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続・青春VAN日記142

ケント社の巻 その1081989秋)

<リズム・メロディ・ハーモニー>

昔から、歌は世に連れ世は歌に連れ、なんてえ事を申しますが、
古代の昔から“歌舞音曲”は人間の生活にとって必要なものでした。言語だけでは不十分な、人間の心を表現伝達する大切な手段でした。

・農耕労働の、田楽・綿摘み歌・船曳歌・茶摘み歌・民謡・・や、
 狩猟や戦での合図のラッパ・ホラ貝や放牧場でのホルン等・・。

・人間の愛や情感を伝える、子守唄・ラブソング・セレナーデ等・・。
・青春の想い出の、校歌・応援歌・逍遥歌・青春歌謡等・・。
・集団を統率し鼓舞するための、国歌・軍歌・行進曲等・・。
・心の祈り・自己陶酔をもたらす、讃美歌・念仏・コーラン等々・・。

そして人生のSCENEには、必ず音楽が在りました。そして嬉しい時、悲しい時、苦しい時、休息や憩いの時にも、音楽は人の心を癒やしてくれました。

音楽は伝達・連絡の手段としての音や歌として始まった。そして、音を出すために作られた器具である“楽器”が創られた。

まず初めに集団生活のリズムを作る鐘や太鼓の打楽器が作られた。
次には感情や情景の表現ができるメロディを奏でる楽器が作られ、宗教の発展にも伴って世界中には様々な種類の楽器が発達した。
打楽器・管楽器・弦楽器・鍵盤楽器・・電気楽器・電子楽器等。


そして多種の楽器が集まって合奏をするためには、基準となる音の世界の秩序と調和を保つハーモニー“和声”が必要だった。

和声(音楽理論)とは音の世界での“秩序”でありました。それは複雑化する人間の社会構造にも共通するものでした。
・人には必ず個人の“リズム(拍子)”というものがある。
・人はそれぞれが自分の人生の“メロディ(旋律)”を持っている。
・人々の集団生活には“ハーモニー(調和)”が必要である。

多数の人間が暮らす社会には、最大多数の最大幸福の実現のための規準と秩序というものが必要でありました。国家に法律が存在し、交通に規則があり、言語に文法があり、スポーツにルールがあり、音楽・ファッションにもコードがある。
“和声”とは社会や家庭にもマナー、モラル、コンプライアンス等が必要なのと同様に、音の世界での“秩序”でありました。そして音楽の三要素はリズム・メロディ・ハーモニーでありました。

(※話しは少々横道に逸れますが・・・、
人間は何故“3”の数字が好きなのだろうか?何故、世界中の格言や金言には“3”の数字が多用されるのだろうか?私達世代は皆、背番号3の長嶋選手への憧れのおかげ・・なのだが、「三人寄れば文殊の知恵」「石の上にも三年」「仏の顔も三度」「三度目の正直」「三尺下がって師の影を踏まず」・・・等々。容器の鼎は普通三足で、3人で話すことを鼎談と言う(三国志)。
カラー印刷は三原色、立法・司法・行政は三権分立だ。三バカトリオ、三銃士、御三家、三人娘、三役力士・・・等々、そして国家の三要素は“領土・国民・主権”であるとか・・・、神の本質は“父と子と聖霊”の三位一体であるとか・・・、教育の基本は“両親・学校・地域”のPTAの三要素にあるとか、肥料の三要素は“窒素・リン酸・カリウム”であるとか・・・、経営の三要素は“人・物・金”であるとか・・・、ああ、きりがない数字“3”の摩訶不思議とは?教えて藤代先生・・!)

なんとT P O が抜けているではないか!
「 3 」 に纏わる言葉の基本ですぞ、ゆめゆめ忘れることなきように。

では簡便かつ適当に?? 解説すると・・・、
なにゆえ多用されるのか、多々ある説のひとつ、どうもその数字の持つ基本的安定感からきているようじゃの。
 例えば、今世の中注目の的となっている “キールアーチ“、この竜骨様の構造体の中身もまた3に関係していると思われる。つまりトラス構造じゃよ。
 3角形を基本構造とし、部材は最小で安定して強度を保てる、その発展形がハニカム構造、蜂の巣を見れば、最小の材量で剛性が高く、また最大の室内空間確保が可能となることから自然界で積極的に選ばれるほどのものじゃろ。3が基本なのじゃ、安定感が第一・・・?


