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その昔、1972年頃のネスカフェというインスタントコーヒーの宣伝に「アムステルダムの朝は早い・・・。」と言うのが在った。
バックにはロバータ・フラックの「やさしく歌って/ Killing Me Softly with His Song」をネスカフェに歌詞を替えて歌うという、非常にお金を掛けたCMだった。
このアムステルダムを「青山通り」に替えて「青山通りの朝は早い・・・。」とか言いながら、毎日朝早く始業1時間前に青山3丁目に出社するのが入社からすぐの自分の日課だった。
三鷹から原宿まで国鉄に乗り、原宿の駅から表参道の並木道を青山通り246まで歩いて、左へ折れて青山3丁目まで歩くのがルートだった。
※ネスカフェCM=
http://www.youtube.com/watch?v=yhcKDjcJu7o YouTube
残念ながらこの映像には「アムステルダムの朝は早い・・」は入っていない。 |
この、表参道を毎朝歩くと言うのは、当時の世相とファッション情報を吸収するのには最適のコースだったようだ。丁度1973年は塩素で強力に脱色したブリーチアウト・ジーンズが流行り始めていた頃で、男の長髪、プカシェルという白い小さなゴミみたいな貝殻を数珠繋ぎにしたものを首に巻くのが流行っていた。言って置くが、当時のブリーチアウト・ジーンズは、此処数年前から流行ったワザとひざ小僧や太ももの部分をすり切れさせた様な古着タイプではなく、もっと品の良い清潔な物だった・・・着ている人の品格はともかくとして・・・。
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強制漂白のブリーチアウト・ジーンズ。ブルゾンと上下で着こなすものが多かった。
何故かポロシャツの襟を立てて着こなす流行もこの頃から始まっていた。
今でもまだやっている人を見かける。 |
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プカシェル、サーフィン風俗から発生したのだろうか? |
たいがい、そういうスタイルで粋がっていたのはコピーライター、デザイナー、
イラストレーターといった横文字職業のハシリのようなクリエーターが多かった。
しかし青山通りの表通りを闊歩する大半は外観だけ真似たニセモノ達だった。
そうして、なおかつそういう人たちが小脇に抱えていたのが何故か決まって小さな皮製のポーチだった。
勿論VANの社員にはそういう格好で出勤する者など一人も居なかったが、たった一度だけ石津社長がまさにその格好でいたのを観て腰を抜かした事がある。
たぶん何かの取材で特別の事だったろうとは思うが・・・。
既に、気の効いたクリエーターや、全盛期を迎えていた雑誌メディアの編集部に出入りしている人種が、好んでこの表参道の裏側のアパートやマンションに住み始めていた頃だった。
朝はそういう人種たちが最先端のファッションに身をまとい、昨日のゴミを自宅から外へ抱えながら出て来るといった情景が垣間見られた頃だ。
時には朝早く、ドブ板を細い尖ったパンプスのヒールで踏み抜きながら、ものすごく高そうな毛皮をまとったモデルのような女性が、よろけながら表通りに出てくる場面に出くわした事もある。
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明治通りと表参道の交差点にあったセントラルアパート、クリエイターの事務所が多かった。
VANの時代にも何度か出入りしていた。 Google画像 |
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今は無い原宿・同潤会アパート、毎朝この横を通った。 Google画像 |
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毎朝の通勤路が表参道というのも、素晴らしい環境だった訳だ。Google画像 |
表参道界隈は朝と夕方で景色がガラッと変わる。
通りを歩く人種もファッションも替わる。
朝は一人で動く人ばかりだが、夕方から夜に掛けては2人連れのカップル、あるいは3~4人のグループで溢れるのが表参道の並木道だった。
まだ当時は坂の下の明治通りの近くまで行かないとお店の類は多くなく、既に全国に名をとどろかせていた原宿キディランドや、入社翌年1974年に開業したパレフランスなどの辺りが若者のたむろするエリアだった。
まだ竹下通りは単なる住宅街の通りで、国鉄原宿駅に近い辺りに「原田」という輸入物を扱っているシャツ洋品店があって、アンアン、平凡パンチ、メンズクラブなどのファッション系雑誌が、この店で扱っているウエスタンシャツなどを盛んに取り上げ始めたのがブームの走りだと思う。
