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ヴァン ヂャケットの社内エピソード、
              自転車ロードレーサーに熱中する.その3

何事にも凝り性で、人と同じ事をするだけでは決して満足しない性格の筆者は、自分で造った寸法、自分で部品アッセンブルを行い、自分の好きな色使いのフレームで自転車を組み立てたいと思った。同じ販促部SD課にいた池田裕氏(1985年頃早逝)がイタリアに行くというのでカンパニョーロの縦型ディレーラーを買って来て貰った。
 
そうして、レイアウトパッドに大きく目指す自転車の設計図と言うか考えをまとめたものを作画してみた。勿論この道10年以上の堀先輩、同期のサイクリスト横田氏のアドバイスを受けての事だが・・・。
 
で、手書きでトレーシングペーパーに描いた完成予想図を東村山のDiossというお店に持っていったところ、「んーん!」と唸ったまま若き店主は黙り込んでしまった。

親の後を継いで自転車屋さんを始めたのではなく、自転車が好きで好きで堪らなくて自転車屋さんを始めたのだと言うこの店主は、其処までする注文客は居ませんでしたとばかり、物凄い思い入れでその描かれた自転車を造り始めてくれたのだった。


http://1.bp.blogspot.com/-L-JxB7iYWHw/VXzBCFYtjlI/AAAAAAAANM0/ytOxPEywuzA/s320/1977%25E8%2587%25AA%25E4%25BD%259C%25E8%2587%25AA%25E8%25BB%25A2%25E8%25BB%258A%25E8%25A8%25AD%25E8%25A8%2588%25E5%259B%25B3B_blog.jpg
トレペにコンパスと定規以外はフリーハンドで描いた当時の設定予想図。 

 東村山のDiossというお店。散々お世話になったがその後どうしたろう?

此れが自分の自転車に対し一時的に盛り上がった熱中度のピークの始まりだったような気がする。
結局最終的にはオリジナルで3台の自転車を造った。
あれから40年近く経った今は貿易自由化・円高その他の理由で、当時高嶺の花だったブランド製品、プジョー、チネリ、コルナゴ、ビアンキ、デ・ローザなどの有名自転車たちも決して買えない価格ではなくむしろ「こんなに安かったっけ?」という感じだ。

その一方で40年前と一番変わったのが道路事情だ。とにかく車の数が半端ではない。
三鷹から多摩川を渡って郊外へ行けば地道の自転車走行に適した田舎道はあちこちに在ったものだが、今は整備され宅地化され舗装されて国土地理院の5万分の一の地図を見ていてはまったく判らず迷子になってしまう。

当時はまだまだ郊外開発の初期の頃。町田街道の地道の側道に入り、林や竹林を抜け警視庁の白バイの訓練所などを抜けて走ったことがあった。
半分山奥のような地道をクリクリとペダルを漕いで走っていたら、当然急に前方の景色が明るくなり高い崖の上に出た。あの時のショックは未だに忘れない。

眼の前に広がった景色は何処か遠い星の大都会のように見えた・・・・って、其処は筆者が初めて視た、出来て間もない多摩ニュータウンだった。
まだ当時の人口は3万人程度で世帯数も1万世帯に達していない現在の1/7の規模だったが、いきなり映画のセットのように出来上がった高度成長下の大型新興住宅地は、充分最新の未来都市の様に見えたのだった。

 当時は多摩の奥地にはまだこういう地道の農道が沢山存在していた。

その町田街道も今や怖くてとても走れたものではない。
40年以上前、20歳代の当時とは歳も違い車の走行を予測する等、反射神経が持たない。
地理・地形、見た目の景色が変わってしまった為、携帯電話、スマホだろうがガラケーだろうがGPSで現在位置を把握しなければ完全に迷子になってしまう。
現在サイクリングを楽しむには、車の屋根に積んで郊外へ2~3時間移動してから自転車を走れせねば成らない時代になっているようだ。


 三浦半島半周RUN

当時の横須賀駅で記念撮影。撮影者は筆者。


 八ヶ岳、麦草峠横断に向かう朝、国鉄小海線・八千穂駅頭で。
 
このときは峠近くで雪道を通過と言う過酷なツーリングになった。 

 
 旧中仙道のバス停で一服。いかにものどかな農村の佇まい。NHKラジオ第1放送、
平日のお昼のニュースの後に流れる「昼の憩い」のテーマソングが最もふさわしいシーンだろうか?

