続・青春VAN日記106
ケント社の巻 その73(1985年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行⑦>
ニューヨーク
POLO本店研修の翌日はセントラルパーク界隈の散策であった。
53丁目NYヒルトンからカデカルさんと徒歩で気軽に散歩に出かけた。
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チャイナタウンの中華料理店(多分?)でのカデカル( 嘉手苅 ) 氏(右) と! |
セントラルパークに面して北にのびる5番街のことを、人々は“大富豪通り”と呼んでいた。
・・・19世紀、ニューヨーク市の北限は42丁目辺りだったという。ダウンタウンの急激な移民人口増加にともなって、市は都市計画の必要性に迫られた。
人種のるつぼとなった混乱のダウンタウンからは、成功を収めた裕福な境遇の人々が静かな広い土地を求めて北へと移って行った。
特に19世紀の、軌道馬車や高架鉄道を始めとする交通機関の発達は、その動きに拍車をかけた。
所謂NY市の田園調布や成城といった“山の手”の誕生である。
かつては先住民アルゴンキン・インディアンのレナぺ族によってMANNA-HATA(丘の多い島)と呼ばれ、先住民のゴミ捨て場であり単なる岩だらけの荒れた土地だった、というマンハッタンの中心部にあった広大な土地は・・・、1876年、NY市の都市計画によって現在換算値・1億2600万ドルの費用をかけ、東西800m、南北約4キロの緑輝くセントラル・パークとして生まれ変わった。
そしてその周辺には、高級高層住宅街(アパートと呼ぶが、日本の四畳半下宿とは意味が異なる高級マンションの事)や博物館や美術館等の文化の香り漂うアップタウンが形成されていったのである。
アップタウンで目に付いたのは玄関に立つドアマンの姿である。
ハイソサエティが集まると言うアップタウン。ここで充分なスペースのアパートに住むには相当の収入が必要らしい。
セキュリティのしっかりしたドアマン付きの住宅がステイタスらしい。ドアマン付きのアパートで暮らすには、月2000ドル(注 : 1ドル=250円程度・1985年当時)はかかるという。
危険の多いこの都市の人は、安全は金で買う物らしい。
しかしNYのドアマンは、安全管理のためだけに勤務しているのではなく、実はアパートの格を上げるために置かれているようにも見える。
格式張った派手な制服衣装が、それを物語っていた。この地のドアマンとは、ニューヨークのスノビズムと多発犯罪の双方が生み出した独特の職業とも言えるのではないだろうか。
それでも1980年、ジョンレノンはダコタハウスで射殺された。嗚呼!
80年代の今、ニューヨークのこの街にもベビーブーム世代が育っていた。裕福で教育熱心なアイビー両親に育てられた彼らは、プレップスクールに通い、伝統校を卒業し、都会的センスを好み、仕事は中堅エリート。
政治意識が強い様ではあるが、イデオロギーが特に強い訳ではなく、教養と良識あるゆえに、服装だけでなく精神の保守的な面も持ち、ヤンキースとジャズとトラッドを愛していた。
アップタウンのPOLO本店やセントラルパークの界隈には、2世を乳母車に乗せ、仲良く散歩する若夫婦達の姿がよく目に止まった。
・・・彼らは“ヤッピー” と呼ばれていた。
(※ヤッピーとはヤング・アーバン・プロフェッショナルの略だとか・・・。
それにしてもヒッピー・プレッピー・ヤッピー・ホッピー・グッピー・・?
なんでみんな“ピー”なんだろう?藤代先生教えて下さいオッパッピー。
ついでに 柳川VAN所長さんのブログでみかける“P”とは何の事?・・・)
私達は“ジョンレノン氏と柳川出身のオノヨーコさん”の住んでいた“ダコタハウス”(※1884年築、バーンスタイン、ジュディガーランド、ロバ―タフラッグ等のアメリカの有名人が住んでいた超高級アパートの先駆。)の前を通って、ストロベリー・フィールド広場のイマジン碑を見て、黙祷をしてからセントラルパークに入って行くのでした。
周囲をすべて高層ビルによって取り囲まれた公園内は、大都会の中でもとても人工とは思えぬほどの自然の緑に溢れていた。
静寂な森や岩の間にはリスの姿も見え隠れし、大きな池ザ・レイクには手こぎボート遊びのおじ様やラジコン・ボート遊びの少年の姿があり、まるでノーマン・ロックウェルの絵のような愛すべき世界だった。
そして公園内の遊歩道には、ジョギングやサイクリングを楽しむ沢山の人達の姿があった。思えばここはWE LOVE SPORTSの原点なのだ。
昔も今もここはニューヨークっ子のオアシスなのだ。
おもわず東京の明治神宮の奥の森や代々木公園や絵画館周回コースを思い出し、NYとTOKYOを比較している私でありました。
セントラルパークを横切り、セントラル・パーク・ウェスト通りへと散策を続ける私とカデカルさんの目の前に現れたのは、巨大な建造物!
