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VAN宣伝部・販売促進課での最初の1ヶ月あたり。


これら安達さんのサポートとして最初の仕事があったればこそ、北から南まで全国のVANショップの名前を知る事になった。この知識はすぐこの後役立ち、大きな成果を上げる事になるがそれはさて置いて。

まず、全国の地図を頭に浮かべた。
小さな頃から地理が得意だったので、日本全図はもとより各県の位置・形、県庁所在地の場所はフリーハンドで描けた。

そこで札幌から那覇まで大型店の名前を暗記した。

当時の注目は北海道札幌市。札幌丸井今井、札幌そうご(そごうではない)、札幌三越、札幌東急、札幌松坂屋、五番館などなど、さすが100万人都市になる下地があった頃の札幌は全国でも急成長・話題の商業都市だった。


青森中三、盛岡川徳、仙台十字屋、仙台三越、山形十字屋など都市名に続いて百貨店の名前を覚えないと覚え切れるものではなかった。

福島中合、郡山うすい、川越丸広、金沢名鉄丸越、金沢大和など、それまでに聞いたことがない名前をどんどん覚え込んだ。
自分が育った北九州・小倉や熊本県の百貨店になると、懐かしさもあってついつい得意先担当者との電話が長くなってしまった。


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 1975年当時のVAN得意先リスト 雑誌メンズクラブと共同制作(電話番号無効)

なんとこの5~6年ほど前に初めて知ったのだが、小倉の附属小学校で同じクラスに居た中山清隆君が、其の頃小倉玉屋のVANコーナーでアルバイトをしていたという。

ちょうど彼がお店に出ている時にVANコーナーを訪れた石津謙介社長に直訴して、VANに入社する事を内定してもらったというではないか。

しかし、運命は残酷!天は彼に味方しなかった。
実家が北九州でも中堅どころの企業を経営していたため、跡継ぎである彼は泣く泣くVANへの入社を諦めたという事だった。
もし彼が入っていたら、小学校のクラスメートが同僚になるという、ちょっとした新聞ネタになったろうに。彼は今では北九州門司区と栃木県真岡に社屋を持つ立派な中堅企業の社長さんだ。


こうした大手の百貨店名を覚える一方で、各都道府県の得意先も覚えて行った。

しかしどんなに頑張っても、先輩の安達さんの記憶レベルにはとうとう最後まで達する事ができなかった。自分の記憶力の悪さを此の時ほど恨めしく感じた事はない。
安達さんの記憶力は信じられないほどの細かさと正確さだろうと思う。


たとえば伊豆の下田に「ウスイ四郎商店」という得意先があった。
キャンペーン・グッズもポスターは不要で大量のVANの紙袋とステッカー、パンフの類だけしか発送した事がなかった。
要はそれしか販促物の注文が無かったのだが、どういうお店かと訊くと、「地方のよろずやさんだな、何でも売っているお店」という事だった。
で、VANのどんな商品を扱っているのか訊いたら、ソックスだけだという。


VANのソックスだけ扱っていても、VANの紙袋はいくらでも注文できるから、取り寄せていたものと思われる。
つまり、軒先に麦藁帽子や草鞋を下げて日用品を売っているよろず屋さんでも、お店でVANに関係ないモノでも沢山買うと、当時若者に大人気のVANの紙袋に入れてくれる訳だ。


当時、これ以上の販売促進策は無かったろうと思う、なんという頭の良い経営者だろう。

しかしあんまりだよな?と思っていたら、安達さんが 「 他の商品ももう少し仕入れて頂かないと販促物ばかりお分けし難い 」 と電話でこのお店の店長と話しているのを横で聞いた事があった。
2ヶ月ほどして、安達さんがニヤッとこちらを見て言った、
「新庄!下田のウスイ四郎商店、商品の扱いが増えたらしいぞ。」
「どのくらい注文があったの?」と訊くと返った答えがこうだった。
「下着だよ、ブリーフとTシャツ1箱づつ!」

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 販売促進課きってのダンディ・安達先輩 VAN社員はハンサム揃いだった。


勿論、新宿のイセヤだとか、横浜のイソベ、京都のイノハナ、VAN高崎、大阪のナカガワといった日本のメンズ・ファッションの老舗、つまり情報発信ポイントとして、ヴァン・ヂャケット直営店と肩を並べて、あるいはそれ以上のプロショップとして大きな影響力を持つお店も多かった。

