青春VAN日記49
新宿三越の巻 その11 <VAN外篇>
前号で旧制高校の話を書いていたら、自分でも無性に青春時代を思い出し、甘酸っぱい記憶が蘇って来てしまいました。話が横道にそれる事をおゆるしください。
「青春とは、明るい、華やかな、生気に満ちたものであろうか。それとも、もっとうらぶれて、陰鬱な、仰圧されたものであろうか。」
これは、私が学生時代に愛読していた北杜夫氏の「どくとるマンボウ青春記」の書き出しである。
・・・むろん、さまざまな青春があろう、ひとそれぞれ、時代に応じ、いろんな環境によって。 ともあれ、今こうしてパソコンに向かっている私は、もうじき60歳になる、60歳、かつてその響きをいかほど軽蔑したことであろう。60歳、そんなものは大半は腹のでっぱった動脈硬化症で、この世にとって無益な邪魔者で、よく臆面もなく生きていやがるな、と思ったものである。まさか、自分がそんな年齢になるとは考えてもみなかった。」
・・・だのに、もうすぐ60歳である。嗚呼一睡の夢!
今はもはや若からぬ私が、管理人から当H・Pの「青春VAN日記」の連載を依頼されたとき、“青春”と聞いてすぐさま連想したのは、母校の校庭にある“稲荷山”に寝転んで、青空に浮かぶ白い雲を眺めていた、高校時代の自分の姿である。
私が通っていたのは、群馬県立太田高校。
関東平野の北辺に位置し、明治の学制で設立された、元・旧制中学である。
明治の歌人、土井晩翠の校歌を戴き、質実剛健・文武両道を唱える、明治の気風をいまに伝える、昨今珍しい、野郎ばかりの“バンカラ”高校でした。
(蛮カラ=ハイカラをもじった語、みなりや言動が粗野なこと。)
先輩の卒業生には、現群馬県知事の大沢氏、太田市長の清水氏。同級生には現大泉町長の長谷川洋氏、(前号の写真に写っています。)三洋電機再建の田端氏(東大)がいます。
当時、神戸の灘高の校長が本校OBで、兄弟校でありました。
今でも思い出すのは、古い木造校舎のトイレの壁に書いてあった“落書き”。
「朝顔の 淵に漏らすな 芋の露 ・・・詠み人知らず」
「雪隠にて 神に見放された者は 自らの手で 運をつかめ
・・キンタマ・シッタルダ」・・・わかるかなあ!
うーん、さすがは太高生、と当時納得しきりだったものです。
先生達も素晴らしかった。
当時、万葉集の吾妻歌で日本の権威だった、細谷先生の授業中のこと、
(先生は、目が御不自由だった。)
私は、放送部員で古文を読むのが上手かったので、いつも授業で教科書を読まされていた。
あるとき突然授業中に、震度5ぐらいの大きな地震があった。悪ガキの生徒たちは「ぎゃ−、助けてくれ、死ぬー、」と大騒ぎ。
細谷先生は驚いて、「横田!いったいどうしたのだ!何があったのだ!」「先生!大変です。天井から物が落ちてきたり、壁が崩れたり、大変なことになっています。けが人もいるようです。」
「それは大変だ! 即刻、授業は中止とする。 解散!」と職員室に戻られてしまった。
「やったー! 自習だ!」
(実は、大したことはなく、被害など無かったのです。)
その後先生からは、なんのおとがめもなく、単位を落とす事もありませんでしたが、先生、本当に申し訳ありませんでした。
学校の近所で、飼い猫や犬がいなくなり、騒ぎになったことがありました。
すいません。生物部の桑原君が解剖実験で使ってしまいました。
水泳の時間に“いんきん”にかかるものが続出した。原因は水泳部から借りた競泳パンツだった。すいません。森下水泳部長が、洗濯をサボっておりました。
おまえ、最近食生活がイイらしいなあ。すいません、購買部部長の私は、丸山堂パン屋さんから、ただでパンを貰っていました。
すいません。私と長谷川洋君(現町長)は、天文科学部の望遠鏡で、屋上から太田女子高を観測しておりました。
それでも文化祭などには、OB稲門会が“ハイソサエティ・オーケストラ”を呼んでくれて、放送部員だった私は、講堂の舞台の袖でミキサーをやり、その素晴らしいJAZZ生演奏をまるまる聞く事が出来、JAZZに憑かれるきっかけとなるのでした。
(現在でも、太高OBの清水太田市長は、毎年太田市“大学対抗バンド合戦”を主催しておられます。)
・・・嗚呼、わずか3年間の出来事なのに、恥ずかしくも懐かしい青春時代。
昨今の男女共学ブームや私立高校の台頭の流れにもかかわらず、
太田高校は、全国に珍しい県立普通科男子高校として現存します。(息子も通わせました。)
嗚呼、母校よ、永遠なれ!
(今回は、手前味噌ですいませんでした。次回は新宿に戻ります。
敬具)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
・・・・・・・・・ホント手前味噌!!!!!!・・・・・・・・・
|