そして音楽の三要素である“リズム・メロディ・ハーモニー”とは、音の世界のみならず、人間の社会生活においても必要な、人間の“人生交響曲”の作曲に不可欠な三要素でもありました。・・嗚呼、音楽の存在しない社会や人生なんて・・・、・・・クリープを入れないコーヒーのようなものだ?!

さて、話は変わって、かつて私達の団塊世代が青少年だった時代・・・、歴史上最大の同世代人口・過剰競争社会の中で生きる若者達は、戦後復興に燃える高度成長時代の大きな世の中の潮流と・・・、多数の労働力を必要とする急激な産業構造の変化の中で・・・、激流に浮かぶ木の葉の様に翻弄されていた。

経済活動の中心は、第一次産業から第二次産業へ、さらには第三次産業へと移行していった。昭和時代の安定した人生を約束するものとは、まず学歴だった。青雲の大志を抱いた若者達は、こぞって大学を受験した。所謂、史上最大の“狭き門・受験戦争”の勃発である。

大卒の肩書を手に出来るのは同世代人口の1割に過ぎなかった。その厳しさは人口減少・学校数増加の平成時代の比では無かった。学生たちは皆“四当五落”で勉強したものだった。そして受験生の心を和ませたのは、ラジオから流れる音楽だった。

当時の受験制度には、便利な?“共通1次試験・センター試験”などというものは無かった。全国の受験生は志望大学を受験するために遠路はるばる上京した。有名校の倍率は、2030倍は当たり前の時代だった。“推薦・一芸入学”出来たのは、長嶋クラスの天才だけだった。

受験生達は校風・偏差値・学費・立地場所・試験日程までをも熟慮して、第一志望、第二志望と・・併願受験の計画を立てた。国公立~早慶~有名私大の大きな流れの中での自分の位置づけに受験生達は苦悩した。そして第一志望に合格できたのは、一握りの人達だけであった。
奮闘努力の甲斐もなく私も合格したのは第二・第三志望大学だった。そして私の母校となった神田神保町の古典的伝統大学には、当時の併願受験日程の微妙な組み合わせのおかげ様なのか、第一志望の早慶入試に失敗した受験生が一群となって入学していた。
 武道館での入学式の後日、東条会館で催された経営学部51組の新入生親睦コンパに集まったクラスメイト達の顔は悲喜こもごも。合格出来たとは言え、第一志望校入学には失敗してきた皆の顔は、嬉しいような嬉しくないような、まずは受験地獄から解放された安堵と虚脱感の表情であった。しかし、失敗してもくじけないのが団塊競争世代の強さである。

It is no use Crying over spilt milk!

(※武道館入学式での大学総長訓示!
「・・明治の初め、米国に留学して新しい学問を学んだ創立者達は、1880年、この幸福 を日本にいる多くの青年たちに分かち合いたいと本学を創立した。本学の建学精神は、 立身出世では無く、社会に対する「報恩奉仕」である。人間は一人では生きられない。 人の上に立つ事が男子の本懐ではない。エリート校卒業の主役ばかりで人生劇場の舞 台は成り立たない。西郷さんも坂本竜馬も吉田松陰も二宮尊徳も、皆エリートでは無  い。人には皆、それぞれに歴史上の役割“分”というものがある。」
「泥にまみれた有名人になるよりも、善良で愛と親切に徹した社会人たれ」
No1よりNo2たれ」「諸君は学べる事の幸運を社会に感謝・還元せよ!」

・・・総長であり、本学OB・自民党総裁・川島正二郎氏の訓示だった。
・・・この伝統大学の校風も、“質実剛健・誠実力行”であった。)

当学のメリットは、早慶と並ぶ歴史伝統と学費の安さであった。初年度入学金・授業料の合計額は、なんと¥138000であった。
(※私学の他校文化系は2030万円以上が普通の時代だった。)

級友となった貧乏学生達は、学食の50円のうどんそばラーメン、カレーライス、時には100円のハンバーグランチの贅沢をしながら、毎日の講義に出席して勉強(昼寝)し、アルバイト生活にも励んだ。そして、5月病にもならずに学生生活に馴染んだ51組級友達は、打ち解けてみると、偶然にも皆が共通の趣味や話題を持っていた。

・・かつてラジオ深夜放送のFENやディスクジョッキー番組の音楽を聴きながら勉強し、シャボン玉やヒットパレードのTV見て育ってきた若者達の、共通の話題は音楽だった。

