ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目で海外出張.その2
▼
このセントルイスに滞在中、隣のアーカンソー州に在るシルバー・ダラー・シティへ日帰りでドライブした際に、本当のアメリカ中西部の佇まいを味わう事ができた。
日本人等まるで居ない本物のUSAだった。
途中スプリングフィールドという西部劇時代の町がそのまま発展したような1950~60年代のままの雰囲気を持つ地方都市に立ち寄った。
そこのレコードショップでとても日本では手に入らないTOKENS(トーケンズ=ライオンは寝ているで有名)のオールディスLPを買うことが出来た。
アメリカ中西部が自分にとって宝の山である事を知ってしまった。
此れがその後2泊するナッシュビル(=テネシー州)でのレコード爆買いに繋がるのだった。
|
中西部のスプリングフィールドの町並み、車はまさに70年代。 |
|
「ライオンは寝ている」で有名なトーケンズのLP |
砂漠地帯と異なって回りに緑地帯が広がる中、ひたすら荒野の一本道を進む広いフリーウェイはやはりバックにイーグルスやドゥービー・ブラザースのカントリーロックが似合うような気がした。途中で入ったレストランでこれまたカルチャーショックを色々感じたのだった。
セルフで自分がアイテムをチョイスして会計を行うレストランに入った時の事。
とにかく皆食い物がデカイ!レタスサラダ・・と品名と値段が書いてあってレタスをそのまま半分に切ったものがゴロゴロ置いてある。
ドレッシングは日本で言う「オタマ」で掛けるのだ。スウィーツにいたっては中華丼程の器一杯に色々な種類のアイスクリームが乗っていて、それに原色のドロドロ・シロップを目一杯かけるのだ。
観ているだけで戻しそうになる代物だった。したがってスイーツは止めてデザートにメロンを頼む事にした。
何故かこの果物だけは別に裏のほうから持ってきてくれる様だった。
色々お客が触ると痛むからだろうか?で、ハーフ・オブ・メロンと書いてあるのを指差して頼んだ。
暫くして出てきたものを視て椅子から転げ落ちそうになった。
なんとトイレの便器かと思うほどの大きさの横長スイカが半割りになって出てきたのだ。
大の男4人で掛かって食べても余る程だった。あの千疋屋の網の目に囲まれた高級メロンを想像していたのだが大失敗だった。
また帰りの夕方、セントルイス近くの住宅街でバドワイザーのネオンが点いた酒場に若林さんの弟さんと一緒に皆のビールを買いに入った。
木で出来た入口の階段を上がり、いわゆる西部劇に出てくる酒場のスイングドア(顔の部分にしかない小さなルーバーの両開きドア)をギギーッっと開いて中に入った時の事。
店内に居た全員がそのままの姿勢で顔だけこちらを向け、足のつま先からてっぺんまでジローリと見つめられてしまったのだ。
背の低い東洋人が、白人しか居ないアメリカ中西部の夜の酒場に登場した訳だ。
英語はネィティブに近い若林さんの弟さんだったが、背が低く未成年に見えたのか、IDを見せろと言われていた。
落ち着いて店内を見回すと全員ブルージーンを穿いた大男ばかりで、3人ほどはテンガロンハットを被ったままだった。
それと髪に縦ロールを掛けた女性が数名居て、もう映画のセットのようだった。
ホンキートンク・ピアノこそ無かったが’60年代のジュークボックスが置いてあって、スローなC&Wミュージックが流れていた。
今だったら絶対にカメラを持って行って撮影したかった。
幾ら青山のヴァン ヂャケットでウエスタンスタイルが流行っているからって、此処までピュアな生活に根ざしたウエスタンスタイルを視てしまうと、一部だけ真似したりうわべの雰囲気をパクるだけではオリジナルに対して失礼だと思ってしまった。
色々この現地で思う所があり、此れ以降青山に戻ってもウエスタンスタイルは封印する事にしてしまった。
セントルイスの後ニューヨーク経由でナッシュビルに入った。
勿論ニューヨークはこの時が初めてで、これまた大興奮だったが、同時に色々失敗を重ねてしまった。