これらのお店に電話をする時には特に気を使い、毎回何かを得てやろうととても真剣だった。
特に関西のお店は電話口の向こうからプライドと共に、其のお店の顧客の注文・好みを完全に把握しているといった自信といったようなものが感じられた。
これを実際に確認するのは、その後出張で関西のお店に行って色々話を聞いた時の事だった。此の話は又後日。



このように、全国の小売店、大型店などの存在を把握し販促ツールを配送する事で、まずは基本中の基本、得意先の把握を行うのが、VANに入っての最初の仕事だった。

この辺りはヴァン・ヂャケット歴代最高の営業マン・販売員だった1973年同期入社・横田哲男氏のそれとはいささか異なっていたようだ。
第一、入社した段階ではこの名物男・横田哲男氏との面識は殆ど無かったと言って良い。


しかし、世の中は狭いものだ。横浜国大時代、体育会バスケットボール女子部のスター選手の従兄弟に佐野君という武道・拳法の全国レベルの達人が居て、横国在学中から知っていたのだが、其の彼がVANの営業部に同期入社したのだった。
其の佐野君がある日連れてきたのがこの横田哲男氏・・・「氏」というより自分にとっては「師」だった。

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横田哲男氏とはこの後、現在に至るまで長い付き合いになるのだった。


まあ彼に何かを喋らせると止まらない。
特にトラッドだとか、アイビーの専門用語の語源などをうっかり尋ねようものなら、大変な事になってしまう。
「喋るトラッド辞典」「壊れたIVYレコーダー」などと言われたのもこの頃の話だ。

彼がトラッドに関して一言口を開くとVAN社内であっても、たとえ池袋西武のVANコーナー店頭であっても店員・お客含めて其の座はシーンとなってしまう。
彼の脅しは非常に効果があってドスが効いていた。
其の決め台詞は「お話始めちゃうぞ!」だった。

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サイクリストとしても一流だった横田氏のユーモアは誰にも真似が出来なかった。


彼の凄いところは、単なるトラッド・アイビー知識人という事だけではなく、質実剛健・正義の味方、曲がった事は許さない、それで居て女性にはめっぽう弱いという、60年代の正義のヒーロー、スーパーマン、グッと砕けて身近だと「寅さん」のような存在で、目立ちたがり屋・気取り屋・カッコマン(古いね!)ばかりが多いヴァン・ヂャケット社内においては、非常に珍しい絶滅危惧種だった。

その代わり、石津謙介社長にはものすごく可愛がられた社員として、歴代BEST3に入るのではないだろうか?

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ヴァン・ヂャケットの精神に関しては、石津社長と同等に頑なモノを持っていた横田氏。


この横田氏の紹介・エピソード話は本一冊にもなるので、詳細は先送りするとして、この頃一番印象に残ったある事柄を述べたい。

いつもの通りキャンペーンの販促ツールの発送リストを整備している時に、安達先輩が「シンジョー、販促倉庫に行ってノベルティとプレミアムの一部と紙袋を取ってきて!」と販促課の鍵の束を放ってよこした。
当時は青山三丁目の角を国立競技場へ左折し本社別館・商品管理部の建物のほうへ行くと販売促進課の倉庫が在った。


時々丸正運輸の石川さんが紙袋や販促ツールの本社取り置き分を持ってくる都度、安達さんが入庫出庫確認をする場所だった。

自分では今まで行った事がなかったので、非常にウキウキした気分で倉庫に向かった。安達さんの「自分で欲しいのがあったら、少しなら持って来て良いから・・・」が凄く後押しをしてくれたのも確かだった。

それまで生きてきて「ヤッター!」と小躍りする事は幾度か有ったが、此の時ほどの感動・感激は無かった。
あの高校生時代にポスターカラーでレタリングして描いた、VANのロゴの紙袋などの本物が眠っている宣伝・販促倉庫に入れるのだ!
なおかつ、先輩から「少しなら持って帰って良いよ」とのお墨付きまで貰っているのだ・・・。こんな幸せって有るだろうか?

