャツを好んで着て居た。

中には横浜の元町裏にあるカスタムメイドのシャツ屋さんに自分でデザインして生地を持ち込んで、世界にたった一着のウエスタンシャツを造ってもらうのがブームだった。
勿論青山の会社でそれを着て「えっ?何処のブランド?インポート物?」と訊かれるのを無上の悦びとしていた節が在る。
何を隠そうこの筆者ですら3着も其のシャツ屋さんでオリジナルを造って貰ったのだった。

 shirt_1.jpg
なかなか市販されていないタイプをオリジナルで造っていた。



そういう背景でセントルイスに着いたものだから、我が目の中はウエスタン物で一杯になってしまった。
早速若林Headの案内で大きなウエスタンショップに行き、1時間の間にウエスタンシャツ、ウエスタンベルト、ウエスタンブーツ、何と更にはテンガロンハットまで買ってしまった。

このテンガロンハットはフェルトで出来ていて購入者の頭の形に合わせてツバの角度その他を調整しスティームでシューッとやって整型するのが当たりまえだった。

ところが基本的にモンゴロイドの日本男児とアングロサンクソンの頭蓋骨の形は全然違うバランスで出来ていた。
大元は恐竜だったり猿だったりするのだろうが、何処か発達の途中で上から見て縦長のアングロサンクソンとほぼ真丸のアジア系頭蓋骨に分かれてしまったのだった。

何を言いたいかと言うと、テンガロンハットは10ガロンも水が入ると言う意味の日除けの帽子が其の本来の意味で、カウボーイが馬に乗りながら牛の群れを炎天下砂漠エリアを進む時に被るものだから、少しくらいの強い風くらいでは脱げないようになっている。

前のほうから深々と被り、頭の後ろのツバをキュッと下げると頭蓋骨にピッタリと嵌まる様になっている。此れで脱げない訳だ。

ところが東洋人種は頭蓋骨が真丸だから同じことを行っても前後に指が一本づつ入ってしまうほどの隙間が出来てしまう。
はっきり言ってとてもカッコ悪い。だから日本のウエスタンバンドが一生懸命雰囲気を出そうとしてテンガロンハットを被りながら演奏していても、イマイチしっくり来ないのはこの辺りが原因なのだ。

 shop_1.jpg
セントルイスのウエスタン・ショップはお土産屋と言うより日用雑貨品屋だった。



で、まあお土産として飾り物にテンガロンハットはまだ良いとして、ウエスタンブーツは普段履く為に絶対に本場で購入したかった。
此れだけは譲れなかった。青山の外苑東通り沿いに3~4坪の小さなベイリー・ストックマンというウエスタン専門店が在ったが、売っている物が高くていつも見ているだけだった。

せっかく本場に来ているのだから良いモノを買って、帰ったらこのお店の前で見せびらかせてやろうと思い、熱心にブーツを選んだ。若林Headも付き切りでアドバイスしてくれた。

しかし、トニー・ラマや有名なブーツブランドの殆どは筆者の足には合わなかった。
足のサイズは8ハーフでちょうど良いのだ。しかしおしゃれなウエスタンブーツはどれも足は入ってもふくらはぎの上までブーツを引っ張り上げられないのだ。

要は永年バレーボールやサッカーで鍛えた我が足は、異常とも思えるほどふくらはぎに筋肉が付いてしまい、ウエスタンブーツの類は入らなくなっていたのだった。
しょうがない、入るのは只一種類農夫がが履く太目の何の模様も無い皮製のブーツだけだった。

この最初のセントルイスではホテルには泊まらず、若林さんの知り合いでアメリカでビジネスをされている成田さんと言う方のお宅にご厄介になったのだが、時差ぼけと疲れでアッと言う間に勝手に横になったBEDで翌朝まで爆睡してしまい、後々まで随分言われてしまった。

そうしてそのまま翌日セントルイス在住の成田さん(何とその8年後に転職する博報堂の後の社長・成田さんのお兄さん!)と、やはり米国在住中の若林Headの弟さんと4名でアーカンソー州のアミューズメントパーク・Silver Dollar Cityへ車でフリーウェイを走って行ったのだ。

勿論格好は前日購入したばかりのウエスタンスタイルだったが、もう完全に地元の奴らに馬鹿にされ(アタリマエダ!)「お前、拳銃は忘れたのか?」などと、からかわれっぱなしだった。
いわば浅草辺りで中途半端に着物を着た外人達を可笑しい奴らと思うのと一緒だったのだろう。

silver doller city_b1975.jpg
アメリカど田舎のウエスタン・アミューズメント・パークSilver Dollar City 
 
 silver doller city_1975_.jpg
 真ん中が筆者。この格好で堂々とアメリカ中西部を闊歩できたのも若さゆえか?



このドライブでアメリカのフリーウェーがどういう仕組みになっているか学んだ。

アメリカのフリーウェーは左右の車道が外側に向かって傾斜しており、間違って居眠り運転しても外へ外へと車がずれて行くようになっている。
なおかつ一番外側は砂利道で其のゾーンに入った瞬間に眼が覚め、間違ってスピン等しても何かに激突したりはしない様になっていた。勿論片側3斜線もある幹線道路だけだろうとは思うが・・・。

同時に昼間でも車のライトは点けっ放しで走るようになっていた。
10km先まで一本道で遠くに山並みが見えるような景色を何度も走った。
其の風景こそがアメリカ本来の姿だと知ったもの行ってこそ判る事だった。

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 アメリカでは中西部に行けばこのような一本道は何処にでもあるようだ。


カーラジオのスイッチを入れれば全米ヒットパレードをやっているとばかり思っていたら、何と何処を回しても「チーチキチーチキ」のフィドロ(=バイオリンの事)を中心としたカントリー&ウェスタン・ミュージックばかりだった。

何故かと訊いたらロックやポップスのヒット曲などは、東海岸や西海岸エリアと一部シカゴエリアだけでしか聴けないという事だった。
その後FM放送やインターネット・ラジオの発達で今は何処でも色々な音楽が流れているそうだ。

当時のAMラジオでは中西部の局は全てWで始まる放送局、ハワイなどはKで始まるといった感じで決まっていた。だからカントリーソングで有名なグランド・オル・オープリーなどはWSMと言う放送局が中継していたし、ハワイで有名なDJ音楽局はKIKI(ケイアイケイアイ)だった。

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 ナッシュビルのカントリーソングAMラジオ局WSM
 
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ハワイ・ホノルルのヒット曲AMラジオ局KIKI 



此処で成田さんや若林さんの弟さんとの夕食後に、近所のアフリカ系の友人が来ていろいろ話をしているのを横で聴いていた事があった。
其の中で1つ脳みそにこびりついている話が在る。忘れられない。

それはどういう音楽が好きかと言う話になって誰かが「ソウルミュージックは良いよなー」と言った途端、其のアフリカ系の友人の目付きがマジになって速射砲のように喋りだした。
勿論英語だし筆者は聴き取れない。

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TVで深夜にソウル・トレインが始まっていた。東京のディスコではソウルの曲が流行った。 


後で若林Headに訊いたら
「SOULミュージックは黒人の虐げられた歴史と思いが入っている。どんなに明るいテンポでヒットしても、皮膚が実際に黒い人間にしか判ってたまるか!」
という非常に本気の話だったようだ。

ビートルズも歌っている「Baby it's you,Please Mr.postman,」などのリズム・アンド・ブルースと呼ばれるジャンルの曲もその後はソウルジャンルに入れ込まれたので、何か複雑な感じでこの話しを訊いたものだった。


                            ・・・・・・・・・to be continued



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