青春VAN日記90
本社営業の巻 その33(1977年夏)
<哀愁の北海道サイクリング旅行@>
かつて石津社長の姿はいつも社員と共にあった。
最前線の販売部設立の時にも、自分の孫のような若年の販売社員達の中に入り、私達を、一人一人激励してくれた。
優秀社員表彰の時も、お決まりの表彰状だけではなく、御自身の私物やオールドパーウヰスキーを下さったりした。
そのようなことは、ほかのどの取締役もしなかった。
石津社長はいつも部下社員達と共に働く姿勢を崩さなかった。
人の情は、そのまま、まっすぐに人の心を射る。
社長の事は、平社員たちまでが、
「うちの社長」と敬意と親愛の情を込めて呼び、
「うちの社長がおられるかぎり、VANは大丈夫だ。かならず復活する」と信じて疑わなかった。
・・・その私達の校長先生が交代されてしまった。
会長職とは、いったい体の良い左遷ではないのか。
社内356別館でもお見かけする事が無くなってしまった。
このことは、なによりも全社員に1番のダメージを与えてしまったようだ。社員達のロイヤリティー(忠誠心)は一気に下降してしまった。
そんな夏休みも目前のある日の事、人数の減少した356別館社内では、
「おい!俺達までが腐っちまってはしょうがないだろう。気分転換しようぜ!」と、パイプを咥えた“根性の販促男”新庄君が提案した。
「誰が社長でも、ここは俺達の会社だ。気分を変えれば元気も出るさ!」
「そうか!よし、夏休みは皆で泊りがけの旅に出よう!思い切って、長距離サイクリング旅行でもするか?」と私。
「その話乗った!」と力強い賛同者は、佐野雅男君と山田力ちゃん。
「俺達4人で、VANを全国自主キャンペーンして廻ろう。」
と、新庄君は揃いのVANのTシャツまで用意していた。
人ははたして、どういうときに旅をしたくなるのであろうか。
“旅”という文字の持つ、
孤独とロマンと哀愁を帯びたあの懐かしい響き。
男は日常に閉塞感を感じた時に、旅をしたくなるらしい。
“ 悩みを抱えた傷心の旅 ”である。(木枯らし紋次郎か!)
傷心の旅の行先は、果てしなく“北”でなければならぬ。
傷つき疲れた男の心は、やはり隣の○○県では癒されぬのである。
・・・地平線まで続く広大な北の大地。重くゆらめく鉛色の北の海。
“そうだ!北海道に行こう!”(JRの宣伝か!)
「皆さん、
今回のロング・ツーリングは、北海道、と決定いたしましたッ」
1週間の北海道・道西ツーリング計画は私がたてた。
1日目、東京駅集合、東北本線夜行にて八戸へ輪行(車中泊)、
2日目、フェリーにて苫小牧上陸、支笏湖、札幌(泊)〜
3日目、手稲、小樽、余市、稲穂峠、雷電海岸、岩内(泊)〜
4日目、倶知安、ニセコ、羊蹄山、京極、喜茂別、洞爺湖(泊)〜
5日目、虻田〜森JR輪行、駒ヶ岳、大沼公園、函館(泊)
6日目、青函連絡船、青森、東京駅
・・・ツーリング距離約500km。
「意義なし!」
かくして、私達は北海道へと旅立ったのであった。
苫小牧港に上陸したのは朝であった。
輪行した自転車を組み終えると、即、港内に“大衆食堂”を発見した。
魚を焼く煙が目にしみる。朝から腹の虫がないている。
As soon as we entered the restaurant.(ルー大柴か!)
ホッケという魚と、三平汁、ジャガイモのバター焼き、ホッキ貝、ししゃも、おしんこを注文した。
心は疲れていても、食欲は旺盛なのである。
ホッケという魚は、大きさがアジの二倍ほどもあり、脂肪が多く、したたる油の燃える煙が、店内に充満している。
うまい!確かにここは“ホッケイドー”だ!と男達は喜ぶのであった。
腹ごしらえの出来た一行は、さっそく、支笏湖への上り坂に挑戦した。
自転車での上り坂ほど苦しいものは無い。が、今までに、箱根や金精峠、奥多摩、小仏、正丸峠と走破している私達には、楽なもんだと走っていたら、脚力ある新庄くんが、ダウンしてしまった。
ヒラメのようなふくらはぎが痙攣している。
どうやら、“山中、「熊に注意、今年の被害者10数名!」の立て札を見て、連日の残業疲れが(“アイスホッケー”疲れか?)まとめて一気に出たらしい。
しかしながら、負けん気は社内一の不屈の男である。
「熊が出たら、熊汁にして食ってやる。」さすが!
さすが八郎・別れの一本杉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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