続・青春VAN日記107
ケント社の巻 その74(1985年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行⑧>
ニューヨークでJAZZを聞く
「さあ、今日こそは本場のJAZZを聞きに行くぞ!」
意気上がるジャズ好きメンバー達でありましたが、例によって、具体的な予定計画の決まっていない適当グループなのでありました!当日になってから、どこにしようか行き先を考え出す私なのでした・・。
・・・思えば私が中学生になった頃、我家の真空管ラジオからは、「ワシントン広場の夜は更けて」と言う曲が聞こえていました。
バンジョーのイントロで始まるこの曲は、“ビレッジ・ストンパーズ”と言うデキシーランドジャズ・グループの軽快で心地良い曲でしたが、当時の私にはジャズもデキシーもブルースも何も分からなかったし、ワシントン広場もビレッジの地名も何も知らなかった。
軽快なリズムの楽しそうな曲だけが、はっきりと記憶に残っていた。
・・・やがてテレビの西部劇やドラマで米国知識を増やし、英語の授業でビレッジとは村の意味の英単語である事を知り、理科の授業でロンドンのグリニッジ天文台の地名を知った私でしたが、かの“ビレッジ”とは、単なる村の意味では無くニューヨークの“グリニッジ・ビレッジ”の事であり、“ワシントン広場”とは、“グリニッジ・ビレッジ”にある1地名であると知ったのは、MC誌を読みだして物心ついてからの事でした。
そんなグリニッジ・ビレッジやソーホーの歴史は200年前に遡る。
そもそも島の南端にオランダ人が街を作り、交易の場にしたことから居住区・住宅地はその北側に発展せざるを得なかった。
それが“グリニッジ村”の始まりだった。
(※この時代のNY土地名は英国地名の流用が多い。グリニッジやチェルシーも、ソーホーにしてもSouth of Houston streetの略だが、ロンドンと同じだ。)
19世紀のビレッジの地には、郊外の落ち着いた街並みと環境に惹かれて特に、作家や芸術家や音楽家の文化人達が住み着き始めたという。
オ―ヘンリーやユージン・オニールといった人達である。
そうして出来た雰囲気は、その後の自由を求める芸術家の活動する場や、またニューヨーク大学等の学園の街へと発展していくきっかけにもなっていったという。
1892年、ワシントン大統領就任100周年を祝ってビレッジに作られた大理石の門・ワシントン・アーチのあるワシントン広場では・・・、ストリート・ミュージシャンや大道芸人を前に人々が集まり出し、楽器を手にした若者や、フォークダンスを楽しむ老人達が集い、夜遅くまで人の絶えない場所となっていったという。
そしてこの風土は、ビレッジに様々なNYカルチャーを生み出し、やがてはマジソンスクエアガーデンやオペラハウスやカーネギーホール、そしてブロードウェイのラジオシティ・ホール等々へと、いくつもの劇場を作り、ミュージカルやジャズ音楽を発展させていくNY芸術娯楽文化の出発点になって行くのでした。
|
|
ラジオ・シティー |
エンパイヤステイトビルより
メイシーズ側の眺め |
|
・・・そして20世紀。
“1920年の禁酒法時代の幕開けから1929年の大恐慌までの10年間。”
ニューヨークは、第1次世界大戦後の戦争景気の豊かさに満ち、新しい文芸、音楽、大衆文化、社会主義運動などが混ざり合った多彩な文化・風俗が発展した。
これが所謂“ローリング・トゥエンティ”であり、新しい“ジャズ・エイジ”の開花であった。
JAZZとは?
・・・中州産業大学JAZZ学科助教授・森田一義先生の御講義によれば・・・
JAZZの歴史は、18世紀アフリカから人身売買で拉致されてきた米南部の黒人奴隷達によって始まった。・・のである。
キャプテン・ドレイクの時代から綿花の貿易港として賑わっていたミシシッピ―河口の街・ニューオリンズでは、多数の黒人奴隷達が、苦しい奴隷生活や重労働の綿摘み作業の悲哀を味わっていた。
動物扱いの地獄の苦しみの中で、彼らはキリスト教会に救いを求め、そこで教会音楽や賛美歌と触れ合い、苦しい日々の生活を慰める独自の “黒人霊歌”や“綿摘みワークソング”を生み出し・・・、ブルースやゴスペル等の、黒人音楽と西洋音楽の融合する世界を作りだしていくのだった。
(※子供の頃読んだ「アンクルトム」や、学生時代に聞いたビリーホリディのStrange Fruit「奇妙な果実」や、TVドラマ「ルーツ」の世界。
・・・“奇妙な果実”とは、リンチに遭った黒人が木から吊るされている悲惨な光景である・・・若い私には衝撃だった。)
やがて、南北戦争の北軍勝利によって、南部の黒人奴隷達は、リンカーンの奴隷解放によって自由の身分となり、又、終戦によって放出された軍楽隊の楽器を手に入れ、譜面も読めない住民達によって、冠婚葬祭等のブラスバンド “聖者の行進”が始まった。
1900年頃のニューオリンズでは、かの “吉原”や“島原”と並ぶ有名な売春街“ストーリーヴィル” が大繁盛の時を迎えており、酒場や遊郭の遊興の場のBGMには、黒人達の器楽演奏や唄が盛んに使われるようになった。
・・・1914年、第1次世界大戦が勃発した。
ニューオリンズは欧州派兵の軍港となり、赤線街は閉鎖された。
にっちも“サッチモ”いかなくなったルイ・アームストロング達のストーリーヴィル・ミュージシャンは新たな仕事場を求めて、ミシシッピ―川を外輪船の舟に乗り、北上するのでした。