アメリカ自然史博物館(American
Museum of Natural History)だった。
ここは、ティファニー等のヒカリ物には興味を持てない私達も・・・、(一応見学はしましたが・・・朝食を取るレストランはありませんでした。)私達歴史好きにとっては、時間を忘れてしまう程楽しい場所だった!
聞けば、ミュージアムの設立は1869年との事。
アメリカはえらい!大学も公園も博物館も、文化の程度が実に高い!
19世紀といえば、ダーウィンの進化論をはじめ、生物学上の数々の偉業が成し遂げられた世紀であり、また、イギリスをはじめとする世界の列強が未開の地に探検隊を送り、珍しい資料が収集され始めた時代でもある。
そんな時代背景の中で、自然と文化人類学の博物館をすでに計画していたとは、実に文化の奥行きが深い!(土産品も面白い!)
上野の国立博物館を凌ぐ圧倒的な広さと規模!
動物の剥製や恐竜の化石、アロサウルスの骨格、世界の人類民族の展示、
ネイティブのアルゴンキン、ナバホ、チェロキー、コマンチ、アパッチ、シャイアンの説明やクレイジーホースやジェロニモやカスター将軍等のビジュアルやジオラマ等の素晴らしさは、さすがショーステージの国。
とても1日では見きれないその誇大な展示内容には圧倒された。
・・・歴史にifは禁物であるが、もし、私が子供の頃からこの博物館に遊びに来ていたら・・・、きっとインディジョ―ンズやシュリーマンや吉村作治になっていたに違いない!(たぶん?)
ところで、ホテルで頂いたガイド・パンフレットによれば、53丁目のNYヒルトンからセントラルパーク界隈にかけては、たくさんの有名美術館の存在があったのですが・・・、不肖、美術絵画に疎い私には、見学の気持ちはありませんでした。
・・・しかしながら、只1か所だけは、皆に連れられて見学しました。
それは、近代美術館(Museum of Modern Art)通称MoMAでした。
ここは1880年以後のゴッホ、マチス、ピカソ等の高尚な絵画作品のみならず、私にも分かりやすい、写真、現代家具、建築デザイン、やポップアート、イラストレーション、といった大衆的分野の作品が展示されていたからなのです。
私達が若い頃の“平凡パンチ”創刊の時代。いつも誌面で見ていたのは大橋歩さん、横尾忠則氏や穂積先生や野原先輩達の“イラスト”でした。
ビートルズが爆発的にデビューしてエドサリバンショーに出演し、ミリタリールック、モッズ・スタイル、ピーコック革命、等々と流行していく時代でした。(渋いKentもデビューしていました)
絵を描く職業の中に、イラストレーターという部門が有るのを知った最初の時でありました。ポップという言葉を知ったのもその時代でした。
そして、当時の流行雑誌の記事の中には・・・、ポップアートの王様・ウォ―ホルのマリリンモンロー、コカコーラ瓶、キャンベル缶といった作品の載っているページもあったのでした。
ああ・・・あの時見たイラストがこの美術館の中にあるのか!それならば・・・見てみたい!と思ったのでありました。
・・・が、家具や建築や機械部品の展示物は、やっぱり良く分かりませんでした。(・・・これはいったい何なのだろう?の連続でした。)
すっかり歩き疲れてしまい、中庭の椅子に座り込みガラス張りの向こうに見える54丁目の美しいアパート街をボーっと眺める私達でありました。
・・・しかし、MoMAの魅力は他にも有ったのです。それは、1階にあるギフトショップでした。
様々な高機能な文具類や面白いマグカップや食器等が並ぶショップは、空港免税店の土産などよりは、よほど面白い物でありました。
(・・・しかし今日はいったい何キロ歩いたのだろう。いい加減疲れた!
明日こそは、ゆっくりとJAZZを聞きに行きたいものだ・・・。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
先日の台風14号、15号は沖縄、八重山地方を直撃しましたが、
嘉手苅さん、何事も無かったでしょうか。
これからもしばらく台風シーズンが続きます、お互い十分気をつけましょう。 |
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