輸入盤専門店の原宿メロディハウスが明治通り近くにオープンしたのも、ちょうどこのVAN入社の頃だ。
ちょうどRaspberries=ラズベリーズというバンドが流行っていて、その年にリリースされた面白い凝った形のLPジャケットにラズベリーの甘い匂いが付いていたらしく、やたらと店内に甘い匂いが充満していたのも覚えている。
白いレンガのマンションの一階で、白い紙にMelody Houseと書かれた袋を何度も小脇に抱えて青山の帰りに立ち寄った。
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Raspberriesのレコードジャケットは斬新なデザインだった。曲も勿論最高だった! |
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ジャケットを開くとこうなっていた。 |
この、竹下通りから明治通りを挟んでまっすぐの道沿いにGIMというニットのメーカーが社屋を構えていて目立っていた。この辺りに「かまち潤」と言う音楽評論家というか、オールディズの洋楽コレクター兼オーソリティが居て一時お付き合いした事があった。
たまたまこちらもLPの輸入盤コレクターのヒヨッコだったので、誰かの紹介で知り合ったのだった。既に有名だった木崎義二氏とか、同い年の大瀧 詠一氏とか音楽界の著名人と一緒に発行していた同人誌「POPSYCLE」と言う本の編纂を手伝った事があった。
この辺りの話は永くなるので、もう少し後にしようと思う。
素人ながら2~3冊の本が書けてしまう程の資料とレコードコレクションが在るので、話し出したら止まらない。
ともかく、毎朝1時間前に青山三丁目角のVAN本館3階へ出勤して、パンチカーペット敷きの床にローラーを掛けるのが新入社員の朝の始まりだった。
灰皿のタバコの灰を捨て、洗って布巾でぬぐって各デスクに置く。
そうして販促課員全員のデスクを観察してどんな雑誌、どんな本を読んでいるのかを探った。同時に嗜好品をチェックして、それぞれがどのような趣味思考を持っているのかを推察した。
たとえば若林ヘッド(決してヘドではない)、彼は人事的な肩書きとしては課長だが、VAN社内では常時一般的にこういうアメリカっぽい呼称だった。
彼のデスク上にはアメリカの洋雑誌エスクワイヤーが置いてあり、NHLというアルファベットの盾のようなものがいろいろなマークとともに幾つも置いてあった。
音符のマークやペンギンのマーク、ワシだか鷹のマーク、Bとアルファベットが黄色と黒で大きく描いてあるモノもあった。
訊いたらNational Hockey Leagueの事、つまり全米アイスホッケーのプロリーグの各チームのマスコットだった。
NHLのアイスホッケーに関してVANはその後も大きく関わって行く事になる。
安達さんと言う先輩のデスクは、まるでウエスタン雑貨屋さんの店頭のようだった。
ウエスタンブーツにライターが埋め込まれている物とか、木彫りのカントリー風の農夫の人形とか、南北戦争のときの南軍の旗のミニチュアとか、きっと説明でもさせたら1時間でも2時間でも一つ一つに関してのうんちくを語りそうな気配だった。
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このころの東京にはウエスタンショップが出来始めていた。 |
こうして、隣のハートのマークの第一勧業銀行の更に隣の果物屋で買ってきた、グレープフルーツの皮を剥き、ラジオから流れてくるFENの朝のミュージックを聴き、窓の下の青山通りを行きかう人々を観察しながら、まだ他にだれも居ない始業前の販促課の時間を毎朝楽しんでいた。
今考えても、自分の人生で一番ゆったりとリラックスしていた時間だったのではないだろうか?
入社して2週間が経った頃、こういうことがあった。
いつものように1時間前に出社して床にゴミ取りローラーを掛けていたところ、大きな真っ黒で油ぎったゴキブリが出てきた。
こりゃ大変!ローラーで押さえ付け、テイッシュペーパーに包んでから叩き潰して捨てた。
以前此処に人事課が在った時から居たのだろうきっと。冷蔵庫とかがあるし、流しも傍にあるのでゴキブリが居てもなんらおかしくない。
で、次の日同じ様にローラー掛けをしていたら、又ゴキブリが出てきた。
昨日のより少し小さ目の色が茶色の奴だった。「まだ居たのかコイツら!」と同じように処理をして捨てた。
それから2日して又朝掃除をしていると、今度はとても小さなゴキブリが出てきた、茶色いが首の辺りに白い横帯が入っている。
こいつは小さいので簡単に雑巾でひっぱたいて殺そうと、手を上げた時に思った。
ちょっと待てよ?ひょっとして最初に殺したのがお父さんゴキブリで、次の日に殺したのがお母さんゴキブリだったのではないだろうか?両親が死んでしまって餌にありつけないので、しょうがないから子供がノコノコ出てきたのでは在るまいか?
