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VAN宣伝部・販売促進課に入る事は自動的に
アイスホッケー部ヴァンガーズに入るという事だった。



1973年当時、読売ジャイアンツ・巨人にはまだ長嶋茂雄・王貞治が現役で居たし、驚異のV9最終年度に当っていた。
つまり自分が都立広尾高校2年の時から毎年ずーっと巨人が優勝していたのだ。

今そのV9の間巨人軍の監督を努めた川上哲治さんが生まれた熊本県人吉市でヤマセミの写真を撮っている事を思うと、奇妙な縁だと感じない訳にはいかない。



この青山のヴァン・ヂャケットに入社した1973年、世の中のスポーツに対する人気度・話題度とヴァン・ヂャケット社内の話題スポーツには、月とスッポンの差があった。

青山3丁目の本館へ入ると途端に世界が変わりアメリカンスポーツ一色の領域に入るのだった。社内報、パンフレット、カタログ、VANの御用ファッション雑誌メンズクラブの記事、いずれをとっても出てくるのはアメリカンフットボール、アイスホッケー、ラクロス、モータースポーツなどで、自分が自分で体験できるスポーツは殆ど無かった。

むしろプロやトップクラスの試合を観戦に行く・・・といったジャンルのものばかりだった。
学校時代サッカーやバレーボールを体育会組織でやってきた自分にとってはいささか拍子抜けする感じだった。


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 ヴァン・ヂャケットには社内クラブとして、これだけのスポーツクラブが存在した。
ヴァン・ヂャケット以前にも以後にも、このような会社は世界に存在しないだろう。

それが入社して1週間も経たない或る日、若林ヘッドが「シンジョー!これっ!」とだけ言って、ドサッととてつもなく大きなダッフルバッグをデスクの横に放ってよこした。
ポカーンとした顔でヘッドの方を見ると「今日からお前はアイスホッケーをやるんだよ」


丁度私と入れ替わりに宣伝部販促課を退職した中村勝治さんという方が居て、その方が使っていたアイスホッケー用具が全部自分に回ってきたわけだ。
中村勝治さんはその頃のヴァン・ヂャケットの会社案内の一ページに出ている。
勿論アイスホッケーの格好をして写っている。
自分で見ても自分に似ていると思うのだから、ヴァン・ヂャケットの先輩達が笑ってしまうほど似ていると言うのは良く判るような気がする。
この中村勝治さんは人気商店街中野ブロードウエイの商店街に実家がレコード店を経営していて、それを継ぐために退社したようなのだ。

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左が先輩・中村勝治さん、右は宇野さん(京都でメンズショップ経営)。
誰もが左は筆者だろうと言うが1972年の会社案内に私が写っているわけがない。
 

一度、お店まで挨拶に伺ったことがある。そのときにお店で買ったレコードが荒井由美の最初のLP「ひこうき雲」だった。
鼻に抜けるヒェーッ!っと云うような声で歌う「荒井由美」というシンガーソングライターが曲もろくに知らないのに気になったのは、彼女が広尾高校時代筆者と同期のマドンナが進学した多摩美出身だという事だった。

ひこうき雲というアルバム・タイトルと同じ曲は、どこか60年代後半に散々流行ったプロコルハルムの「青い影」の旋律を思い出させたが、19歳の女子大生が作ったにしてはシンプルで良い曲だとは思った。しかしその後も曲は好きな曲が多いが実際に歌うのはハイファイセットの山本潤子のほうがはるかに上手いと思うし心に響くと思う。

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荒井由美の最初のLPレコード。まだ我が家に存在する。 

またまた話がそれてしまったが、中村勝治さんが使用していたアイスホッケー防具1セットを頂いて、その週からアイスホッケー・ヴァンガーズの練習に入ったのだった。

場所は品川スケートリンク。今はもう無いが品川プリンスホテルのメインタワーが建っている辺りにアイススケート場があったのだ。

品川スケートセンターという名前が正式名だったと思うが、当時フィギュアスケートの渡部絵美がホームリンクにしていた。

或る時ヴァンガーズの練習時間・夜11時になっても渡部絵美が練習を切り上げず、15分が過ぎてもいつまでもリンクに居たので我々が全員リンクに入りパックを乱打する練習を始めた。