(※まさにミュージカル“ショウボート”の世界であります。)
“オールマンリバー”のミシシッピ―川を逆登ったニューオリンズの音楽スタイルは、またたく間に川上のセントルイス、カンサスシティ、そしてシカゴの地に広まっていった。
その規則にとらわれない(譜面の無い)自由な器楽合奏の表現スタイルは、白人の音楽世界にも大きな影響を与えていったのです。
(※白人達の演奏するニューオリンズ・スタイルがデキシーランドと呼ばれた。
・・・デキシーランドとは南部諸州を指す俗称である。)
ニューオリンズではJASS(性行為を意味するスラング)と呼ばれていた売春街に発達した音楽は、ミシシッピ―の流れにそって、セントルイス・ブルースやカンサスシティ・スタイルを創りつつ、大都市シカゴでは白人音楽にも洗練され、JAZZと呼ばれる音楽に成長して行った。
カンサスシティ~シカゴ・ルートからはカウント・ベイシーも登場し、JAZZの大きな波は、ついには第1次世界大戦後の好景気に浮かれる大都市ニューヨークに到着し、 “ローリング・トゥエンティ”の熱気溢れる大都会において、一気に花開くのでありました。
1920年代、禁酒法時代の狂騒のニューヨークにおいては・・・、シカゴの街からのアル・カポネの密造酒やギャング団達とともに、ニューオリンズ~シカゴを経由して来たJAZZが大ブレイクした。
マンハッタンに発達した地下の非合法闇酒場やダンスホールでは、夜毎に、富豪・政治家・有名人・ギャング・マフィア達が集い、“酒と女とダンスとJAZZ”の豪華絢爛な夜の世界が出現した。
(※私が映画で見た、ローリング・トゥエンティの世界。
あのギャング達の派手なボールド・ルック。
裕福層の華麗なるギャッツビ―スタイル!
アンタッチャブル達の地味なダークスーツスタイル。
そしてトンプソン・マシンガンやショットガンやコルト・ガバメントの市街銃撃戦は実に強烈な印象だった・・・。)
かくして大人気となったJAZZ音楽は、ついにはニューヨーカー達の人気を得たのみならず、果ては第2次大戦前夜の東洋の上海や東京にまでJAZZブームを(月光値千金・セントルイスブルース・ダイナ・・・等)引き起こすのでありました。
ハーレムの不夜城、高級ナイトクラブ“コットン・クラブ”では、ニューオリンズ・ジャズの生みの親、ルイ・アームストロングやワシントンDC出身のデューク・エリントン、が大人気を博し、(※客の中にはチャップリンやアル・ジョンソンやガ―シュインがいた。エリントン代表曲“Aトレイン”とはNY地下鉄“8番線”の事である。)
カーネギー・ホールでは、ジョージ・ガ―シュインの「ラプソディ・イン・ブルー」などが初演され・・・、巷では、チャールストン・ダンスが大流行し・・・、ついにカンサスシティ・スタイルのカウント・ベイシー楽団が登場、そしてグレンミラーやベニ―グッドマン等の白人ビッグバンドの “黄金のスイング・ジャズ時代”が幕を開けるのでした。
そして、この華やかな史上最大の繁栄世界を作り上げたのは、第1次大戦後の米国経済の好景気の力でした。
トーマス・エジソンの白熱電球やグラハム・ベルの電話の発明以後、鉄鋼王カーネギー、石油王ロックフェラー、自動車王フォード等による国家的規模の産業は急成長を続け・・・、また、20世紀の現代アメリカ文明の核となるマスメディア産業などが、誕生・成長し、ラジオ放送や映画産業も始まった。
ウォール街には「ウォールストリート・ジャーナル」が登場し、マジソン街には「リーダース・ダイジェスト」、「タイム」、「ニューヨーカー」、「ニューヨーク・タイムス」等有名新聞雑誌も登場し、アメリカは、英国にとって代わって世界文明の頂点となるのでした。
かくしてNY発展と共にマンハッタンを代表する音楽となったJAZZは、1920年代のハーレムの高級ナイトクラブ“コットン・クラブ”や“サボイ・ボールルーム”(ダンス劇場)に続いて・・・、(※名曲“ストンプ・アト・サボイ”のサボイとは、ホテルではなく、ハーレムのボール・ルームのことでした・・・!)
1930年代の “ヴィレッジヴァンガード”(ウエスト・ヴィレッジ) 、“ミントンズ・ハウス”、 “カフェ・ソサエティ”と続き、第2次大戦後には“バードランド”や“ファイブ・スポット”が登場。
“JAZZ”は、デキシー~スイング~ビバップ~モダン~クール、フリースタイル~ウエストコースト~フュージョン・・・等々と、ますます進展していくのでした。
(※以上の説明は、例によって浅薄・稚拙・適当な横田説ですので御了承下さい。)
・・・そんな訳で、
「・・・さて、今晩、何処にJAZZを聞きにいきましょうか?」
清徳・藤代・カデカル・横田達のジャズ好き派は、あたふたと各店の出演者、場所、費用等情報をあ~だこ~だと検討するのでした。
(・・私達は、服と同じで最先端や流行の音楽にあまり興味は有りませんでした。)
そして、全員が異議無しの有名演奏者の名前を見付けだしました。
それは、「アートブレイキーとジャズメッセンジャーズ」の名でした。
団塊世代では、この名を知らない人は居ないでしょう?
60年代のラジオ“TBSバックグランドミュージック”からは、毎週のように“死刑台のエレベーター”のテーマ曲が流れていたものでした。
さあ、セントラルパーク・ノースにある、「マイケルズ・パブ」に出かけるぞ・・・!!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
|