青春VAN日記67
本社営業の巻 その10(1976年5月)
<過酷な営業業務>
夜10時を過ぎたVAN営業部は照明も落ち、オフィスは薄暗い。
その中でスポットライトを当てたように点燈され浮き上がって見えているのは、きまって、私のところと、向こう側にある営業1部、石川兼孝課長のデスクである。
いつも目が合うと、お互いに苦笑いしてしまう。
好きこのんで残業している訳ではない。仕事量が多いのである。
私の担当店は丸井全店、35店舗である。その年間営業予算は10億を超えている。
伝票類はすべて手書きである。全店分の出庫伝票、納品伝票書きだけでも相当な作業量なのである。
私の一週間の営業スケジュールは、おおよそ次のようなものだった。
●月曜 各店連絡、全店注文の集計、店頭在庫・営業在庫の確認、
商談用明細の作成。
●火曜 商品本部商談・受注、納品指示票・納品伝票作成。
●水曜 倉庫にて調品・出荷作業。
●木曜 納品作業。
●金曜 得意先各店めぐり・店商談。
●土・日曜 店頭販売手伝い。
・・・太るヒマは全く無かった。
昨年21期、我社は始めての赤字決算だった。
そして大商社丸紅が経営に参加してきてから、石津社長にも御元気が無い。
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後年、1987年頃の石津社長 |
私達社員がなんとかしなければ。
営業部全体のムードは、22期こそ売上目標500億を達成するぞ、という勢いであった。
各部営業社員には、とにかく “売って売って売りまくれ”と激が飛んでいた。
(・・・実は、私はそうは思わなかった。大切なのは純利益である。目先の納品金額ではない。たとえ納品金額を増やせなくとも、返品を減らすことが出来れば、倉庫物流費・人件費等の諸経費は激減し、純利益は大幅に上がるのである。
これはバランスシートの基本である。
・・・“最小費用による最大効果”・・・。
私が母校で教わった“経済原則”の原点である。)
入社式での石津社長のお言葉を思い出す。
「・・・他人と同じ事をするな。違う事をやれ!・・・」
今期の私のやるべき個人目標は決まった。
・・・「返品の減少」・・・である。
“売ろうと思うな、思えば負けよ”である。
店頭の状況を考えずに、商談テクニックを駆使して闇雲に納品しても駄目である。
無理な売り込みは、必ず返品となって返ってくる。自分の首を絞めることになる。
“Kentの商品は絶対に売れる”。これは私の販売経験から得た絶対の自信である。
“私は愛するKent商品を、絶対に安売りしない!”
“大切なKent商品をバーゲン品にはしたくない!”
だから、まず最初に“トラッドを理解しない店には訳も無く納品したくない!”
店頭でよく売れていれば、向こうから頭を下げて商品を欲しがるはずである。
・・・さしあたって、私は意識して納品量を減らした。・・・
そして各店の適正在庫を摸索した。
予想通りだった。
納品を多少減らしても店頭売上はけっして下がりはしなかった。
逆に、バイヤー達からは、もっと商品をよこせとの要望が出始めた。
彼らは商品を納品させ、確保する事で安心感を得ていたのかもしれない。
その安心感の部分が多数の返品を生み出すのだ。
私は、商品本部よりも各店売り場を重要視して、ひんぱんに店廻りをした。その都度、販売手伝いをしたり、他デパート情報やトラッド話をたくさん話し、我が販売社員と店とのコミュニケーションを計った。
つまり店頭の仕入れ担当者を直接に刺激したのである。
(・・・今でも33年前の、丸井各店の熊谷さん、村山さん、野口さん、小林さん、秋摩さん、宝泉さん、五味さん、岡本さん達の顔を懐かしく想い出します。)
やがて私の丸井商品本部での商談待ち時間は減少していった。
バイヤーの方から、商談しようと声が掛かるようになってきたのである。
店廻りの効果が出た様である。
これは本部中心主義の他メーカーさんとは、やり方が少々違っていたらしい。
そして、ある時、
面白がって私の商談を後ろで聞いていた丸井・鈴木商品本部長が、Kent商品の売り込みもしないで、トラッドのポリシーやスーツ・ブレザーの語源、その由来、歴史などのトラッド話を延々と語っている私のやり方を見て、いきなり「VANの“横田先生”」などという愛称で呼んでくれた。
私は単純に嬉しかった。・・・しかし、このことの影響は大きかった。
商品部責任者の本部長が私のことを先生と呼んでいるので、
部下のバイヤー達が、私の名前を呼び捨てにしなくなったことである。
(丸井様は体育会系の会社であった)
他メーカーの社員達も私に一目置く事になってしまった。
仕事がやり易くなっていった。
鈴木本部長ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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