そうしたら、英語で何か文句を言っていたのを覚えている。
その後、当時彼女のパトロンだったのか、日本アイスホッケーリーグ国土計画のオーナー堤義明からクレームが入ったという話を聞いた、しかし本当かどうかは良く知らない。

このウインタースポーツ界の超有名人堤義明氏とは、個人的にも色々とこの先長野オリンピックに至るまで色々な所で不思議なご縁があった。

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今はもう無い品川スケートセンター。日本リーグを散々開催した場所。

品川スケートリンクはヴァン・ヂャケットで借り切って社内にあったアイスホッケーチーム4チームで紅白戦をやったことがある。

ヴァンガーズA、ヴァンガーズB、ラングラーズ、ヴァンヒューゼン・バイオーズ。
この社内対抗の時に石津社長がお茶目な提案をした。
「全員のお尻に風船をつけて鬼ごっこをしろ!割られたら負け!」 社長命令だったが、あまりの事に若林ヘッドが進言して中止した・・・というエピソードがある。


いずれにせよ、スケートリンクは東京でも限られた場所にしかなかった。
品川スケートリンク、池袋スケートリンク、高田馬場シチズンスケートリンク程度だった。
東伏見のスケートリンクは1973年当時まだ出来ていなかった。
北区王子の十条製紙スケートリンク(現在はすでに廃止)もまだ無かった。


なおかつアイスホッケーの練習をするには全面貸切にしなければならないので、物理的に練習時間は深夜~翌日になってしまう。

遅い時間の練習開始と翌日になっての帰宅なので、車での移動が必須になってしまう。
まだ車の運転免許も持ち合わせずどうやって練習に参加するか考えていたが、八王子野猿街道に住んでいた同じ販売促進課の池田忠CAPに毎回必ず送って貰う事でこの問題は解決したのだが、VANに在籍していた間は常にこの池田さんのお世話になっていた。
いわばヴァン・ヂャケットにおける大恩人のひとりだ。


実は当時も今も車に関してはあまり詳しくないが、この池田さんの日産スカイラインGT
はそれなりに車好きの人間には名の通った車だったらしい。

自分が免許を持っていない時分には車には更に興味も無いのだろう。
しかし自分的には車の免許を持ってからも、基本的に車に対する興味は一般の同世代とは随分違っていたような気がする。


一番欲しかったしカッコ良いと思ったのはピックアップバンだった。
後ろの荷台にDATSUNとかMAZDAと浮き文字でデカく書いてあるのが欲しかった。

今でも荷物を沢山積めて燃費の良い車が自分にとっての理想的な車だ。
ボディの色や形や最高速度など全然気にならなかった。
乗って車内に座ってしまえばそんなもの判らないし、無駄が嫌いでケチな人間としては余程燃費の方が気になった。

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池田さんが乗っていたスカイライン、正確には少し違うかもしれない。 


BMW・ベンツ・ワーゲンなどのドイツ車やサーブ、ボルボなどヨーロッパ車に一時興味を持ち何台か友人の車に乗せてもらったが、結局は壊れない、雪山でも何処へでも行ける意味で4WDのスバルに20年以上乗り続けている。

無駄な税金や高い修理代を払いたくないという気持ちの方がカッコ良い人気車に乗る欲望よりはるかに強いのだろう。
そういう意味からすると筆者の車に対する考え方は少し変わっているかもしれない。

またまた脱線してしまった。


2週間に3回ほどの練習日は、日頃のストレスを発散する為には格好のガス抜きタイムでもあったのだろうが、新入社員でなおかつアイスホッケー未経験者にとっては、おっかなびっくりの連日だった。