NHK昼の憩いBGM= https://www.youtube.com/watch?v=9QLuvzjLlQo (YOUTUBE)


道路事情に次いで変わったのがサイクリング・ウエアだろう。

40年前はツール・ド・フランス、或いはパリ⇔ルーべのようなクラシックレースでのチームウエアを真似した上着は既に在るには在った。
しかし、なかなか高いうえ手に入らず、余程のファンでもない限り、サイクル雑誌に出てくる有名選手のようなスタイルで自転車には乗らなかった。
第一、ロードレーサーで郊外へ行っただけで「あっ!競輪だ!」と言われた時代だもの。

むしろ当時は神田の「スポーツサイクル・アルプス」を中心としたランドナー或いはパスハンターと言われる郊外地道走行者・峠越えを主眼に置いた伝統的なサイクル集団のスタイルのほうが正統派とされていた。(=スポーツサイクル・アルプスは東京都千代田区内神田にあった自転車店。商号はアルプス自転車工業株式会社。ランドナーやパスハンターなどのツーリング車を得意とし、受注生産のみの販売を行っていた。2007年閉店。ウィキペディアより)

サイクリングのウエアーに関しては見れば一目でそのライダーの好み・走り方が判ると堀先輩から教わったものだ。
この堀先輩は完全にランドナーに乗って伝統的かつ基本的な自転車道?を極める筆者にとっても伝道師のような存在だった。エネルギーの配分、道路の走り方、地図の見方、休憩の取り方等数々の「専門的実践に基づく教え」を事細かに伝授してもらった。

 
 自転車における大先輩、ヴァン ヂャケット同僚・堀俊治氏。
 
正月ランでは三鷹から茅ヶ崎まで南下。ニッカーボッカーにノルディックセーター。
シャ-ロックホームズ帽にパイプなど英国のサイクリストを気取っていたようだ。
 
 
ハードな峠越えにはやはりサイクル専用ウエアで挑んでいるようだ。 

此れが後の雑誌ポパイにおける自転車大特集「RUN・RUN・RUN」に見事花咲く事に繋がって行く。

考えてみればマガジンハウス社の雑誌ポパイの1981525日号はプロデューサー内坂庸夫(元ヴァン ヂャケット宣伝部)プランナー・ライター新庄俊郎(元ヴァン ヂャケット販売促進部)アドバイザリースタッフ堀俊治(元ヴァン ヂャケット営業)同じく横田哲男(元ヴァン ヂャケットKent営業)など元ヴァン ヂャケット社員OBで作った様なものだ。

つまり1970年代半ばのヴァン ヂャケット社内には遊びの範疇であっても雑誌の特集をまとめる事が出来るほどの自転車・サイクリング知識と経験を持つ社員が沢山居たという事なのだ。
こういう社員が育つ環境を創り上げた意味でも石津謙介社長の理念は絶対に間違っていなかった、・・・と今にして思うのだ。

更に、この自転車に関しての色々な話はその後、1978年4月ヴァン ヂャケット事実上の倒産後、銀座の広告代理店に転職して後あるスポンサー(有名な自動車メーカー)の依頼で輸入自転車販売プロジェクトにメイン参加した際、大きな成果を挙げる事にも繋がって行くが、その話はもう少し後になる。

話は変わるが、1974年頃から東部アイビーリーグ8大学の学生ファッション中心にVANブランド、Kentブランドで成長を続けていたヴァン ヂャケットがカリフォルニア=ウエストコーストのアウトドア系ファッションのソースを入れ始めた事は何度もこのブログで述べた通りだ。
当時その流れの中で自転車の存在は非常に大きなものがあった。
L.L.Bean,Eddie Bauer,Shierra design, Camp7
など数多くのアメリカ西海岸アウトドアブランドに必ず付いて回るバイク(=自転車)はそのうちマウンテンバイクのジャンルを生み出しメジャーなスポーツに発展する過渡期だったのだ。

