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ヴァン ヂャケットの社内エピソード、
              自転車ロードレーサーに熱中する.その1

アメリカ出張から戻り、雑誌メンズクラブへの寄稿作業を終了し、本格的な販売促進部員としての仕事に没頭したのが1976年、1977年だった。

新しい内見会実施手法の研究実施などもこの2年間に集中している。
いわばヴァン ヂャケット販売促進部員としてもっとも仕事に集中していた頃だろうと思う。
そんな頃、1977年8月同期の横田哲男氏含め自転車を乗り回しているグループの誘いに乗って北海道半周サイクリング旅行へ突然参加する事にした。ここからは少しヴァン ヂャケット社員としてのオフ・デューティ、つまり仕事以外の時間の話を少ししよう。

ちょうどアイスホッケー部を大阪遠征時、部員達の真夜中の馬鹿な悪戯に頭にきて即自主退部した直後でもあり、体がウズウズしていたのも確かだった。

それに我が父が4月10日桜満開の中、急病で他界した事もあり、脳の中全てをリフレッシュさせる意味で、気分転換に良いと自分自身判断したのだろう。
 
それまで中学生以来自転車というものにはあまり乗ったことも無かったが、熱心な横田氏もしくは堀氏が何処からか黄色いロードレーサーを手に入れて来てくれて、まったくの初心者の筆者にあてがってくれたのだった。

此れがきっかけでその後10年以上ロードレーサーに魅了され、自転車に乗りまくったのだった。その後1979年に銀座の広告代理店に転職後、あの本田技研がフランスの自転車プジョーを輸入する際、中心的スタッフの一人として支援をする事に成るのだが、この黄色いロードレーサーは其の点で自分にとって大いなる下地になった重要な自転車だった。

自転車の前輪と後輪を外して真ん中のフレームと3段重ね餅状態にして、輪行袋という防水袋に入れて列車内などに持ち込み旅行をするなど、このツアーに参加しなければとても判らなかった。

  8月1日夜行で八戸まで国鉄フェリーで苫小牧
  8月2日苫小牧泊
  8月3日札幌泊
  8月4日岩内泊
  8月5日洞爺湖温泉泊(間近で有珠山大爆発)
  8月6日函館青函連絡船泊


八戸までの夜行列車は鈍行ではなかったが、上野駅の地下ホームから出発する、高校時代のスキー教室以来の東北線夜行列車だった。十和田5号は寝台専用列車ではなく寝台車は繋いであるものの自分達は普通の座席で乗って行った。車内はほぼガラガラだった事を覚えているので、定期列車の十和田5号ではなく臨時列車だったような気もする。

 新幹線が開通し現在の八戸駅はビルになっているが、この頃はまだこのような平屋だった。

翌8月2日昼前に八戸駅に着き、港から昼ごろ発のシルバーフェリーで苫小牧に渡った。苫小牧港に着いたのはほぼ日が暮れて既に暗い夜だった。自分としてはヴァン ヂャケット内見会で札幌プリンスホテルに4泊ほどした時以来の北海道だった。

 八戸ー苫小牧間は現在もシルバーフェリーが就航している。

翌朝8月3日は早くに民宿を出て支笏湖を目指したが、既に前日八戸駅から八戸フェリー港まで、及び苫小牧港から市内の民宿までの数キロに乗っただけでお尻が痛くなっていて其の先の長距離が思いやられる有様だった。

用心深い性格でありながら支笏湖に到着して調子に乗り、直ぐに湖でボートに乗ってしまう辺り、今考えると実は後先を考えない危ない性格だったと見える。

同行した1年先輩リーダー的存在の堀俊治氏に全てをまかせっきりだった為、全体の行程や其の日の行程を事前に調べる事をせず、初めての長距離自転車ツアーだと言うのに体力配分等まったく考えなかった。

其の報いが出てしまったのが、支笏湖畔を北上し、つい数年前行われた札幌オリンピックのアルペンスキー滑降コースを急造した恵庭岳の東方の峠を越える辺りで 完全に足が上がってしまった。

この足が上がる・・・と云うのは自転車で走った人間にしか判らない。マラソンでも起きない症状で、もう両足が鉛のようになって筋肉が全然反応しなくなる状態を言う。この状態から開放されるのには最低でも1~2時間は掛かるだろう。

