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最初の大仕事はVANMINIの七五三キャンペーンだった。
                                


此処でヴァン ヂャケットの意匠室というものの存在をご紹介。
もともと宣伝部には宣伝課・販売促進課という2つのセクションが在った。
これは筆者が入社した時点での話だ。だから入社時の配属先は宣伝部・販売促進課に見習い採用となっている。
そうしてその時点で宣伝部に意匠室というデザイナー達のルームが在り、当時のVANのイメージは殆どがこの部屋から生まれ出たと言って良い。

正確には確認していないが我が上司軽部キャップもこの意匠室に一時籍を置いていたという。デザイン的な素養とセンスを持った人間がプランニングとディレクティングを行えばもう鬼に金棒だ。

そういう意味からすると世の中に出て、最初の上司が軽部キャップだった事がどれほど自分にとって幸運な事だったのか、影響を受けたのか今になってみて大変良く判る。
1978年にヴァン ヂャケット倒産後3つの企業に籍を置いたが、軽部キャップほどの幅の広い実務力のある人間にはついに遭えなかった。



この意匠室に同期で入社した2名がいた。
村田君と吉村君の2名、二人とも東京芸大卒でそれなりバリバリのアーティストだったが、彼らの普段の私服を見ている限りではVANのデザイン理念、トラッド・アイビーの歴史・根本理念をどれほど自分のものにしていたかは定かではない。

当時の美大生なりアートを志している者達はキューバ革命のチェ・ゲバラだの、反戦フォーク・グループ達が好んで着て居た米軍放出品の戦闘服の古着などを好んで着て居たので、アイビー・トラッドなど価格の高いスタイルは好まなかった傾向がある。

あのジョン・レノンでさえ米軍放出品を着て反戦ステージに立ったことがあるほどの時代だった。

※1972年8月30日にジョン・レノンがニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行った知的障害児の為のチャリティーコンサート「One To ONE Concert」で着用していたアーミーシャツ


ただ村田君は筆者と非常にウマが合った。

それは英国マージービート、つまりリバプールサウンドと言われたビートルズを中心としたバンド達の曲を熟知していて、ヒットしていない隠れた名曲に関しても良く知っていた。
それがまた、好きな曲がほとんど同じだったりするものだから、良く彼の席の横に行って話し込んだものだ。
その都度リバプールサウンドなど少しも判らない先輩たちに「おい、シンジョー!学校じゃないんだぞ!」と言われて追い払われてしまった。
しかし、30分もすると元の位置に座っている筆者を見て、そのうち何も言わなくなった。

The Beatlesと同郷Liverpool出身のGerry & The Pacemakers
デビュー曲はビートルズ作詞作曲のHow do you do it だった。

How do you do it  ビートルズオリジナル(レコード発売せず) https://www.youtube.com/watch?v=3kHml65dS3g                                          (Youtube)
How do you do it  ジェリー&ザ・ペースメーカーズ、デビュー曲   https://www.youtube.com/watch?v=AQD-m2AQoXc                                           (Youtube)



この意匠室のメンバーへの仕事の依頼は有る様でない様で、一応室長の渡辺薫さんにお願いすると「〇〇にやらせるから~」との一言で担当者が決まるのだが、大体においてブランドごとに担当者が決まっていたようだ。

VANMINI、VANBOYSの担当は石田さんという年中ジーパンとワークブーツの大工みたいななりの人物だった。
オジサンと言うより、お兄さんと言う感じで、デザイナー系としては異質のスタイルと言って良いだろう。もっともいわゆる美術系のデザイナーと言うより
、ノベルティ作りの職人と言った感じのほうが合っていたかもしれない。

アメリカの匂いがに強かったワークブーツ。今でも根強い人気。 Google画像


VANMINI VANBOYSといった簡単明瞭で単純な売り場販売促進中心のキャンペーンであれば、気の効いた親も子供も、そうして販売員、得意先の売り場担当者が喜ぶ物を作って提供すればそれで済んだが、VANブランドやKentブランドはそう簡単にはいかなかった。

VANやKentともなれば売る側と買う側の年齢層がオーバーラップして来るし、なまじヴァン ヂャケットの社員よりはるかにトラッド・アイビーの世界にはまり込んで、商品知識あるいはウンチクに関して「歩くファッション辞典」のような人物も居た。
特に名古屋以西、関西にはトラッド・アイビーがもう生きがいに近いような人物が現れ始めていたのもこの頃だ。