 
既に自転車に関わる備品などにはThe North Face(※決して北の顔・・・ではない)
などのアメリカのアウトドア・ブランドが入って来ている。
 

その意味からしても実はヴァン ヂャケットのなかでもファッションとしてではなく実践的にバイク=自転車にのめり込んでいる社員達は時代の先取りをしていたと言って良い。

前出以外にも販促部には池田忠CAP、横国同期の藤代氏等自転車に関しては熱中派が結構居て、暇さえあれば連れ立って遠く信州白馬村まで遠乗りをした。

 
ハッチバックに3台の自転車を積んで遠出をした。
 
安曇野を行く池田氏(前)藤代氏(後ろ) 


松本まで自転車を車の上に積み、松本に車を置いて其処から交通量の少ない池田町を抜けて一路白馬村往復をするなど残された写真が物語る当時の自転車熱は相当なものがあったと言える。




ヴァン ヂャケットの社内エピソード、
              ヴァン・ファミリーセール
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いつ頃から始まったのか良く判らないが、クリスマスプレゼントというノリでVAN社員の家族・関係者・得意先関連の上顧客を対象に、1973年4月に筆者が入社するはるか以前から限定招待・ファミリーバーゲンセールを行っていたらしい。

初めの頃はクリスマスプレゼントのイメージを強調する為サンタクロースの衣装を着て会場を回った社員が居たという事だ。
まさか石津社長ではないとは思うが、「遊び」のノリで世の中的には非常に羨ましがられた催事だったという事だ。

当然招待券はプラチナペーパーと化し、売買されたりプレミアムが付いたと言う伝説があるようだ。筆者も入社が決まった1972年の12月、招待券を貰って朝早くから北の丸公園の科学技術館に並んだ覚えがあるが、物凄い列だった。

 
 
 12月21日が金曜日なのは1973年だから、此の招待状は1973年の物だろう。
 

此れが毎年の暮れ恒例の催事になったのは1971年あたりからだったようだ。

本来は当初一回限りの予定で実施したものの、予想外の売り上げ数字に管理部門が驚いて「此れを放っておくのは勿体無い・・!」とばかりに翌年の売り上げ予測に確率度Aランクで入れてしまったのだろう。
数値だけしか見えない管理・係数管理部門に良くある話だ。

結局売れるから止められなくなってどうしたか。商品量を増やし、招待券の配布枚数も増やし、開催日程も増やしたのだ。
そうなるとどうなるか?もう現場は大変な状態になる。
非現業のほぼ全社員が会場の北の丸公園にある科学技術館・現場に借り出され、販売促進部員など当然最前線で連日運営管理に寝る暇も無かった。
だんだん大掛かりになるにしたがって、更には売り上げが行き詰ってからは本番前の値札付けなどの倉庫作業にまで借り出される様に成った。

このVANファミリーセールでは色々な事件が起きた。
何年目かにはスタッフ社員に配られた昼食の弁当で食中毒が発生、数人が救急車で運ばれたりした。同じ昼食弁当を2個も完食して何とも無い筆者のような者が居る一方で、可哀相に入院した者も居たようだ。

 
 科学技術館がアパレル会社のバーゲン会場になるとは当時理解し難かった。

そういったスタッフ側、主催者側の問題より重大な問題が現場で起きたのだった。
ある年、会場警備係の担当になり、迷子や落し物を探して会場を巡回していた時、お客様のオバサンたちが会場の隅で座って輪になってワイワイ言いながら選んだ商品を確かめている場に遭遇した。

皆で手にした商品の最終決定をしているのかと思って遠巻きに観ていた。
しかし各人どうも1つの商品に妙に集中するので、何かと思って良く観察をしてみたら、何と値札を安い物に付け替えているのだった。

ただでさえ相当安い価格でサービスしている商品の値札を更に安い別の商品の物とせっせと付け替えているのだった。

8人ぐらいの丸い輪で全員が同じ事をしていた。勿論違反行為だし刑事告訴すれば本当に手が後ろに回る事になる。完全に悪いと判っていての確信犯だ。
大バーゲンの熱気の中で「赤信号、皆で渡れば怖くない!」のノリでやっているのだろう。
ヴァン ヂャケットも舐められたものだ。

またある時、靴の売り場でVANリーガル等の人気商品山積みの平台(商品陳列台)が定位置からズレているので元に戻そうと動かしたら、平台の下から汚い靴が2~30足も出てきた事があった。

要はその場でサイズ合わせをする振りをしてそのまま未払いの商品を履いて帰ってしまっているのだった。

またある時には中学生もしくは小学生高学年の子供がスイングトップ・ジャンパーを着てきたジャンパーの下に重ね着をしてそのまま帰ってしまおうとした所をレジの女子社員が気が付いた事もあった。

