青春VAN日記82
本社営業の巻 その25(1976年秋)
<優秀な販売員達>
60年代から、日本中の街に出現し始めた“メンズ・ショップ”とは?
長かった戦争が終わり、ようやく平和のよみがえった日本ではあったが、戦後の“男物服”の市場には、まともな注文服店、洋品店、は数少なかった。
まずは食べる事が最優先で、着るものは二の次だった。
当時の若者達の着る服は、学生服や進駐軍の払い下げ放出品、しかも親父や兄弟のお古が普通だった。街で見かける進駐軍のG・I達のまねをしていた。
数年が過ぎて、食べる事に精一杯だった人々がようやく一息つくと、次に娯楽を求め始めた。娯楽の中心は映画だった。美空ひばりや東映時代劇。
そしてファッションの一番のお手本は洋画だった。
銀幕で見るゲーブルやボギー、アステアなどの外国人スターの格好良さは男の夢の世界だった。
一番のメディアであるラジオの“S版アワー”や“FEN”からはスタンダード・ジャズが流れていた。そして映画に10年程遅れて、ようやくテレビ放映が始まった。
私が1番最初に見たアメリカは、「ララミー牧場、ボナンザ、ローハイド、拳銃無宿、ライフルマン」などの西部劇。
続いて「スーパーマン、宇宙家族ロビンソン、アウター・リミッツ」などのSF物。
そしてライフ・スタイルに目を引かれたのがやたらに明るくて楽しそうなファミリー・ドラマの世界。
テレビで見る「パパ大好き」「うちのママは世界一」「名犬ラッシー」
「奥様は魔女」
「ルーシー・ショー」「ジェリー・ルイス、レッド・スケルトン、ミッチ・ミラー、シャーリー・テンプルショー」などで見る現代アメリカ社会の風俗は、あまりにも格好良かった。
テレビの放送開始でアメリカ文化が急激に身近なものになって来た。
日本中がアメリカ同好会になった。
そして若者達の興味は、そのファッションに注がれた。
若者達の“衣食住”ライフスタイルすべてのお手本はアメリカだった。
この時、“アイビールック”を発表し、製造販売を始めたのが石津謙介社長である。
砂地に雨水が吸い込まれるような状態で日本中の若者達は飛びついた。そして、日本中の従来・旧型の紳士服店、洋品店も飛びついた。
ここに、新しいスタイルの日本のメンズ・ショップが誕生した。
石津社長が提案したのは、商品そのものだけではなかった。
小売店に対する、店舗の作り方、販売接客方法、商品陳列、宣伝方法までのショップ運営のノウハウが全てセットされていた。
看板、什器、事務用品、紙袋。そしてVANカタログの“メンズクラブ誌”や、業界初の“ノべルティ”まで用意されていた。
ここに史上空前絶後の“第一期アイビー・ブーム”は始まる。
この時代の専門店販売員のレベルは、昨今のカリスマ店員程の低いものではなかった。
なにしろ、国を揚げての“アメリカ文化研究会”の時代である。
意識・目の色が違う。
日本中のメンズ・ショップ店員はアメリカ文化の臨時講師であった。
新時代を創ろう!との意気盛んな専門店、販売者たちは、あたかも幕末維新の“勤皇の志士”のごとく、業界の坂本竜馬や桂小五郎であった。
全国各地で活躍するメンズウェアの志士達、
・・・尾堂さん、八鳥さん、森藤さん、花田さん、塩島さん、樫村さん、安藤さん、伊賀上さん、野澤さん、小暮さん、・・・
“そごう” “松屋”等の多数の大先輩達!
日本のメンズ・ショップとは[石津謙介とVAN]によって始まったのである。
石津社長の考えた“メンズ・ショップ”とは単なる紳士衣料店ではなかった。
メンズとはもちろん“MAN”のことである。
MANとは、“男”の意味だけではない。人間、人類、ひとかどの男、立派な人、などの意味を含んでいる。
「 メンズ・ショップとは、たんなる紳士衣料を売る店ではない。
人間の味わいを売る店である。衣服を素材として扱いながら、立派な紳士を目指す男達の、人生のお手伝いをする場所である。
ある意味、服の着こなし方やモラル・マナー教室といった学校であり、人生相談所であり、同好の士達の集うサロンでありクラブでもある。
自己利益のためだけではなく、正統な商品を扱かうことによって、地域社会の良識ある生活文化づくりに貢献しなければならない。 」
そして、歴代のVAN社員・専門店オーナー達は、その教えを忠実に実行した。
・・・時は移り、1976年の秋、VAN苦境の時代を迎える事になっても、現場の我社販売部社員達は、業界トップの販売員の光を少しも失ってはいなかった。
西武でも三越でも松屋でも丸井でも、あいかわらず売上1位の座を維持し、決して他社に譲り渡しはしなかった。
各取引先やお客様から、表彰され感謝された販売員は枚挙にいとまが無いのである。
(・・・それなのに何故会社は苦境になるのだ?・・・)
・・・悲しい事だが、業界の指導者たるVANなき後、一般のファッション業界販売員の接客技術は、レベルダウンしてしまったように感じる。
接客態度、身なり、言葉使いがなっていない。商品知識、一般常識にも欠ける。笑顔が無い。目が輝いていない。売りつけようとする姿勢ばかりが目立つ。
お客様を楽しませて、喜んで頂こうというサービス精神が見えない。
戦後の産業別人口比率で3位だったサービス業は、今や第1位の産業となったが、規模ばかり大きくなっても、世界の一流品が品揃えされるようになっても、その接客販売の内容は、けっして世界の一流とは言えない。
モノを買わせるテクニックよりも、喜ばせるテクニックを磨いて欲しい。
販売員はタレントなのである。司会者でありプレゼンターでありモデルであり芸人であり役者なのである。
百貨店や専門店は、量販店やスーパーには不得意な、魅力ある人間の味わいを・・・・・!!
( ・・・売る事が出来なければ、一般消費者の店離れもやむを得まい・・・。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
追伸 私の大好きな赤塚不二夫大先生が亡くなられてしまいました。
子供の頃「おそまつ君」で教えていただいたギャグ精神。
青年時代「天才バカボン」のパパに教えていただいた深い人生哲学。
そして新宿3丁目や「ジャズスポットJ」で過ごした楽しい楽しい時間。
私の人生に多大な影響を与えてくれた赤塚不二夫大先生。
先生との思い出は、私の青春の「宝物」です。
天国で、たこ八郎さんと好きなだけお酒を飲んでください。
心よりご冥福をお祈りします。本当にありがとうございました。
2008年8月4日(月)
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