つまり、Kentの顔と言われた我が同期の横田哲男君のような人間が、何人も出始めていたのが当時の関西の環境だったと言って良い。
これは現在でもVANファンが名古屋以西に多い事でも良く判る。

VANの昔のプレミアム、ノベルティをコレクションしている人も名古屋以西に多いようだ。

未だにコレクターが多いVANのノベルティ類のほんの一部。


したがって、VANブランドやKentブランドのプレミアム・ノベルティの制作ともなると意匠室もそれなりの知恵を絞らねばならないし、雑誌やTVCMなどメディアでの告知を考えると不特定多数のVANファン、Kentファンがよだれを流すほどの魅力を作り上げねば成らない宿命を抱えていた。

VANも後期の傑作 アメリカっぽい味で人気。生産数が非常に少ない。


やはりそういう中で、何をどのようなデザインで作って世に送り出すかの決定権を持っていたのが、宣伝部の下村課長と意匠室の渡辺薫さんだった。

基本的にはプレミアム・ノベルティの制作予算は宣伝課ではなく販売促進課の予算枠だったがこの辺りは「阿吽の呼吸」で販促・宣伝の協調体制が上手く行っていたのだろうと思う。


しかし、入社直後2~3日したある朝出勤してみたら、販促の部屋の中が滅茶苦茶になっていた事があった。
天井から下がっているシーリング(明かり)は割れており、あちこちに破壊されたようなモノが散乱していた。

詳細は怖くて新入社員としては訊ける状況には無かったが、前夜宣伝課と販促課の間でひと悶着あった事はすぐに課のスタッフの話で判った。酒を飲んで暴れたのか、まじめに大喧嘩したのかは定かではない。今もって秘密のベールに包まれた事件のひとつだ。



話が道をそれたが、VANMINI VANBOYSに関しては、ワリに小生意気な新入社員の筆者も意見を言える部分があって、先輩達も何処かの経営者のように「やってみなはれ!」的に自由にさせてくれたようだ。
逆に言えばそれほど注目されていなかったのだろうとも思える。


ウエスタン七五三と云う事なので、当初はウエスタンが大好きな如何にもアメリカっぽいノベルティ、プレミアムの意見が意匠室から出てきたが、高島屋の石原一子部長や石津スミ子さんのアドバイスだから・・・と自分の意見を頑張って通して24色入りのクレパスや3本入りの鉛筆などを作ってもらった。


画材メーカーに特注で造って貰ったVANMINI特製クレパス24色入り。

ノベルティとして3本入りの木の地肌を生かした鉛筆セット。

心のどこかで、小さい時の運動会の上位入賞者への賞品が浮かんでいたのかもしれない。

結果からいうと大成功で、事前調査に行った成城VANKiKiの石津スミ子さんも大変褒めてくれたし、勿論日本橋高島屋の石原さんにも再び「ムンギューッ」とハグされてしまった。
アドバイスを直ぐにきちんと反映した事を褒めてくれたのだった。お客様からは当然「もっともっと!」のリクエストだった。




最初の大仕事はVANMINIの七五三キャンペーンだった。
                                 


一方で、ターゲットを絞り込めないVANBOYSは「〇〇円以上お買い上げの方に〇〇プレゼント!」という、超定番グリコのおまけ方式の販売促進キャンペーンを実施する事でお茶を濁す事になった。

しかし、ノベルティのアイテム決定に関しては一緒に協力して行う宣伝課の同期内坂君のアイディアで、コットン製のサイクルバッグを作る事になった。

たぶん当時の日本ではサイクルバッグって何?状態だったろうと思う。
この内坂庸夫君に関してはエピソードが沢山あるので、少しづつ小出しにして行こうと思う。数年前、こちらがまだ知らないYouTubeという無料映像サイトがあって、あのGerry & the Pacemakersの「Ferry across the Mersey」を観られるぞ!と教えてくれたのも彼だ。とにかく昔から新しいものに関する情報は非常に早く、さすが「マガジンハウスの雑誌ポパイに内坂あり!」と言われた雑学情報通・メディアマンだ。