それを殺してはあんまり可哀相だ。
こいつはまだ小さいから大きくなるまでにはまだ間があろう。それまで慈悲を持って執行を猶予してあげよう。
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左からクロゴキブリ、ヤマトゴキブリ、チャバネゴキブリ |
とても良い事をした気分になって、その日一日が楽しみになった。
9時半を過ぎて皆が出勤して席に着いたとき、軽部キャップ(=CAP)に得意そうにこの話をした。笑いもせずジーッとこちらの顔を見ていた軽部さんがこう言った。
「バカだなーお前ね?そのゴキブリ3匹全部種類が違うんだよ!」
VAN宣伝部・販売促進課、最初の仕事は全国得意先のリスト確認だった。
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原宿の駅から表参道を通って青山三丁目までの道の途中にはアメリカ的というか、そのころの日本にはまだなかなか無かったアメリカの香りのするお店が点在していた。
当時は「Made in USA」という日本の若者達の文化風俗に大きな影響を与えたムック本がまだ出る前だったが、アメリカ文化が徐々に都心にも浸透し始めていたころだった。
それまでは在日米軍のキャンプを中心に横須賀だの厚木だの立川界隈からその文化・風俗が国内に入ってきていて、スターズ アンド ストライプス(米軍星条旗新聞社)に近い六本木程度が都心でアメリカの匂いを感ずる事ができる数少ない場所だった。
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六本木のスターズ&ストライプス新聞、1985年日航ジャンボ墜落の日付 |
その六本木以外でアメリカ文化の最初の波が浸透し始めたのが青山だった。
1964年の東京オリンピックが始まるまでは、国立代々木競技場はワシントン・ハイツという米軍住宅だった。
したがって既に其の頃から表参道界隈にアメリカの匂いのするお店が少数ながら在ってもおかしくは無い。
それが1970年銀座にマクドナルドの店頭販売店第1号がオープンし、1974年に日本におけるファミレスの第1号店デニーズが横浜上大岡のイトーヨーカドー店内にオープンするや、一気にアメリカ文化が日本に入ってきた、青山は其の中心に在ったと言って良い。
その青山に本社を置き、通りのあちこちにVANの看板を掲げたビルを配し、街ぐるみで「VAN TOWN AOYAMA」と称した石津謙介社長の目論見は、直感的なマーケティング感覚とでもいうのだろうか、見事なものだったと思う。
アメリカ文化の浸透の波を見事に捕らえたものと言って良いのではないだろうか?
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銀座三越の1階にマクドナルドが出来た!ホコ天開始と相乗効果で休日は凄い人出! |
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1974年横浜・上大岡のイトーヨーカドーの1階にデニーズがオープンした。 |
其の表参道から青山三丁目に向かう途中に、ユアーズという非常にアメリカっぽい高級なスーパーマーケットが在った。
青山三丁目近くにもピーコックというこれまた庶民派のスーパーマーケットがあるが、ユアーズは少し趣が違っていてよりアメリカっぽかったし、まず外人のお客、そうして日本の芸能人の常連が多かった。
入口のペーブメントには、こうした芸能人たちの手形やサインが、本場アメリカロサンゼルスのチャイニーズ・シアターのように型押しされていた。
扱い商品は輸入雑貨、食品などが主流でスープ、缶詰、紅茶・珈琲、外国タバコ、クリスマス時期には飾りつけ用品などが豊富で、週に一度は必ず様子を見に入っていた。
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輸入食品のデザインは外国の匂いがした。英字プリントの段ボール箱を一杯貰った。 |
実はこのお店に頻繁に行った理由は、このお店の中ほどにカウンターの軽食スペースが在って、パスタやサラダ、サンドウィッチ、それにマクドナルドなどとは違う本格的なハンバーガーを食す事ができたから。
今で言うならばKUA AINAのハンバーガーが近いかもしれない。
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本物のハンバーガーは憧れのランチだった。 |
勿論クリームソーダやミルクセーキなどは定番のメニューだった。
で、このカウンターで飲食物をサーブしていたコックが行実(ゆきざね)君と言って世田谷の奥沢中学校のクラスメートだったので、週に一度はランチを此処で摂っていた。
彼が作ってくれるスパゲッティ・カルボナーラはVANの女子社員たちに好評で、本当かどうかは知らないがハンサムな彼には追っかけも居たと言う話だ。
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ユアーズの飲食カウンターは明るくてこんな感じだった。今言うならイートイン? |
この並びにはVANの企画や製作の入っていた第2別館と言う建物も在った。
東光ストアという東急系のスーパーの2階だったと思う。
今は在るか否か不明だが其の隣辺りに自転車や小さな靴屋さんがあった。
後年VANが会社更生法を申請して事実上の倒産という事になり、個人的にも残務整理で出勤していた頃、たまたま探し物でこの靴屋に入った時、先客に角川映画の「野生の証明」に出ていた女の子が、お母さんと一緒に店内に居た。
学校で履く靴なのか普段に履く靴なのか、品定めの最中母娘でもめていたのだろう、いきなりお母さんにどれが良いか?と訊かれた。
迷わず「履くのは本人なのだから本人が気に入ったので良いのでは?」と答えたら「ほーらねっ?」と其の女の子がにっこり笑ってこっちを見た。
彼女の名前は薬師丸ひろ子。
後で訊いたら彼女の家族はちょうどVANの別館356ビルの裏手に在る青山の公団アパートに住んでいたらしい。
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246青山通りのVAN第二別館、企画と製作に良く行った。
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有名になりかかっていた薬師丸ひろ子と、母親同伴の靴屋さんでの接点があった。 |
こういった、当時の青山通りを思い浮かべながら1973年の頃を振り返ると、意外にもまじめな自分が居た事が良く判る。
宣伝部販売促進課での仕事は、まずウエスタンに造詣が深かった安達さんのサポートから始まった。
彼はそれこそVANの生命線と言われた、販売促進ノベルティの事実上の管理者だった。
つまりVANのファンにとってはお宝・販促グッズの倉庫番。
同時にヴァン・ヂャケットにおいて、其の得意先を全て知っている全社中で数少ない人間の一人だった。いわば実務のオーソリティだった。
営業部門の社員は当然自分の担当得意先を把握しているので、得意先の窓口担当者の趣味志向、下手をすれば私生活まで詳しく知っていたりする。
しかし自分のテリトリー以外に関しては、有名どころは知っていても全店を知っている訳ではない。
ところが、販促課の安達さんは全国の得意先の名前と所在地・担当者名は全て知っている。何故か?