あの宣伝部宣伝課に配属になった体育会スキー部出身の内坂庸夫君も自動的にアイスホッケー部に入る事になった。

彼は競技スキー上がりで、もうベテランだからスケートも最初からスイスイ出来たようだ。
こちらは過去において2度しか氷の上に出た事がなかった。
実際スケート靴を履いて氷のリンクに出ると、イメージ的には人間が初めて宇宙空間に出たような・・・、つまり未知の世界に出たような気分になった。

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高田の馬場のシチズン・リンクでの写真。筆者は右、左・大野コーチ、中央・若林ヘッド 

しかし、アイスホッケーの防具をつけて、長いスティック(木製の長い棒)を持って氷に出ると、何かが随分違った。
ただ、スケート靴を履いて氷上・リンクに出た時と違って、安定感を感じ妙に安心感が有るのだ。同時に転んでも痛くない、怪我をしないという保険のようなものを感じ、最初から結構思い切って滑れたような気がする。そうして怖いもの無しになった気になる。


その瞬間こう感じたのをはっきりと覚えている。
「人間、ヘルメットを被って長い棒を持つとどう猛になる!そうか、大学の全共闘の連中がスポーツ音痴なのに暴れられたのもこれが理由だったんだ!」
 





アイスホッケー・ヴァンガーズ時代のエピソード。



毎年正月2日からヴァンガーズ・アイスホッケー部の合宿が軽井沢で行われた。

ヴァン・ヂャケット在籍中には3度ほど参加した。
軽井沢といっても中軽井沢からスケートセンターを抜けて山に入り、中腹にあるグリーンホテルが宿舎で連日軽井沢スケートセンターとグリーンホテルとの往復だけの3日間だった。

ほんの3km程度の距離だが移動は毎日専用の貸し切りバスで行われ、映画で観るアメリカのプロ・アイスホッケーチームのようだった。

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今は無き軽井沢グリーンホテル、昔は由緒あるホテルだったようだ。
 Google画像より
 


練習して食べて寝るだけだから、相当上達は早かったように思う。
昼間アイスホッケーリンクは一般に貸し出したり、国土計画や西武鉄道といった当時の日本リーグの上位チームが使用していたため、我々が使うのは夕方から夜にかけてだった。

昼間の我々は屋外のスケートリンクで一般のスケーター、スピードスケートの選手達と一緒にコースを回り練習した。主に体力向上とスケーティング力を養うのが目的だった。

ちなみに世の中の動きは早く、すでにこの軽井沢スケートセンターというものはこの世に無いと聞く。一時はスケートセンターホテルなどと言うものまで在ったというのに・・・。

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軽井沢スケートセンター・屋外リンク。幾つもスピードスケートの記録を生んだ。Google画像


最初は勿論スケーティングが下手で、皆に付いて行けなかったが、20周もすればコツを覚えヴァンガーズの集団には付いて行けるようになった。
そうなればもうこっちのもの。半年前まで大学のサッカー部の現役だったので、90分間フルに動いてもバテない体力だけはあった。

いつの間にかヴァンガーズ先頭集団でトップ争いをしていた。
ライバルは山田 力さんという背の高い細身の選手だったが、これがまた全然バテない!きっと北海道か北国出身なのだろう。

その後この山田 力さんとは自転車のツーリングであの同期の横田哲男君、自転車のスポークで骨格が出来ていると思うほど自転車に詳しい堀俊治先輩(現在・サイクルショップ・ラムズ経営=http://cyclestores.net/kanagawa/ramuzu/)など同僚4人で北海道を半周したが、やはり自転車でもなかなかバテないスタミナ男だった。