英国のコレクターからネットで購入した「映画マージー河のフェリーボート」のDVD。
日本では未公開未発売。
 


あの当時のリバプールが如何に古びて貧しい街だったか良く判る。
基本的には「映画・A Hard day's night」のそっくりさん的音楽映画。
レコード発売されたテイクとは随分違う部分多し。
 


http://1.bp.blogspot.com/-AxcW9HJULHY/VJ9IZuytp3I/AAAAAAAAJ3I/FoJANKDNeuU/s1600/Ferry%2BCross%2BThe%2BMersey%2BGerry%26The%2BPacemakers%2Bmono.jpg
1972年に英国で購入したオリジナル盤、普通はこんな暗い写真をレコードジャケットに使うなど信じられないが、冬のリバプールの感じを出したのか。
どれもがはじけるような明るい米国盤のレコードジャケットと異なって、どこかターナーの絵のようで、なおかつ英国っぽくて気に入っている。


我が同期、内坂君の理念は昔から頑固一徹、筋が通っている。
「自分で出来ないものは記事にしない」、逆に言えば「記事にするものは必ず自分でやってみる!」スキー、アイスホッケー、ウインドサーフィン、スノーボード、トライアスロン、トレイルランニング、マウンテンバイク、その他私が知らないものもハードなものばかりだが随分やっていると思う。


この内坂君がまだ誰も知らなかったサイクルバッグを提案してきた時、何だそれは?どうやって使うんだ?どう作るんだ? 侃々諤々、喧々囂々結構問題になった。

もちろんあのうるさいVANBOYS営業課長からは、自分がこのノベルティの意味を判らないので不評だった。
「何だこれは?こんなものでお客が喜ぶのか?」だったが、「こんなもので悪かったね?アンタがターゲットじゃないし、嫌ならいーんだよ?止めちゃうから。」と言えるのが販売促進の強みだった。

 http://3.bp.blogspot.com/-FSZaMVpxfXs/VJ9IqJpTOKI/AAAAAAAAJ3Q/mnk-kH5rJUs/s1600/'73VANBOYS_runrunrun.jpg
内坂庸夫氏(現マガジンハウス・ライター)発案第1号のVANBOYSノベルティ。彼はその後1980年代になって雑誌ポパイ40ページの自転車大特集のタイトルに「Run・Run・Run」と名付けている。

 http://3.bp.blogspot.com/-QSgGajxSPJQ/VJ9Jcvb44rI/AAAAAAAAJ3c/YGewTxg3mfg/s1600/scene%2Bcyclebag.jpg
VANBOYSのノベルティの5年後、新しくスタートしたSCENEブランドでも
「ヨセミテ・ラガー」といわれたラグビージャージのデザインを取り入れたサイクルバッグが登場している。


「会社の中で一番強い部署、でかい口を叩けるのは何処だ?」がいつも議論される熱気に溢れた若い会社だった。

普通考えれば最先端前線でヴァン ヂャケットの商品を販売している販売員スタッフが一番偉いのは当たり前だった。
彼らが現金をお客様から頂く訳で、営業担当より直接的で「偉い」とされていた。
販売実績が伴わなければ営業マンも「ダメ印」を張られてしまう。



話はいきなり現在に飛ぶが、今日2014年12月28日の読売新聞の記事に三越伊勢丹が「優秀な販売員には取締役員と同じ年収を!」という考えを示したとあったが、これが元記事だろうか?やっとこういう時代になった。 
        ※ご参考 http://www.sbbit.jp/article/cont1/28932



話は戻るが、当時も経理、人事、総務、その他管理部門の職種より現金を売り上げる営業販売部門が社内で大きな顔を出来るのは常識だった。
しかしその営業・販売部門も頭が上がらない怖い部門があった。


それは商品物流を全て司る「商品管理部」通称「商管」と、「販売促進」通称「販促」だと言われていた。

どんなに脅かしたり、急かしても「商管」がつむじを曲げたら商品がお得意様に届かない。
昔はパッキンが着いて箱を空けたら売れ筋が欠品していたなどと言う意地悪なども結構あったようだ。


戸田本部長という重戦車のような営業本部長の全社員への訓示の中に、「行方不明の商品が下代で年間1.5億円分も有る!一体どういう事だ?
この欠損が無くなれば、我が社の売り上げが1.5億円伸びる事になる。」と剣幕で怒鳴った事があった。商品管理部門というのは、社運をも左右する非常に重要な部門なのだ。