それは春夏に一度、秋冬に一度行われる全国販売促進キャンペーンの参加受付と販促ツールの発送を全て一手に引き受けているからだった。
北は北海道・稚内のYoung707から南は沖縄の那覇にあるリウボウ百貨店まで、間違いなく販促ツールを期限前日までに届けなければいけない。
販促ツールは全て有償でお店に販売するものだけに、そういう意味からもお客様な訳だ。つまり、安達さんが風邪で休むと全国キャンペーンは大変な事になってしまう。
配送は晴海の丸正運輸という会社が一括して行っていた。
今のように宅配便などは存在しないので、北海道や沖縄といった遠隔地への必要日数は今の倍以上掛かっていた。
郵便での発送もまだ郵便番号自体が事実上活用されておらず物流に関してはこういった丸正運輸のような中小の商店的運送屋さんが中心だった。
この丸正運輸の人が毎日のように、安達さんの所に発送の付け合せに通って来ていた。其の横でシステムやら配送チェックやらを手伝い始め、毎日残業が続き気が付いたらあっという間にベルトコンベアに乗せられたような感じでVANの販売促進課の仕事に入っていった。
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まだ晴海で丸正運輸は頑張っているようだ。
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当然新入社員だから、安達さんの横でキャンペーン全体の仕組み、販促物のお知らせの方法、得意先からの注文の受け方、注文リストの作り方、丸正運輸への配送リストの作り方、それぞれ全部のチェックの方法、お店からの着確認の取り方、変更の処理・・などなど。
それまで一覧表だの伝票だの電話の受け答えなど、生まれてこの方一度もやった事のない新人シンジョー君は暫くの間、来る日も来る日も毎日が別世界だった。
販促物の物流倉庫には頻繁に出かけた。
部屋で椅子に座っていては仕事にならない施工関係のスタッフは、日中ほとんど外出している。
出先表には関東エリアの地方都市が幾つも書かれていた。
都内は勿論の事、高崎、宇都宮、甲府、横浜、大宮、千葉。
一日中部屋に居るという事は、体がどこかおかしいと見ても間違いではないような感じだった。つまり何を言いたいかというと、彼らが部屋にいない間電話番は新人の仕事だったという事。
勿論電話の相手はお互い初めて声を聞く相手だ。
そこで「新米です、宜しく・・」などと挨拶をしていては、相手も不安だろうし、誰か話の判る奴に替われと言われてしまうに決まっている。
此処で安達さんの横にくっついて全国のお店と担当者をオウム返しに覚えた成果が出るのだった。
「おはようございます足利のシャイン様、いつもお世話になっております。キャンペーン・グッズ、2セットはもう届いたでしょうか?いつもお世話になっております安達の後輩で、配送を担当した新庄でございます。」と名乗ると大概は「あー、いつも有難う!きょうはキャンペーンじゃなくってお店のディスプレイの件で池田キャップに用なんだけれど、いる?」とスムーズに話が進む。
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当時はまだ黒電話だった。 |
この辺りの受け答え、言葉遣いは横浜の藤棚商店街の徳島屋酒店で丁稚奉公した経験が非常に役に立った。
販促課の誰も教えてはくれなかったが、この電話で話をするお店の得意先とは、遅かれ早かれ内見会という次期商品見本市・注文受付商談会場で、直接出遭う公算が高いと踏んでいたのだ。
・・・・・・・・・to be continued
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