今から約40年前の北海道の山の中だ。当然ヒグマは今よりはるかに多く生息しており人間に対しても今以上に凶暴だったに違いない。黄色い看板に「熊に注意!」と書いてあるのはてっきり観光用だと思い込んでいた筆者等、ヒグマに遭遇しなかっただけ御の字だったという事だ。実際、途中でパトカーに出会い、熊が危険だから急ぐように注意された記憶がある。

しかし其のルートを計画したのは自分ではないし、知らぬが仏、ヒグマの危険もさほど感じなかったのは今思えば冷や汗ものだ。それに第一上り坂で足が上がってしまい、自転車に乗って漕いで等行ける状態ではなかったのだ。まさに非常に危険な状態だったのだ。

此れは現在の熊出没注意の看板、当時はもっとオレンジ色だった。 

やっと札幌に向かって川沿いに下り坂になってから、サイクルツアーらしい雰囲気を感ずるようになっていたが、お尻の感覚はもう既に自分のものでは無かった。
札幌すすき野のグリーンホテルに付く頃は、もうそのまま倒れても良い位に感じた。しかし市内の大谷会館にあるヴァン ヂャケット札幌支社に顔を出し、販促担当の近藤氏から揃いのTシャツを貰った。

北海道庁前で記念撮影、撮影者は写っていない堀さんだろう。 

この時はすすき野のラーメン横丁「おぢぢ」というお店が記憶に残っている。
これは販促部員後輩でアイスホッケー部の田村収君に教わり行ったものだと記憶している。
ちなみに彼は八戸東高校でアイスホッケーでのし上がり、明治大学か法政大学のスターとして一時期日本の大学ホッケー界で名を成した人間らしい。

4日目は前日貰ったばかりの揃いのTシャツを着て、札幌道庁、北大キャンパス等を訪れ記念撮影後、小樽経由で日本海側の岩内町まで約100kmの行程をこなす事になる。

小樽経由で岩内町に向かう朝立ち寄った札幌時計台。 

この時、最後の岩内町に向かう西日を正面にした丘陵地帯の道路は先頭を行く堀氏がスピードを出し、バテ気味の我々を尻目に常に1つ先の丘のピークをクリクリ走っていて、その夕陽に浮かぶシルエットが非常に印象的に脳裏に刻まれている。




ヴァン ヂャケットの社内エピソード、
              自転車ロードレーサーに熱中する.その2
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岩内町~洞爺湖温泉~洞爺ー輪行ー大沼~函館がその後のコースだったが、忘れもしない38年前!有珠山・昭和新山の手前の公園で休憩し、国鉄洞爺駅まで下って輪行袋に自転車を詰めて列車に乗ろうと準備をしたその時だった。

ドドーン!と物凄い地響きと共に山の上のほうに真っ黒い雲が棒の様に空高く立ち上ったのだった。まさに有珠山が爆発した瞬間、その火口から5000m以内に居た訳だ。

昨日のブログを視て、横田哲男氏のご指摘で堀先生は北海道ツアーには参加していなかったとの証言が・・・。嗚呼時と共にボケて行くこの記憶よ!

1977年8月6日朝9時過ぎ爆発

有珠山爆発当日の朝、函館行きの急行すずらん1号(不定期急行)が洞爺の駅を出たのが09:20、有珠山の爆発は09:12だから、爆発のホンの少し前には更に近くに居たわけで、まさに危機一髪だったという事。

走り出した列車の窓に顔をくっつけて爆発の噴煙を見上げたような記憶があるが定かでは無い。大沼駅で下車して函館山目指して再びクリクリ走って夕刊を見たらまさに有珠山の爆発の記事が1面トップに出ていた。
その後2000年に再度大爆発を起こすが、噴火予知を行いやすい火山として有名なので事前に避難が徹底していて、さほど大きな人的被害は無かったようだ。

この函館では実は有珠山以上に驚いたのが、港で決して若くは無い女性達が沢山立っているのを視た時だった。
いわゆるプロの女性達らしく、皆さん港のほうを見て立っていた。
実はその時は、そうとは全然知らず「函館のカーちゃん達は偉いね?トーちゃんを待ってああやって立って待ってんだ。やはり日本は地方地方で風習が違うんだね?」と言ったら皆に大笑いされてしまった。

