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青春VAN日記76

本社営業の巻 その191976年8月)

<私の友人達>

本社勤務になって、私は素晴らしい男に出会った。

彼のことを一言で表現するならば、「質実剛健・文武両道」。
初めて出会ったその日から、その人柄に惹かれた。

“見映え、外見”に気を使う人種の多いこの業界の中で、この男には、「見栄・てらい」が無い。そよ吹く春風のような“自然体”である。

センスを売物とする業界人間にありがちな“強い自己主張、尊大さ”はカケラも無い。

鍛え抜かれた屈強な体格でスポーツ万能でありながら、実に謙虚である。

この謙虚さは、品格ある“人間の証明”である。

・・・会話をしてみると、更に興味を引かれた。何気ない会話の中にも、人間や社会に対しての愛が感じられる。

さらに、その背筋の伸びた姿勢、立居振舞からは、武道の“におい”がした。

男は言った。

「天地の玄妙は、すなわち神仏。人は皆、玄妙な天地をお創じめなされた神仏の手によって作られた。人は皆、神意による愛の晶結!神々は愛を伝えようとて、夫婦によらざれば生めぬ人間を造らせられた。両親の愛に育てられた子は即ち神仏の権化。・・・人としてこれを害するは、神意にさかろう不遜の行為。武道を嗜む者には、正邪の技の区別が豁然となければならぬ」・・・と。

彼は、少林寺拳法・関東学生チャンピオンであった。

「・・・我が身は神仏、他人も神仏。さればいかなる時にも、神仏に対し殺伐の技は揮えぬ筈。

武道とは、その神仏の心に発した正義護衛の有用の技。それゆえ、武道には工夫が無ければならない。自らと共に相手を生かすための技の工夫を!まさしく少林寺拳法の理なり・・・。」

驚いた!・・・まるで剣禅一如の柳生新陰流始祖のようなことを言う。

これが僧侶や神官の口からならまだしも、ヘボン博士の創立した白金のカソリック系大学の出身者の言う言葉だろうか?

私は、自分の耳を疑った。この男は特定の宗教や思想にこだわる域を超越している。すでにして自己の天地を確立している!

彼は“宗道臣”(少林寺拳法開祖)か!一道の達人の気配がした。

彼の下北沢のアパートの部屋には、ヌンチャクなどの武具が一揃いしていた。試技を見せてくれたが、凄い!ブルース・リー、その物だった。

半可通ではない!これは本物だ!

感動した私は、毎週、彼といっしょに飲みに行き親交を深めた。

彼は酒を飲んでも、人が変わらない。媚びることがない。その言行は常に一致している。裏表が全く無い。

他人の、陰口や悪口は決して言わない。愚痴や泣き言はこぼした事が無い。他人との約束事は決してやぶらない。決して他人のせいにしない。絶対に他人をいじめたり、嘘を言ったり、人を裏切ることが無い。

社会の規範は必ず守る。赤信号では絶対に横断歩道を渡らない。

つよきをくじき、よわきを助ける。自分に厳しく、他人に優しい。
・・・我社にはこれほどの“男”がいたのか!

彼を見ていると、いにしえの海軍兵学校の「五省」を思い出す。


一、至誠にもとるなかりしか(誠にそむいていないか)

二、言行にはじるなかりしか(自分の言行に恥じるようなことはないか)

三、気力にかくるなかりしか(気力に欠けていないか)

四、
努力にうらむなかりしか(努力を怠り残念におもうことはないか)

五、
不精にわたるなかりしか(なまけつづけていないか)


これらは、いつの世も、あるべき正しい男子の理想の姿である。

彼はそれらを体現した見事なまでのポジティブな男であった。

その姿はあたかも、剣客商売の“秋山大治郎”のようであった!

(・・・本人は、ジュリアーノ・ジェンマ似だと主張していたが・・・)

彼の名は、佐野雅男君。

右、佐野君、1977年6月、青山にて

小田原が生んだ北条早雲以来の好漢であった。

私の感じた“男”の魅力・味わい、と言う物は、かくのごとくであった。

それは、けっして資産・家柄・学歴などの肩書きファッションではないし、ましてや、服装・容貌・装飾品・化粧などの上っ面のファッションではない。

(・・・それらは単なる調味料に過ぎない。)

すでに人間という素材自体が、大宇宙、神仏の創った宝なのである。男たるものは、その素材を磨き、世の為・人の為に生かすことに魅力の本質がある。つまり、歴史や社会や組織の中での“生き様”が男のファッションなのである。

それにしても、販売部の山本さん(極真館本部指導員)や立教大少林寺拳法部主将の営業・佐藤勝治君にしても、一道の経験者は皆、腰が低い。実に立派だ。

ダンスの包国君にしろ(極真の山本さんいわく、あの見事な身のこなしには、攻撃が通用しない。負けずとも、勝つ事は難しい。)達人であった。

とにかく私の友人は素晴らしい奴ばかりだった。皆、青春の達人だった。

よって、魅力溢れる友人達に恵まれたVAN社は最高に楽しかったのである。

<紺屋の白袴・達人のカッコ良さについて>

“実れば実るほど、頭をたれる稲穂かな”

“控えめで美しい りんどうの花”

古来より我が国では、どの道の達人も、悟れば悟るほど“謙虚”であったと言う。かの剣豪・塚原ト伝は、悟った後は“刀”すら持ち歩かず、“無手勝流”だったという。

かの上泉伊勢守は“刀”を置いて、盗賊を捕らえ改心させたという。

かの宮本武蔵は、“刀”を交えずとも、柳生石舟斎のなにげなく切った生花の切り口を見ただけで、誰が切ったものかを理解し、己の非力を悟ったという。

・・・“弘法、筆を選ばず”ともいう。

・・・達人は、モノやカタチ・道具にはこだわらない・・・心である。

時代は変わり、ファッションの世界においてもしかりである。

ある日、石津社長が何の変哲も無い自社の廉価なデニムパンツ姿で青山通りを散歩していたところ、出会った森英恵さんは「先生はいつもお洒落ですわね」と若々しい姿に感心したという。

お洒落の街といわれる青山では、平日歩いている人は皆、ピーコックや東急ストアで買ったような普段着姿の住人達であるが、あかぬけして見える。

しかし週末の土日になると、人種はがらりと変わる。

世界の高級ブランドを全身に着飾った人々が街中に溢れるが、地元の人ではない。きまって地方・近郊からのオノボリサン達である。

その身に光る舶来高級バッグはコンフォーミティの証明でもある。

このことは、言い換えれば、人生の達人に成れば成るほど、普通の当たり前な平凡な格好をしているとも言える。

かつて古き時代は一流の紺屋(染め物屋)の達人ほど、忙しさの余り染色前の白はかまを身に付けていたという。

江戸っ子のおしゃれは白紺に止めをさす。とも、見えない裏地に凝るともいう。

表面はなんの変哲もない姿で、見えないところで“粋”を競うらしい。

はたしてファッションの達人とは?

いまや、洗いざらしの白のボタンダウンシャツのシンプルな姿は、かえって“おしゃれの達人”の証明であると言えるのでは?

              (今回は、アナクロ横田でした) 





  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく





1977年、札幌にて、左から新庄、佐野君
1977年、喜茂別にて、右端山田氏、そして、謎の女性!!





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