青春VAN日記97
本社営業の巻 その40(1977年 冬)
それにしても新体制となった本社内部は明白に変化した。
なによりも現場の営業・販売業務が最重要視されるようになったのである。
かつては、VAN本社の中心は内勤の“ものづくり”関係者達であった。
商品こそが “命”の会社であった。
優れた商品自体が営業マンであった。
現場作業の営業・販売業務には二次的脇役のイメージがあった。
だが、製造販売業の会社機構とは、オーディオ・システムと同じであった。
つまり、どんなに優れた楽曲・演奏があっても、再生装置がなければ、その演奏は聞くことは出来ない。
・・・カラヤン、エリントン、ビートルズであっても、優れたマイク、アンプとスピーカーが無ければ、その感動はより多数の聴衆に伝わらない、ということである。
企画・制作は演奏者、販促・宣伝はマイク・アンプ、そして営業・販売はスピーカーである。
スピーカーが無ければ、音は全く出ないのである。
VAN社はすでに強力な販売組織を創り上げてはいたが、新規社員採用が止まり退職者が相次ぐ中で、現在、その現場は危機的状況を迎えていたが、幸か不幸か丸紅体制になり、会社は、その重要性を再認識したようだ。
商売は、どんなに大規模になろうとも、店頭での、お客様からの10円・100円の入金から始まる。その積み重ねが10億・100億の企業の土台なのである。
・・・牧尾東京支社長は、この商いの原点を最重要視した。
「我社の原点は店頭にあり!」「営業・販売力を確保せよ!」
外回り現場社員たちに脚光が当たるようになった。
社内では、営業・販売社員に対して、かつては話も出来なかった雲上人だった管理職や先輩社員達から、直接お声が掛かるようになった。
「どうだ売れてるか?」
「売れているのではありません。売っているのです!」
「横田、きょうは飲みに行こうか」
上司の伊部部長から、今晩もお誘いがかかった。
伊部ヘッドは前・横浜営業所長である。
現在でも若大将の香りを残す社内では少数派の湘南型トラッドスタイルの方である。
会社を出て青山3丁目歩道橋を渡ると、パスコと海老屋青果店の間の路地を入る。花屋、魚屋の先を100mほど行った先に割烹料理屋があった。
品の良い小母様と息子さんの店主と素敵な奥さんの3人でやっている、このあたりでは、気の利いたものを食べられる小料理屋だった。
I「・・・今日の商談ごくろうさん。まあ一杯飲みなさい。丸井さんの先売りは好調のようだな、店頭売上も順調らしいな。」
Y「ありがとうございます。これも宮部さん達先輩や優秀な販売社員達のおかげです。」
I「こないだも丸井本社で鈴木本部長が、お前のことを誉めていたぞ。
青山から自転車に乗って商談にきた営業マンは、お前が初めてだ・・と
、がんばれよ。」
この店の小鉢はどれも美味かったが、特に焼き鳥は、剣菱の熱燗とあいまって銀座の鳥銀に負けずとも劣らない極上の美味さだった。
I「・・・しかし、アイビー総本山の我社にも、お前のような1型スタイルの社員はめっきり少なくなってしまったなあ。俺が入社した頃は、全員がギンギンのアイビースタイルだった。あの頃は会社が面白くて、休日にも会社に出勤していたものだよ。・・・お前を見ていると、その頃の事を想い出すよ、懐かしいなあ・・・。」
(・・・どうやら管理職の方々も、外部からの新社長、役員の下でご苦労な毎日が続き、少々お疲れなのかもしれない・・・。)
I「横田君、言うまでも無く、いまや我社は重大な局面を迎えているが 、もはや、この窮状を救うものはもはや社長でも取締役でも商社でもない。もちろん私ら部長でもない。それは君達のごとく、純真にして力に満ちた若い社員である・・・。君らの力のみである・・・。」
Y「部長!もう1度、楽しいVANヂャケットを作りましょう!なんでも命じてください。なんでもやります。私は絶対にあきらめません。私はVANが好きなんです。」
I「お前という奴は・・・」
真冬のVAN社をとりまく青山3丁目の町内の人達は、皆暖かかった。
熱燗の剣菱は、身も心も温めてくれた。
美味い酒にすっかり酔ってしまった私に対して、帰りがけに伊部部長はぽつりと言った。
「今の我社に、お前がもう10人居てくれたらなあ・・・・。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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