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 倉庫に眠っていた宝の数々のホンの一部。


震える手で鍵を開け、ドアを開けて倉庫の電気を点けた途端思った、「子供の頃本で読んだ海賊の宝物の洞窟って本当にあるんだ!」 




VAN宣伝部・販売促進課倉庫で悟った
                   「感動は3分と続かない」。



入ってみたら、もう大変!販売促進課の倉庫はまさに宝の山だった。

VANショップで商品を入れてもらい、大切に汚さずに折りたたんで持っていたVANの紙袋。
店員にオベンチャラを言いながら、次の買い物を予測させる振りをして、余計に貰ったステッカー類。
出来れば紙袋を一周して止めて欲しかった、VANロゴのセロテープ。

更に倉庫の奥の方にはお店でしか見たことがなかった木製のVANロゴ看板、壁面にディスプレイされていた黒・赤のペナント類。
何でもが揃って積み上げられていた。

1960年代からの企業としてのヴァン・ヂャケットのシンボル兼ブランドとしてのVANを同時に印象付けてきたロゴ・ツールは当時すでに生産中止だったが、オリジナル物がまだ少量販促倉庫に残っていた。 ヴァン・サイト画像より 



早速、安達先輩のお言葉に甘えて、欲しかった販促物を色々なサイズの紙袋と共に自分用の手提げ袋を二重にして詰め込んだ。

もちろん手提げ袋一杯に詰め込んだ。

安達さんから頼まれた販促物を持つ以外に、更に自分用の紙袋を持たなければいけないので、どうやって運ぶか思案に暮れた。
二度往復するしかないな・・・と思い始めていた。


其の時丁度倉庫の真ん中に、奥に棚の上のパッキン(=段ボール箱)を取り出すための脚立が在ったので、その上に上ってこのお宝の山の中に一人で居る幸せを暫し味わって置こうと思った。
どうせ今日は元々日曜日、休日出勤だから焦る必要は無い!

販促倉庫にはこういった穂積和夫氏オリジナルのイラスト画の印刷物が何故か8枚ほど残っていた。
ごく初期の段階で店頭で額に収めて飾ったのだろう。今となっては非常に貴重。



そうして、3段ほど脚立に登って腰掛け、販促物の山を見下ろし、満足感と幸福感に浸って1分ほどが経った瞬間!
心の中で何かが急に消え去っていくのをはっきりと感じた。

言葉で説明するのは文学的表現のボキャブラリーに欠ける筆者にとって非常に難しいのだが、「VANのノベルティに対する価値観・憧れ・収集欲」というか、興味がアットいう間に消えていったのだった。

これには正直自分自身、非常に驚いたし、ショックでもあった。
理由はハッキリと判っていた。今までなかなか手に入らない、貴重で希少価値のあった物が、いつでも自分の好きな時に欲しいだけ手に入るという現実に遭遇したからだった。


たとえばだ、片想いだと思い込んで、一生懸命どうやって気に入られようか悩み・考え、プレゼントまで用意した意中の美女が、実は向こうも随分前からこちらに気が在ったと知って、急に興味が薄れてしまうという感覚に似ているのだろうか?
勘違いしないで欲しい、勿論これは女性にモテる友達に聞いた話で、残念ながら自分ではそのような贅沢な気分は一度も味わった事がなかった・・・。


同じように立場が変わると、気持ちも急に変わるという例としては、バス停で通勤時にバスを待っていて、けっこう混んだバスが来てしまった、並んで待っている客が全部はとても乗れなさそうだ。

この時後数人で自分が乗れるという時の「バスの車内後ろの方はまだ余裕があるじゃないか?もっと詰めて乗せろよなー」と思う気持ちと、自分が乗れて安心した瞬間に思う「乗ったから、もう安心!すでに定員オーバーで満員なんだから早くバス出せよなー、乗れない奴は次が直ぐ来るって!」と思う自分勝手な気持ちの変化・・・に似ていないか?