まず最初に行こうと思ったのはカタツムリのようにグルグル巻きのグッゲンハイム美術館だったが、5番街を探しているうちに思わず対面に在る巨大なメトロポリタン美術館に入ってしまった。デカイだけに丸一日見て周り、物凄く疲れたのを覚えている。
結局あのグッゲンハイムには行かず仕舞いで未だに足を踏み入れていない。
そのほか、サウスポーという左利き専用のモノだけを売っている雑貨屋、ブルーミングデールス、メイシーズ、それに今と違って当時は著名探検者御用達のアウトドアショップだったアバー・コロンビー・&フィッチなどのデパートを視て回った。
デパートのショーウインドウは夜になって再び出かけ改めて其のディスプレイを撮影をした。
|
つい入りそびれたままのグッゲンハイム美術館 |
ニューヨークではセントラルパーク南端のEssex Houseという高級ホテルに2泊宿泊した。
多分相当高級なのだろう。今でも一泊一部屋$500はしているようだ。
当時はまだコンビニでドリンク等を買い込んで部屋に持ち込む等と言う過ごし方には慣れていなかった為、若林Headにフロント(もしくはルームサービス?)に電話してオレンジジュースを頼んで貰った。
|
セントラルパークが一望のエセックスハウス。 |
暫くしてノックの音がして部屋に入ってきたのは、大きなお腹が出っ張ったカイゼル髭のおじさんだった。
手のひらを上に向けて指を立てた店屋物の蕎麦を担ぐ店員の持ち方で銀色のお盆を高々と掲げ、部屋のデスクに置いた。
しかしそのジュースたるや銀色の装飾器にカキ氷が山と詰まったモノの真ん中に小さな小さな試飲用グラス程のコップに入ったオレンジジュースが乗っていた。アッと言う間にふた口で飲み干してしまった。
周りのカキ氷に残ったジュースを掛けて飲みたい!と言ったら若林Headが言ったのは、ただ一言「ヤ・メ・ロ」
|
エセックスハウスのルームサービス、フレッシュ・オレンジジュース。
|
ニューヨークでもレコード屋にはしっかりと行った。
勿論本来の出張目的であるファッション関係のお店には丸一日を当てた。
若林Headの案内でBrooks Brothers(=ブルックス・ブラザース)、J.PRESS(ジェー・プレス)、Paul Stuart(=ポール・スチュアート)、Ralph Lauren(=ラルフローレン)にはそれぞれ充分時間を掛けて店内を視て回った。
勿論マドラスチェック満載のブルックスブラザースでは長時間ねばった。
ちょうどあのTake Ivyでトラッドファッションとアメリカの文化風俗に感化されてから10年だった。
時代の流れと自分の願望が叶う可能性の実感と、達成した時の喜びを感じたのがこのBrooks Brothersの店内だった。この感覚はその後の人生に非常に大きな意味を持つことになった
ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目で海外出張.その3
▼
ちょうどこの初めての海外出張の約10年後、筆者が大手広告代理店に移っていた1985年頃、バブルの絶頂期にオンワードがJ.PRESS社を買った。その際J.PRESS初めてのカタログ・ブローシャーの製作を依頼され、10日間ほどニューヨーク、ボストン等東海岸をロケ・撮影で回りいわゆるアイビーリーグの各大学を殆ど回ることが出来た。
|
最初のJ.PRESSカタログ本はプロデューサーの特権で其のほんの一部
100冊だけ表紙を筆者が大好きなマドラスチェックの布で装丁した。
此れは業界内で非常に好評だったが殆ど関係者の間で分けられてしまった。
|
しかし、この1975年の時にはニューヨークにあるコロンビア大学に行けただけだった。
この大学はセントラルパークよりずーっと北側のハドソン川に近いエリアに在ったと思う。
其処までのタクシーがクラシックを流していて、非常に良い雰囲気の白髪の老人運転手だったので、思わずチップを弾んでしまった。
ニューヨークのタクシー、今は殆ど全て新しい車両になってしまっているが、当時はまだタクシー毎に個性のある車両が走っていた。
其の頃のタクシーの画像だけ集めても面白い写真集が出来るのではないだろうか?もう既に在るかもしれないが。
|
よほどのベースボールファンなのだろうか?