そうしてもう一つが「販売促進部」。キャンペーンやプレミアム、ノベルティを作り得意先へ配布するこのセクションに睨まれたらキャンペーンは出来ない、ポスターは届かない、VANのロゴ紙袋は届かない、宣伝材料は届かない・・・もう現場は非常に困ってしまう訳だ。


だから、その辺りを一番良く判っている営業さんは、顔なじみになるほどちょいちょい販促の部屋に遊びに来て営業情報、売り場情報、他メーカーの情報、業界の噂、社内の噂を持ってきてくれる。


これは非常に貴重な存在だ。
自分でも良く売り場へ入ったが、現場の状況は表からしか判らない。
だからもちろん、そういう営業さんにはこちらからも販促情報をどんどん出すし、数少ない特別プレミアムなども提供する。
これはあくまで個人的利権ではなく、それだけ熱心な営業さんであれば顔が広いので、得意先からの反応、作ったものへの広いジャンルからの評価を貰えると踏んでの事だ。


この典型がヴァン ヂャケット営業の鏡、横田哲男君であった事は疑う余地も無い。
販促課に出入りするヴァン ヂャケットの営業さんで、アイスホッケー部所属以外のメンバーでは彼の一番訪問頻度が高かったかもしれない。
これは筆者と同期だと言う事以上の何かがあったのだろう。


これは横田君の話ではないが、販売促進の部屋のカウンターには色々なパンフやポスター類と同時にノベルティ、プレミアムのサンプルや何かの残りが置いてあったりする。
部屋に来た他のセクションの人たちは帰り際に気に入ったものを「これちょーだい?」と言って持っていくことが多い。
時には黙って持って行ってしまう事もある。これを「チーする」と言っていた。「ギる」とも言う。


実はこれは作ったプレミアム・ノベルティの人気度、話題度を推し量る非常に良いマーケティング・リサーチになるのだ。

VANの社内の人に人気が無いモノは世の中に出しても人気は無い。
社内の人間に人気があり奪い合いに成る程であれば、世間に出ればもう超人気になること間違いなしという訳だ。


VAN倒産の3年前、「My woody country」の宣伝キャンペーンの一環でカーペンターキット(米国製大工道具セット)を100名の方にプレゼント!・・・をやる事に成った時は、まず社内が大騒ぎになった。あの手この手で宣伝課や販促課へ「裏口ちょーだい要請」が来るのだった。

このキャンペーン自体はいつもの販促課ではなく、宣伝課主導だったのだが、一般への告知が始まる頃にはとんでもない状況になっていたと思う。
電話の申し込みの受け皿は初日でパンクした記憶がある。

宣伝課に置かれた10台ほどの受付の電話機は鳴りっ放しでその部屋では仕事にならなかったと聞く。

http://1.bp.blogspot.com/-fAneQGFZzAE/VJ9M99bE_DI/AAAAAAAAJ3o/aYdPbTz6YwU/s1600/%EF%BC%B6%EF%BC%A1%EF%BC%AE%E3%80%80%EF%BC%A3%EF%BC%A1%EF%BC%B2%EF%BC%B0%EF%BC%A5%EF%BC%AE%EF%BC%B4%EF%BC%A5%EF%BC%B2%EF%BC%B3%E3%80%80%EF%BC%AB%EF%BC%A9%EF%BC%B4Blog.jpg 
 メディアや広告代理店業界では名の通った宣伝キャンペーンにはなっているが、実態は・・。

http://4.bp.blogspot.com/-PfIX2tVviTs/VJ9NcJLC9HI/AAAAAAAAJ3w/0JaO8j2ffzg/s1600/salespromotiondeptd1.jpg 
自分のデスク周りを撮影した画像にこのカーペンターキットが置いてあったが、肝心の中味が実用的でない為誰も自分の物にしようとは思わなかったようだ。
自宅に持って帰っても置くところがないし・・・。


結局何個作ったのか良く判っていないが、製作数の半分も一般の人の手には渡っていないと視る。

今の時代にそんな事を行ってバレたら、メディアに一斉に叩かれて逆効果もはなはだしい大変な事態になっていたろうと思う。

今回の東京駅100周年記念Suica発売の際の「物欲日本人」たちの凄まじさは報道でご覧の通りだ。



当時も今も日本人の本質は変わっていない。宣伝・販促活動の難しさが此処に在る。




                            ・・・・・・・・・to be continued



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