北島三郎の歌う「函館の女」の意味がやっと判った様な気がした。

北島三郎の代表作「函館の女」 

この函館で泊まったか否かは記憶に無い。
確か深夜頃の連絡船に乗って青森に渡ったような気がするのだが・・・。
青函連絡船に乗ったのは後にも先にもこの時限りだ。

青森についてそのまま青森駅から上野行きの特急電車に乗ったきりもう前後不覚で爆睡に入りまったく記憶が無くなった。

この道南半周ツアーで自転車の魅力に嵌まった筆者は、横田哲男氏のウンチクに魅了されながら自ら設計図を描いて東村山の自転車屋さんに自転車を発注するのだった。

横田氏は圧倒的なフランスプジョーの信望者で、レイノルズ531とか言う当時最高峰の自転車フレーム用の鉄鋼チューブを使用したプジョーのレース用ロードレーサーに乗っていた。
このレイノルズ531の由来は、5:3:1の割合でマンガン:モリブデン:ニッケルを配合していたからだという。

横田哲男氏と愛車プジョー・ロードレーサー 

同時に前フォークの角度だの、フロントギヤ(歯車)とリヤギヤの掛け合わせがクロースレシオ(ギヤ比が近く微妙な調整が可能)だのワイドレシオ(ギヤ比に幅があり山登り等に適す)だのを教わったのも、この横田氏と堀先生だった。

トラッドとアイビー、男子の生き方に関しては厳しい筋の通った知識と理念を持つ横田氏だが、それがそのまま自転車の世界にも広がっている感じで、常に走る自転車辞典という存在だった。
もう一人の堀俊治氏はVAN倒産後、自転車好きが高じて、とうとう神奈川県大和の自宅で自転車屋さんを開業してしまった。ヴァン ヂャケットの人間達には中途半端な者はあまり居ないという事だろう。
     Ram's Bicycle shop 
http://blog.555nat.com/?eid=905433

ちょうどこの頃はMade in USAなどの本が世の中でもてはやされたハシリの時期でもあり、アウトドア系の情報が沢山入って来始めていた為、Kartland製のサイクルバッグのセット等を購入し、基本的には競技自転車であるロードレーサーを峠越えのワイドレシオ山岳用自転車にして、あちこちのツアーに金魚の糞状態で付いて行った。

八ヶ岳の麦草峠を越えたあとの下りかスズラン峠辺りか? 

元来スタミナには自信があったので、信州の山岳地帯1日150km走破等という事もやった。八ヶ岳の麦草峠を越えてみたり、松本の奥の白馬村まで行ってみたり、軽井沢から蓼科山まで走ったりしたのもこの頃。

最終的には2台の自転車をオリジナルで発注し、当時最高峰の部品メーカー、イタリアのカンパニョーロの縦型ディレーラー(変速機)を手に入れて装着してみたり、クロスカントリー専用のタイヤを付けて山登りをしたりした。

早春の房総半島一周ツアー。平均時速40km位で海岸線を走った記憶がある。 


遠出をしない時には、住んでいた三鷹から多摩川の堤防上の自転車専用道路を飛ばし、当時の野猿街道沿いに在った池田CAPの家まで行って、自転車仲間とつるんで走ったりもした。陣場山、正月元旦の茅ヶ崎パシフィックホテルまでの新春ラン、あるいは早春の房総半島一周ラン等ありとあらゆるコースに挑戦した。

野猿街道沿いに在った池田CAP邸前でヴァン ヂャケットのサイクリスト達。 

1978年元旦。
三鷹を午前3時に出て茅ヶ崎まで元旦ラン。後ろは茅ヶ崎パシフィックホテル。

挙句の果てには、三鷹から水道道路を走り、代々木上原から表参道を抜けて青山3丁目5-6のヴァン ヂャケット青山356別館まで自転車通勤もした。

ラグビージャージを着て車の間をぬって出勤すると大体45分で会社にたどり着いた。

この事が、その後ヴァン ヂャケット宣伝部から請われてマガジンハウスに転職した同期の内坂庸夫氏の手伝いで、雑誌ポパイの自転車特集号にスタッフ参加する事等に繋がっていくのだ。


                            ・・・・・・・・・to be continued



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