つまり、自動的に好きな物だけ買い物袋に入れてレジに持っていくだけの単純なシステムだった為起きた事だった。「VANファミリー」としてのお客様をあまりに信用しすぎたのと、売り場を全然監視しなかった事により起きた「集団出来心」的な不正の数々だった。

そこで、こういった不正や万引き行為を防止する必要が有ると本部に報告したら、すぐさま専門チームが編成される事になり、提案者の筆者がその責任を任されたのだった。

そこで、アイスホッケー部のメンバーを中心に2班を作り、持ち場を決めて巡回する事にした。もうこの際の業務遂行については後で色々な人から言われてしまった。

「あの時のシンジョーさんは物凄い形相で怖かった。」「似ている奴が居るなー、とは思ったがまさかシンジョーだとは思わなかった。アイスホッケーの試合中みたいだったよ!」など色々言われてしまった。余程不正摘発に燃えて正義感を高ぶらせていたのだと自己推察する。

調べ始めたら色々な場面に遭遇した。
中学生ぐらいの子がやたらと胴体が太っているのでおかしいと思いレジから出た後も尾行してみた。
科学技術館の敷地の端にある公衆便所に入ったので一緒に入り用を足す振りをした。
そうしたら仲間が待っていて、彼の着ているジャンパーの中からボロボロと同じ紺色のVANスウィングトップが丸められたまま出てきた。全部で8個もあったのだ。直ぐに元どうりに納めさせ、そのまま本部に連行した。

またあるときは大柄の詰襟学生服を着た青年2名が真新しいステンカラーコートを着て妙に早足で並んで会場を移動している。何かおかしいと思ったらKentのコート裾の仕付け糸がバッテンのまま付いているではないか!そのまま2名で連れ立ってレジを抜けたので、もう一人の見回り隊員と一緒に声を掛けて本部に連行した。

そうしたら何と同じコートを2枚重ね着していた。
連行の途中に係りの一人が振り払われ転倒し、筆者もグーで強烈な一発を食らってしまった。それで逃げようとするので、思わず一人に飛び掛りタックルして駐車場に倒し、急所を握って押さえ込み静かにさせ、駐車場係に大声で「頼む!万引きだ、そいつ!」と逃げるもう一人を指した。そうしたら駐車場の担当はアメリカンフットボール・ヴァンガーズの強力な面々だった。
アッと言う間にその万引きを取り押さえて一緒に本部に連行した。
連行して驚いたのはその2名が武道でもバンカラでも超有名な世田谷に在る大学の空手部員だった事だ。
翌朝見事に青タンの出来た顔を見て社員に言われた「隊長!リンクの外では程々にね?」全員が既に昨日の武勇伝を知っていたのだ。


 
会場内の熱気は半端ではなかった。 


しかし本部はアッと言う間に不正を働いた入場者で満杯になり、まるで留置場の様に成ってしまった。

管轄の麹町署のパトカーが4台も駆けつけて大騒ぎになったが、「このような出来心を起こすような販売方法を採ったVANさんのほうもいけない」と逆に指導を受けてしまった。

「じゃあ、状況がそうであれば万引きや盗みは不問にされるのか?」と周りを囲んだ社員達のクレームに対し返答は「勿論盗みは悪い、今回の件はすべて調書は取る!
VANさんが被害届を出し窃盗者を訴えるんであれば受理しないでもない・・・。」という事だった。 

残念ながらせっかく現場を捕まえたのにトップの判断で不問にする事になってしまった。
しかし2時間も3時間も本部の厳重な監視の下に警察の来るのを待たされ、写真も撮られ恥ずかしい思いをした人々の口コミ効果は非常に強力で、翌日以降万引きや不正は激減したのだった。

むしろ、北の丸公園の科学技術館現場に到着するはずの商品満載の荷物車を、某幹部社員が経営する郊外の自分のお店に配達させて横取りしたなどという話も出て(噂の域を出ないが)1976年以降は毎回大混乱だった様だ。


                            ・・・・・・・・・to be continued

この続きは “ VAN SITE ” 本頁に掲載していきます。
ただし、掲載予定は管理人の気ままな性格からして、いつになるかは分かりません。
悪しからず! なお早めに読みたい方は新庄氏ブログ
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