嬉しい時・悲しい時・苦しい時、心の通じ合う音楽があった。やがて、誰からともなく楽器を持ち寄ってきた級友達は、リズムの担当者・メロディの担当者・ボーカルの担当者・・・と、 バンドが結成され、キャンパスに青春の華を咲かせるのであった。

人は皆、力を合わせた時に素晴らしい“ハーモニー”が始まる!
・・そして20年後の平成時代の秋の休日・・、かつてのバンド仲間だった級友達から連絡が入った。
「お~い俺たちも40歳過ぎたぞ、そろそろ仕事も一段落して遊ぼうぜ!」
・・我らが学生バンド “ジャンクション”再結成のお誘いだった。・・・あの頃は、・・・それぞれが所属したジャズ研・フォークソング部等の部活動とはまた別の、遊び仲間の友達バンドを作ったものだった。

狙いは色んな音楽部の交差する“ジャンクション(接合点)”だった。
演奏曲目はスタンダード・ラテン・ボサノバ・ロック・等を中心に、サンタナ、ブラジル66ACジョビン、アストラッドジルベルト、バカラック・トムジョーンズ・フンパーディンク・・等々。

・・清里の清泉寮で合宿練習を行い、学生ダンスパーティや横浜アスターホテル・六本木のクラブSAWA等々で演奏したものだった。

・・・もうあれから20年か!懐かしいな~!集まった青春のアラフォーメンバー達は、
・リードギター桂茂雄(小倉高出身・Jazz研ギター名人・,現レナウン部長)
・ベース・ボーカル田子直史(フォークソング部長・現長谷川工務店課長)
・ドラム竹治民宏(ジャズ研・スティーブガット教即本著作・現食品会社経営)
・キーボード名取寛(ジャズ研ピアノ・現㈱日鋼産業社長)
・女性ボーカル長野ひろみ(フォーク部のPPM嬢・現アメリカ在住)
・サイドギターと司会・横田哲男(VAN
・マネジャー西村泰正(元湘南ライフセイバー・現㈱キャラバン課長)
                                    ・・の7名だった。
集合場所は田子氏の勤務する港区㈱長谷工本社のステージであった。
バンマスは“大学界のNo Keyエドワーズ”と謳われた桂君である。

「昔の譜面を持ってきたから、久しぶりに音合わせしてみようゼ。おいおい横田、お前のギター弦、錆びてるじゃないか!」

「あれ~、Dm7♭13は、どう押さえるんだったっけ?
テンションコード?ルート音?代理コード?ドリアンスケール?ブルーノート?ツーファイブ ? ・・みんな忘れちゃったよ。」

「しょ~がね~なあ。 それじゃあ今日は、ブルースでもやって、少しずつでも思い出していこうか。」

「まずは、Cのブルースで“ルート66“やってみようか!」

・・・そしてこの“おやじバンド“は年に数回だけの練習ながらも20年に渡って継続し、原宿のライブホールや青山にあるライブ“ラパン・エ・アロ”等で演奏するのでありました。

嗚呼、歌は世に連れ、世は歌に連れ・・・人生は楽しきかな。音楽のある人生、音楽仲間とは、なんと素敵なものでしょうか!・・私の “YOUNG AT HEART”の素でありました。(※演奏の写真記録が無く、CDしか残っていませんでしたが・・、もしかしたら藤代先生がビデオ撮影していてくれたかも・・?)

ありますよ~・・・、で、ほんの一部、下でご紹介しまぁ-す・・・   by F 

追伸
振り返って考えてみれば・・・、人生における満足感や充実感といった喜びの数々は、自分の置かれた状況・環境の中で精一杯に生きる事によってのみ得られるものだった。(報恩奉仕・誠実力行・分相応)
エリート校やエリート企業の肩書によって与えられる物では無く、自分自身で創るものだった。

「僕は、世の中の“名門・一流・高級”と言われる“モノの虚像”に寄り掛かって安心するような、卑怯者にはなりたくない。
“神仏とブランドは尊ぶべし、だが決して頼るべからず!
”大事なのは、学歴よりもパーソナリティだ。
・・・石津謙介」

おっ!カレン・カーペンター?!・・・
左端で気持ち良くギターを演奏しているのが、我らが横田氏。

( なお2008年当時の小さいデジカメ、しかもライブハウス右サイドの
でっかいスピーカーの前という悪条件での録画となり見にくいかもしれません。
悪しからずご了承を!   by F )


 
還 暦 ( ラリーカールトン? ) 大学4年


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく




“VAN SITE”ZOKU-SEISHUN VAN NIKKI 142
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