続・青春VAN日記111
ケント社の巻 その78(1985年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行⑫>
想い出のサンフランシスコ !!
♪ I left my heart in SanFrancisco
High on a hill it calls to me
To be where little cable cars
Climb half way to the stars
The morning
fog may chill the air
I don’t care
My love wait there in SanFrancisco
Above the
blue and windy sea
When I come home to you SanFrancisco
Your golden sun will shine for me |
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クラブ御一行が次に訪れたのは、西海岸サンフランシスコでした。
藤代先生、清徳氏、私ら3名は、かつてV社員旅行で訪れた街であり、その美しくも懐かしい景色はトニーベネットの名唱とあいまって、実に郷愁を感じる街でありました。
この街は大都会でありながらも、山有り海有り坂有りと変化に富み、蒸し暑かった南部に比べると、太平洋の寒流のおかげで夏でも涼しく、実に快適な観光を楽しむ事が出来ました。
狭い半島の先端にあるこの街は、有名観光ポイントが近い距離に隣接していて、ユニオン・スクエアのホテルに宿泊した私達は、ケーブルカーを使えば、徒歩でもいろんな場所に行く事が出来るのでした。
・丘の上から市全体を見渡すツインピークス、
・クネクネ坂道のあるロンバードストリート、
・旅情溢れるレトロなケーブルカー。
・カラフルな住宅街のお洒落な垢ぬけした街の風情。
・潮の香りのフィッシャーマンズワーフ。
・真っ赤に輝く巨大な金門橋とゴールデンゲート・パーク。
・アル・カポネもお世話になったアルカトロス島。
・キャラハン刑事がいそうなダウンタウン。
・ブルース・リーの出てきそうなチャイナタウン。
・・・嗚呼、想い出のサンフランシスコ・・・。
さて今回のサンフランシスコは、観光名所巡り話を離れて、私なりの西海岸トラッド話と西部の地で感じた思いを述べさせて頂きます。
サンフランシスコ物語1
・・・時は中世・ルネッサンス時代の欧州。
かつては神聖ローマ帝国皇帝をさえも、雪中に土下座させて許しを乞わせた強大な権力を持つバチカンでありましたが、十字軍が失敗に終わると、東方世界の文化の刺激も受けて北イタリアには産業・芸術・建築等の文芸復興の大きな流れが起こり、ドイツでは活版印刷術を利用したルターの宗教改革の運動が始まった。
ローマ・カトリック教会は、新教・プロテスタント興隆の大きな時代の波に曝される事に成ったのである。
プロテスタントの改革運動に強い危機感を感じたバチカンは、新教を激しく弾圧するとともに、カトリックの基盤国であったスペイン・ポルトガル・イタリア等のラテン系諸国を中心に、カトリック布教の宗教活動促進を命じた。
そして時は、まさに羅針盤と火薬の大航海時代であった。
コロンブス、マゼラン、バスコ・ダ・ガマ等の探検から始まった大航海時代は、やがて欧州列強の海外進出競争に発展した。
それは、ゲルマン・アングロサクソン系のプロテスタント諸国と、ラテン系・カトリック諸国との、激しい争いでもあった。
列強の海外進出は、交易利権競争や植民地獲得競争に留まらない、キリスト教・布教活動の宗教戦争でもありました。
そしてそれぞれの船団には、貿易商人や兵士と共に、布教活動のための宣教師が乗船していたのです。
・・・カトリック信者獲得の海外布教活動に力を尽くしたのは、バスク地方のイエズス会(イグナチオ・デ・ロヨラ、ルイス・フロイス、フランシスコ・ザビエル・・・等)や、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ教会・等でありました。
そして植民地獲得競争を始めた西欧列強は、新大陸を発見?