当時の軽井沢スケートセンターは都心からお客が相当押し寄せていて、西武鉄道・国土計画のリゾート施設としては非常に成功していた部類に入るだろう。

1974年の正月が一番最初の軽井沢合宿参加だったが、屋外リンクに行った時に出遭ったのがデビュー間もない「キャンディーズ」だった。

「あなたに夢中」と言う曲で3ヶ月前にデビューしたての頃でステージで生の歌を聴けたのを今でも自慢にしている。
何故かピンキーとキラーズなどデビュー時のスターに出遭えることが多く不思議な運命だ。

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 キャンディーズのデビューシングル。最初は故田中好子がセンターだった。Google画像


昼間は屋外リンクで耐久走、夜は屋内リンクで防具をつけてフォーメーション、試合形式での練習を繰り返した。

木造の屋内リンクは夜になると当然氷点下に気温は下がり氷は非常に硬くなって絞まる。氷と云うモノは氷温で其の硬さが全然違う、これは実際に滑ってみると非常に良く判る。

都内のリンクだと滑ってもスケートの刃が氷面に食い込んで行き力が入らない。
これに対し氷点下の気温の中で軽井沢のリンクを滑ると表面を蹴った力が100%以上の力で戻ってくるような気がする。

つまり加速力が全然違う。
その代わり腰が入っていなかったりするとカーブで遠心力に負けてしまう。
しばらくして慣れると少しの力でトップスピードになるので、逆に怪我も多くなる。


木造のスケートリンクの壁に綺麗な長方形の穴が不揃いに開いていた。
最初はデザインかと思ったがそうではなかった。
訊いてみたら、国土計画や西武鉄道のトップ選手が放ったシュートなどでパックがあけた穴だと言う!あまりのスピードにパックの断面=長方形そのままの穴があいていたのだ。
勿論我々のスピードではあく訳がない。

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アイスホッケーの防具はこれだけ身に付けていた・・・の図。Googole画像顔差し替え 

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愛用したLANGE(ラング)のホッケーシューズ。
裸足で履き通した、裸足のほうが足の裏で直接氷の感触を掴めてプレーに良い結果が出ていた。
この頃はスキー靴も裸足で履いていた。
これらは同期の内坂庸夫氏(マガジンハウスのスポーツ関連ベテランライター)のアドバイス!
実際そうしてみると、まったく言われたとおりだった

こうしてアイスホッケー部でも皆と同じように試合に出してもらえるようになって、幾つかのエピソードがある。

我が上司軽部CAPは天を突くような大男だからリンクに立つとスケートの歯の高さも加わって相当大きく見える。

この人と敵味方になり、ゴール裏の狭いところで鉢合わせすると、物凄い恐怖感を感じた。
何度も上にのしかかられて潰された。
会社で仕事中良くこう言われた「シンジョーまたゴール裏で逢おうな!」


会社の恒例行事でアイスホッケーの社内対抗戦というのが毎年品川スケートセンターで行われた。普段は社内にヴァンガーズ、ラングラーズ、ヴァンヒューゼン=バイオーズのチームと3チームあったが、社内対抗戦をするには4チームが必要だった。

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社内報VAN PRESSでアイスホッケー社内対抗戦の予告が行われた。 Vanサイトより 

其処でヴァンガーズをA.B2チーム造るために普段は練習などしていないけれど、名前だけヴァンガーズに所属している幽霊部員も参加する事になる。

この時とばかり自分の彼女に良い所を見せようと、彼女同伴で参加してくるにわか選手が多数居た。

普段練習などしていないから、格好だけはアイスホッケー選手、しかしスケートリンクでは、初めて氷に出る様な滑りでどうしようもない姿だった。



普通は試合前選手が名前を呼ばれると、観客席のヴァン社員が囃し立てるヤジと歓声の中、氷の上をシャッシャッシャッと軽やかにダッシュして来て、自分の並ぶ位置でシャッ!と急制動で止まるのがカッコ良いのだ。

しかし、この俄か選手はそれが出来ない、リモコンで動く初期のロボットのように両手を前に出して固まったまま、直立不動であちらこちらリンクの上をぐるぐる回りながら、途中で持っていたスティックを落としたり、スティックを中心に一回転してしまったり、爆笑する観客の中最後は両脇を同僚に支えられながら、自分の位置に到達するのだった。