あのTWISTで有名になったチャビー・チェッカーのレコードジャケットにもこういうのがあったような気がする。
|
|
|
・・・と思ったら、自宅のコレクションに在った。これは出張後に買ったものだ。 |
この時の1日は残念ながら一人で行動だったので、自分の画像はないが、あのパット・ブーンが卒業したコロンビア大学迄行って見た。
このコロンビア大学の一番大きな建物の大階段をバックに彼自身が写っているレコードジャケットがあるのでご覧頂こう。
自分がコレクションしている彼のレコードの中でも一番古い1956年発売の貴重なLPだ。コレクターズアイテムで現在50ドルはする。
|
1956年リリースのパットブーン、Dotレーベル最初のLPアルバム。 |
このニューヨーク出張で知った、あるいは学んだ幾つかの事柄。
世界のニューヨーク5番街で買い物をした場合、手に一杯のブランド品の紙袋・紙包みを持ってホテルに戻るのは初心者の過ごし方らしい。
勿論筆者は高級ブランド品になどまるで興味は無く、せいぜい米国オリジナル盤の中古レコードくらいしか購入しないのであまり意味は無いが、ブランド品を沢山購入する若林ヘッドはいつも手ぶらでホテルに戻るのだった。
日本直送かと思いきや、ホテル名と部屋ナンバーを教えて持ってこさせるのだった。
此処で教わったのはルイ・ビトンやグッチ等の人気有名ブランドの旅行バッグを2つも3つも抱えて旅行する日本女性がいるらしいが、ニューヨークなどだとホテルのドアボーイに「貴女のご主人様はどちらですか?」と訊かれると言う。
向うの金持ちは自分で荷物等運ばないのが当たり前。
これ見よがしに高級ブランド品のバッグを沢山抱えて歩くと、荷物運びの召使いだと思われると言う、此れは決して作り話ではなくまともな話。
それ以外にも、英語がまだ全然出来なかった(決して今は充分出来ると言う訳ではない)だった筆者は、ハンティング・ワールドやティファニーで店員が「グッドイーブニング、ジャーマン?」とドアを開けてくれるのが不思議だった。
で、何故ジャーマン、つまりドイツ人に見られるのだろうか?と若林ヘッドに訊いたら「バカッ!あれはジャーマンじゃなくって、ジェントルメン!と言っているんだ、お前もう少し英語やら無いと入社取り消すぞ?」と言われてしまった、トホホ。
2泊3日のニューヨークを後にして、JFKではないラガーディア空港からナッシュビルへ飛んだのはアメリカに入って5日が経った頃だった。
ナッシュビルでは若林ヘッドはでかいアメ車のレンタカーを借りた。
いつものドライブのように平気でフリーウェイを飛ばす所を視ると相当慣れているなという感じだった。
こちらは空港からダウンタウンに至る街道筋のビルが殆どレンガで出来ていて、其のビルの建物に大きくペンキで会社名や電話番号が描かれているのが珍しくかぶり付きで見入っていた。
|
今残っているかどうか判らないが、1975年頃はアメリカ中西部にこのようなビルの外壁にやたら社名をペンキで書きたくったビルが沢山存在した。極めてアメリカらしい佇まいだった。 |
ナッシュビルと言う町の名は随分前から雑誌メンズクラブのC&W特集等で散々見て知っていた。
此れはメンズクラブと言う雑誌の編集部の好みなのだろうか、何故かカントリー&ウエスタンミュージック、特にナッシュビルでのグランド・オル・オープリーを高く評価し掲載する事が多かった。
今と違って月刊誌だろうが週刊誌だろうが「雑誌」と言う媒体の影響力は非常に大きなものがあった時代だったのだろう。
このナッシュビルでは、到着した其の日にいきなりCMA(Country Music Association)本部へ連れて行かれた。
此処は全米のC&Wソングの元締めで、施設の中には録音スタジオもあり訪問時も誰かが録音を行っていたが、其の録音室を見て腰を抜かしそうになった。
何と録音スタジオには藁が敷かれ牧草の塊が5~6個転がっているのだった。
其の中で楽器を抱えたスタジオミュージシャン数名が一生懸命演奏していた。
この時たまたまCMAに来ていた有名なジョージ・モーガンに出逢えて若林ヘッドはもう大変な興奮だった。しかし筆者はそれほどC&Wソングに詳しくないので一緒に写真には写ってみたものの若林ヘッドほどの感激は無かった。
|
左から筆者、George Morgan、若林ヘッド。1975年5月7日。 |
しかし、なんと記念撮影した2ヵ月後この著名な歌手はこの世を去ってしまったと言う。
隣にはC&Wの殿堂C&W Hall of Fameが建っていて数々のC&Wソングの歴史や著名な歌手、貴重な品々が展示されていた。
ジョージ・モーガンは我々と記念撮影をした直ぐ後此処の住人になってしまった訳だ。
|
地元のローカル・レーベルから出ているジョージ・モーガンのLP |
しかし此処ナッシュビルの記憶はそれだけではなかった。
この後人生を変えるほどの買い物が出来たし、憧れのオールディズ歌手の生唄を聴く事ができたのだ。
買い物はコレクターズアイテムのオールディズジャンルの米国原盤レコード200枚(未開封)。オールディズ歌手はスキーター・デイビス。
この後ラスベガスでオリビア・ニュートン・ジョンのステージも観られたが、何と人気絶好調の彼女は前座だったのだ。色々学んだアメリカのエンターテイナーの世界。アメリカ出張の旅はまだまだ序の口だったのだ。この話は2週間後にアップする予定。
・・・・・・・・・to be continued
|