続・青春VAN日記119
ケント社の巻 その86(1986年)
<中間管理職の若干の苦悩>
さて、営業・販促業務に勤しむケント1型社員の私でありましたが、この仕事は顔の広さが一つの決め手でもあります。
したがって仕事に勤しむほど、その付き合い・交友の輪は広がり、当然、プライベートな個人の自由時間の量は減って行くのでした。
「実力ある社員とは業務は勤務時間内に済ませるもの。残業はしない。」
「自己研鑽の時間を作れなければ、能力再生産の成長は止まる。」
・・・の私ではありましたが、上からの要求と下からの要望の両面に答えるのは、なかなか大変な事でした。
そして私の仕事のモットーは“生涯1サービス業”でありました。
「サービス業とは、お客様に喜びを供給する仕事である。」
営業目標やお客様都合の時間に合わせて行動しなければならない私の業務は、通常商談業務から夜のミーティング・接待に至るまでフル活動なのでありました。
そして私の日常生活からは、自由時間は減少して行き、好きな、読書・音楽・映画観賞、プラモデルやサイクリングを楽しむ時間も無くなり、ついには最新流行のヒット曲名も歌手名も分からなくなって行くのでした。
ライフスタイル論を唱える私にとって、余暇有るライフスタイルは空しい夢となるのでした。
出張や外勤業務が多く定時間労働の感覚の薄い営業や販促の仕事とは、季節に合わせて遠洋漁業に出かける漁師生活とも似ているものでした。
そんな私のささやかな憩いは、狭いながらも楽しい我が家でのひと時。
そして独身時代には何の苦も無かった出張や残業や接待業務は、結婚後は次第に負担に感じられていくのでした。
(※すべからく人間は、大切なモノを持つ事と引き換えに、自由を失う。
仕事・家・車・高級品・彼女・等々・・・そこには責任と義務が発生し、その保全・維持・管理に束縛され、自らの自由を減らしていく・・・。
・・・人間とは本来“起きて半畳、寝て一畳”であるが・・・資産・財産やモノやヒトを所有する事は、自由を失う事でもある。
物事には万事“作用と反作用”、“プラス+マイナス=0の原理”がある。
歴史を振り返るまでも無く、古の英雄の“立身出世・栄耀栄華”の裏には必ずそれに匹敵する“ドロドロの修羅地獄”が存在する。
塗炭の苦しみ無くして、“真の幸福”などは有り得ない。
だから偉大な先人達は、“汝自身を知れ、分相応に”と諭しているのだ。
額に汗もせず努力と苦労もせずに“玉の輿や白馬の王子様”を夢見る事や、一攫千金の賭け事に夢を見たり、高級品の名を借りてその身を着飾り、己を偽る事は、発展途上人間の自由と勝手であるが、・・・私に言わせれば、それらは大自然の法則に逆らう姑息な利己主義であり、“ズル”であり“詐欺”なのです。
良いとこ取りのプラスだけの人生などはあり得ない。
それは大自然の摂理に合っていないのです。
(※・・・悠々と貧を楽しむ悠貧をもって歳を取るべし・・・石津謙介。
質実剛健・・・それが私のファッション感なのであります・・・。) |
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そんな訳で不肖の私にも、遅ればせながら伴侶になってくれる奇特な女性が現れたのですが、仕事と家庭を両立させる事とは、本人にも家庭にも理解と覚悟が必要でした・・・。
私は“釣った魚に餌はやらない”論には、絶対の反対論者です。
自分を信じてくれる人達には最大限に尽くしてあげたい。
新たな扶養の責任と義務を手にした身でどこまで頑張れるのか?
さすがの“会社・命”の1型社員も、自分で招いた現状にも関わらず、フル回転のハードな生活に少々苦痛を感じ出し、次第に安定した定時間労働でのデスク業務に対して憧れの気持ちを感じていくのでした・・・。
そんな折、果して、幸か不幸か?
私は、3年以上に渡る出張生活の疲労で見事“ぎっくり腰”になってしまったのであります。(ついでに自律神経失調症も!)
そして腰痛持ちの麻布病院通いの身となった私は・・・、状況を見かねていた牧尾社長からようやく辞令を頂く事になり、ケント社・販売促進担当部長に任命されるのでありました。
<私のアフター6>
部下の増えた私のやるべき事は、 “ヒューマン・リレーション”作りでした。
想い起こせば70年代のV社の新入社員時代。
VANらしい仕事のやり方・酒の飲み方や付き合い方を教えて頂いたのは、営業1部5課の宮部ヘッドや石川昇さんからでした。
場所は新宿3丁目の“どん底”でした。
(※本当に面白かったVANの楽しさをぜひ後輩達にも伝えたかった。)
そして80年代の今、管理職になった私が若手営業社員を引き連れて飲みに行くのは、やっぱり新宿でした。
新宿西口しょんべん横丁(思い出横丁)、花園ゴールデン街、2丁目・3丁目界隈の“どん底”やオカマバー、ピットインやワークショップやJAZZ SPOT J・・・・。
(※これらの店の遊び方や接客サービスや話術は実に勉強になりました。)
又この頃には、あの“どん底”で遊んで頂いた“北村秀行さん”が、2丁目に居酒屋“CHAR”を開店されていました。
“釣り名人”で有名な“チャ―・マス”こと北村さんの店では、懐かしい顔ぶれの皆さんが集まっていました。
尊敬する宮部さんや、佐野雅夫君、V同期の和同流空手の園田君、ラングラー営業の斉藤さんや小林涼一君、そしてV同期・佐野くんの仲間で明学少林寺拳法部副主将だった・・・警視庁マスザキ警部とも再会するのでした・・・。
【 追伸 】
3丁目の琉球料理“野村流”のお店では、なんと故郷の中学校で仲良しだった学年一の秀才、内田俊一君に偶然に出会う事が出来た。
前橋高校に進んだ内田君は糸井重里氏と知り合い、今は法政大学であの田島陽子氏の隣に教授室を持つ有名な独語教授であった。
・・・かくのごとく、私にとって夜の新宿の街とは、
新宿地下街フォークゲリラ、藤圭子の唄が流れる学生アルバイト時代
たくさんのV先輩に教えられた三越時代、丸井時代
赤塚不二夫・タモリ両先生と出会った倒産時代
・・・・・と、私の青春時代をかたち作る、様々な人生の出会いに満ちみちた、想い出のルーツの街だったのであります。 |
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“ どん底 ” ファサードと店内 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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