これを見て観客席の彼女が恥ずかしさと情けなさに居たたまれず、試合前に帰ってしまったという話もある。


更に、試合が始まる前にアップの意味でフェンス トゥ フェンスというダッシュの練習が或る。

この紅白戦の試合当日、あまり練習に参加してきていないメンバーが、彼女を連れてきて良い所を見せようと力んだのだろう、この練習のダッシュで転び、フェンスに足から激突した。

足を痛めてリンクから上がり、あの歩きにくいゴムマットの床を歩いて休もうとした所、彼女がやってきて「情けないわねぇ、しっかりしなさいよ!」と、ど突いた。
その途端、何とかヒビが入った状態でやっと持っていた足首がクネッと完全に折れてしまい、その場に倒れ救急搬送されてしまった。


自分は其処まで酷くは無く、社内対抗戦でハットトリックをやって殊勲賞を貰ったり、東京都社会人1部リーグで得点したり、素人初心者上がりにしては周りに恵まれて面白くてしょうがない時期でもあったが、或る時をもってスッパリ辞める事にした。


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 社内対抗戦の結果もVAN PRESSにて報じられた。 Vanサイトより

理由は3つある。一つは試合中、相手選手ハイスティック(スティックを高い位置で振り回す反則)で筆者が顔面に打撲を負い前歯4本(差し歯3本含む)が折れて落下したのだ。

審判の「ピーッ!」という笛の音ともに「直ぐに歯を拾いなさい!」という声がまだ耳に残っている。


2つ目は同じく試合の最中、敵選手とパックを争って追っている時、カーブに差し掛かり腰を低くしてボディチェックに備えた、そうしたらお互い同時にボディチェックをした瞬間相手が消えてしまった。

瞬間的なエネルギーで相手がリンクの外に飛んでしまい、プラスティック製のベンチ(森永乳業とか描いてあるやつ)に激突し、下半身の骨が数十個に折れてしまったのだった。
50針以上の怪我をさせてしまった事で非常に申し訳無い気持ちになり、その後の試合に全然力が入らなくなってしまった。


最後は大阪遠征中のホテルでの出来事。
力を出し切った試合の後、深夜熟睡中にヴァンガーズのマネージャー(人事部所属の女性)が部屋に電話を掛けてきて部屋に来てくれという。

残念ながら異性としては何の興味もない相手だし、明日にしてくれと一度は断ったが、何か困っているような事も云うので仕方なく部屋に行った。
部屋の前に行くとすでに部屋の前で入口のドアを開けて待っているではないか、しかも部屋の電気はついていない。

「冗談だろう?」と思いつつ部屋の電気をつけようとすると「つけないで」と言う。
部屋に入りつつ、レディの部屋に入るときのマナーとして「絶対にドアだけは開けておけ」と言って部屋の中の椅子に座ったが何かがおかしい。


其のうち部屋の隅で「クスクス」と言う笑い声が複数聞こえて誰かが部屋のスイッチをつけた。そうしたらなんとアイスホッケー部のメンバーの一部が5~6人もベッドの向こうに隠れて居るではないか!

担がれたのだ、試されたのだ、
悪戯されたのだ。

これにはモーレツに頭にきて大声で怒鳴ったような気がする。

そうして部屋にあった電気スタンドを取り窓に向かって投げつけようとしたが、後ろから羽交い絞めにされてしまった。
羽交い絞めをしたのはいつも練習後送ってくれるあの池田CAPだった。

池田さんに羽交い絞めされてはどうしようもない。
しかし、この瞬間アイスホッケー部に対する気持がどこか一気に冷めてしまったのも確かだった。

腹を立てたまま翌日一人で東京に戻り、さっさとアイスホッケー部に退部届けを出した。



                        ・・・・・・・・・to be continued




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