いずれにせよ、「ええーっ?ナンダこの気持ちの急変は?」と思ったのが、たった3分の間の変化であった事は間違いない。

気持ちが変われば勿論行動も伴う。詰め込んで満杯になった手提げ袋から販促物を取り出し、殆どを元の他所に戻すのにそう時間は掛からなかった。

結局貰って自宅に持って帰ったのは、3色ベース違いのVANロゴセロテープ、紙袋全種1枚ずつ、ステッカー、ノート、その他の販促物各1個ずつ。
ペナント類や黒いVANロゴの木の看板も持って帰ったものの、最終的には後日横田氏に献上してしまった・・・と思ったが記憶は定かではない。

一方で木製の立体モノでVANロゴが白・赤・白に塗られた展示会など施工用切文字は自宅のドアにボンドで貼り付け、VAN倒産後も長い事15年以上そのままになっていた。

VANの三色ステッカー。
これも長い間保存しているうちに糊が湧き出てきてしまい、撮影用に提供したまま帰ってこなかった。
 





持って帰った販促物の殆どは、30年以上其のまま手もつけられず、自分のお宝箱に保存された結果、最近WEBサイト・「VAN SITE」主宰者の藤代氏にサンプル提供、皆さんも「VANサイト」上でご覧になられて充分お役に立っているので、決して持って帰ったのも間違いでは無かったという事だ。 



実は、今の今までゆっくりVANのノベルティに関して視た事がなかったし、其の存在自体空気のように感じていたものだったので、どのような造り方になっていたかはあまり気にしていなかった。

しかしヴァン・ヂャケットという会社は外から観た軽いノリの雰囲気とは裏腹に、企業としての「イメージ・雰囲気」を演出する事においては綿密に計算された、非常に優れた企業であり、又それを生み出す稀有な人たちが沢山居た事を今更のように感じた。


企業としてのプレスリリースや社長の公式文書(コメントなど)の頭に使うレターヘッドを多用した企業として、VANは時代の先駆けと言って良いだろう。非常に高価なオニオンスキン紙を使用していた。
これが手に入るもの販売促進課に入ったからだろう。
宣伝販促セクションが独自でオニオンスキン紙のレターヘッドを持っていたのも、
今考えると驚くべき事だ。
 
 
 通常のレポートに関してもVAN独自のステーショナリーが用意されていた。
入社数年後、百貨店の年末商戦期に応援販売に行った時、お客の高校生達に期間限定PRで一枚づつ分けてあげたら、次々に友達を呼んできて結構な売り上げを記録して売り場で褒められた事を覚えている。



たとえば、誰もが知っている初期の丸いステッカー。
最近でこそ昔のVANのイメージを復活させるべく、まったく新しい組織として再生VANが再びビジネスを始めているようだが、ノベルティその他販促物も当時のまま再現しているようだ。

しかし今はステッカーといえば乳白の塩ビなどを素材に印刷したもので造られていると思う。
1975年頃造られた台形のカー・ナンバープレート型のステッカーですら塩ビだから当然だろう。
しかし、ずーっと長い間我が家の引き出しに眠っていた丸型の最初の頃の伝統版ステッカーは何と素材がアルミ箔なのだ。


裏紙を剥がしてみるとすぐに判る。アルミ箔素材で造られたステッカーの特徴は、耐光性・耐水性に優れる事はもちろん、それ自体変形しにくく、なおかつ荒い表面への貼り付け力においても抜群の優位性を持っている。

たかが若いお客へのサービス品に過ぎないのだが、他ではまず使用しないアルミ素材のステッカーに執着している所が凄いと、今更のように思った次第。

 
現存する当時のオリジナル・ステッカー6枚だけ残っているが、素材がアルミであるため型抜きが大変で中心がずれた版ズレのものなどがあり、当時の苦労がしのばれる。
さすがに発色は印刷のノリも良く変形も全然無く、光沢も当時のまま非常に綺麗だ。

 
VANの紙袋は色々なサイズが在ったが、みゆき族の頃一世を風靡したのは一番左の異様に縦長のサイズのもの。手に提げるのではなく、二つ折りにして小脇に抱えさせるのが目的だった。
手提げにするよりもVANのロゴが高い位置に来て目立つという人間工学的なものだった。袋の生産効率から言えば非常に難しい紙取り寸法になるので、コスト的には高くついたと思われる。紙の色も普通のカーキ色よりも黄色がかっていて非常に個性的な魅力をかもし出していた。



 これ以外にも、まだまだ新しいジャンルの企業として他には無かった、試み・常識を徹底させていた数多くの事実を次回以降述べて行きたい。乞うご期待!



                        ・・・・・・・・・to be continued



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