(※西欧中心史観の極みである。ネイティブには迷惑な話。)
アメリカ大陸、インド、オーストラリア、東南アジア、中国等の世界の海に進出し、戦国末期のジパングにもキリスト教や鉄砲を伝来させ、宗教を伴って世界各地に進出していったのです。
(※大航海時代の主役は帆船でした。外洋航海用に建造された大型船には、大量の帆が必要でした。
そして、その帆に必要なキャンバス地等の丈夫な厚地綿織物は、当時の織物生産地のドイツ・バイエルン地方や、イタリアのジェノバや、フランス南部の織物都市デ・ニームで作られていたのです。
後年このジェノバが英語読みに変化してジーンズの語源になったとも、また、丈夫な帆布用生地が“デニム生地”と呼ばれる様になったとも、言われる由来なのです。
中国産の綿素材生地が米国の軍服使用によってチャイナ産からチノ―ズと呼ばれる様になったのと同様なのであります。) |
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かくしてコロンブス以後の16~17世紀の北アメリカ大陸は、西欧列強の各国によって虫食いのように浸食される事となった。
(※新大陸アメリカの地名はイタリア探検家アメリゴ・ヴェスプッチ名に由来する。コロンブスが新大陸をアジアであると考えたのに対し、アメリゴは新大陸であると主張した。)
東部地方にはオランダ・英国が、南部地方やカナダはフランスが、西部海岸地帯やフロリダは、スペインによって入植された。
1769年、インディアン・オ―ロネ族の暮らしていた米西海岸の平和な土地に、カトリック教徒のスペイン人が入植を始めた。そして同行のアッシジのフランチェスコ会信徒の修道士は、自分達の崇拝する創設者名に因み、この地を“聖フランチェスコ”(英語読みサン・フランシスコ)と名付けた。
これが、サンフランシスコ地名の語源であると言う。
(※1821年メキシコ独立革命によって、この地は一時メキシコ領となり、”ヤ―バ・ブエナ“と呼ばれたが、やがてアメリカ人の入植者が集まりだし、アラモ砦の戦いや米墨戦争(1846年)を経て、合衆国領土となった。)
そして、西欧列強同士のアメリカ植民地争いが一段落した19世紀。
英米戦争に勝利した合衆国連邦政府は、国土拡大方針によって、先住民インディアンを駆逐しての東部から内陸部への大進出を始めた。
最初はアパラチア山脈を越えて南部のルイジアナ方面へ、そして1840年頃からは西部の新天地オレゴンを目指すようになった。
さらに1848年、進出をさらに促進する出来事が起きた。
カリフォルニア・サクラメント近郊で金鉱が発見されたのである。
カルフォルニア・ドリーミングの誕生であった。
かくして、カルフォルニアに金を求める国民の大移動が始まった。
1849年! ゴールド・ラッシュの始まりである。
当初は、たった数百人の白人人口であったサンフランシスコには、49年度だけでもアメリカ全土からの開拓者10万人が押し寄せた。
・・・そしてこの時、集まった新開拓者達は、49年組と呼ばれた。
・・・この呼び名こそは、NFLスーパーボウル5回優勝の・・・、
(※あの東京ヴァンガ―ズのジョーモンタナこと五十嵐さんも憧れた・・・、米国単独自転車横断のムッツリーニ堀さんも大ファンの・・・、)
サンフランシスコ“フォーティ・ナイナ―ズ”の語源なのです。
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San Francisco 49ers |
(※ゴールドラッシュで成功した起業家は、その財を元手に事業を展開した。
この騒ぎの中で商売を成功させた一人が、リーバイ・ストラウスである。かの帆布生産地であるドイツ・バイエルン地方出身者であった彼は、1853年、サンフランシスコに「リーバイ・ストラウス社」を設立した。
大航海時代の帆船用の丈夫な帆布が、蒸気船の時代になって需要が減少し、幌馬車の幌に使われたりしていたものを応用したものだった。
丈夫な綿糸をガラガラ蛇の嫌うインディゴ染料で青く染め、酷使に耐える丈夫なリベット止め仕様の野外労働用の作業服を作り、これを、金採掘業者や鉄道建設労働者達やカウボーイ達に売りだした。
すると、この究極のヘビーデューティ・ウエアは大ヒットし、彼は成功し、やがて世界のリーバイス・ジーンズへと発展するのでした・・・)。 |
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閑話休題
はたして日本人最初のジーンズ着用者は誰だったろう?
サクラメントで金の採掘を経験したジョン万次郎だろうか?
はたまた戦後日本でジーンズをいち早く穿いた人は誰だろう・・・?
日本のデ・ニームの地・岡山の石津謙介か?それとも白洲次郎か?
そして戦後この“裏白”と呼ばれたデニム生地をいち早く商品化したのは、
大阪北炭屋町VANの石津謙介と高木一憲と大川照雄の創ったブランド、
“ケン・タッキー”であった・・・!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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San Franciscoの宿泊場所、
Sir Francis Drake Hotelで購入した
ケーブルカー型鉛筆削り ( 鋳物製 )、
車輪が取れてしまいました |
Doorman |
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