続・青春VAN日記21
ヴァンカンパニーの巻 その5(1980年秋)
<ヴァンらしさ作り>
旧ヴァンヂャケットのセールスプロモーションの“らしさ”とは、
単なる1企業の利潤追求のためのみの宣伝広告活動にとどまらず、商品である衣料品を媒体として、先進の米英国の生活文化を紹介し向上心に溢れる昭和の若者達の知識探究心を満足させたことにある。
所謂“VAN学校”と言われた所以である。
そこでは紳士衣料品についての “こだわり”の知識だけではなく、
“衣食住”生活文化から“趣味嗜好”のありかたに至るまでの
“男のライフスタイル”全般に渡っての文化啓蒙活動が行なわれていた。
・・そこでは、必ず“衣服”と“文化・芸能・音楽・スポーツ”が連動していた。
・・・かつて、VAN創業時の石津先生と新劇俳優さんとの交流時代、進駐軍のダンスホールにはスイングジャズが溢れていた。
男の服飾」でモデルの高倉健さん菅原文太さん達との出会いの頃、ナイトクラブやキャバレーにはハワイアン・ウエスタンが流れていた。
キャンパスでも、ハイソにライト、ナレオにカルア、ブルーマウンテンボーイズ、スイートレイラニーと“軽音楽”に満ちていた。
60年台のマイルス、コルトレーン、ロリンズ、デイブブルーベック、
MJQ、ゲッツ、渡辺貞夫さんに日野皓正さん、新宿ピットイン・・・、モダンジャズはアイビーの先生だった。
そして、ブラザースフォー、キングストントリオ、ジョーンバエズ、PPM、ブロードサイドフォー、マイク真木さん、森山良子さん・・、
日本中のキャンパスはアイビーとフォークソングで一杯だった。
映画の若大将、エレキとアイビーも時代の象徴だった。
そして70年代、99ホールの、つかこうへいさん、東京乾電池、
東京ボードビルショー、ジャズの原信夫さん、森寿男さん、高橋達也さん達との交流。
落語界や歌舞伎界、狂言界など、邦楽世界の会長御友人の皆様。
・・・VANはいつも音楽・芸能といっしょだった。
だから今“JAZZSPOT-J”も“ザ・ヴィーナス”も大切な仲間だった。
そしてさらにスポーツとのかかわり、石津先生青春の明大自動車部・グライダー同好会。
日本グランプリ、生沢徹さん、レーシングメイト、VANラリー大会、
VANと本田宗一郎さん、ファイティング原田のVANガウン・・。
アメリカンフットボール、各種アウトドアスポーツの振興。
伝説のVAN社大運動会、社内にあふれるスポーツクラブ。
・・・VANはいつもスポーツと共に歩んできた。
私は、新VANもそうありたいと願っていた。
そして、新しいスポーツ界とのつながりを求めていた。
そんな秋のある日、
永遠のVAN販促社員・新庄君がKent-Shopにやってきた。
新庄君は、VAN倒産後も、いつもVANのことを気に掛けてくれていた。
TV番組“青春の日本列島”にも藤代・佐野君と友情出演してくれたし、トリンプ社アイビー同好会の猪瀬さん達と再建パーティもしてくれた。
新庄君と藤代先生は、いつどこにいても“永遠のVAN販促社員”だった。
「おーい、お前さん元気かい!
実は、(じつわ、週間実話、なんちゃっておじさん〔ガクッ〕)。
俺は今、某・広告代理店にいるんだけど、今回、ウインドサーフィン普及の仕事をしている訳なのよ。
例によって、お前さんちょっと手伝ってくれよ!
確かお前さん、司会が出来たよなあ、今度10月2日〜5日に、沖縄でウインドサーフィンの全日本選手権大会があるんだけど、お前さん司会をやってくれ。」
(なんと!南都六宗!・・・いつもどおりの“強引にマイウエイ”だ!)
「やってくれたら、協賛スポンサーの冠の中に“VAN”の名前を入れてやる。」
(・・・うーん、目の前に人参をぶら下げられてしまった!)
私は、新VAN社の“らしさ”作りのために、音楽芸能界だけではなく、新しい“スポーツ界”とのコネクションを求めていたのだった。
(・・・うーん、人の心を読みきっている男だ!さすが八郎!)
ああ、持つべきものは友である。ありがたや!
かくして私は、日本ウインドサーフィン協会の北郷理事にお会いし、
新スポーツ振興のお付き合いが始まったのでありました。
生まれて初めての南国沖縄出張。58号線の米軍放出品店、戦闘機・戦車部品、各種軍用品に感激!?
ブルーシール、A&Wルートビア、の美味しさに感激!
いや、江ノ島海岸とは次元の違う透明度の海の美しさに大感激!
とうとう、私は大会プロデュースを務める新庄君の指示に従い、
美しい名護ビーチで西銘知事や、W&S協会の小林会長、石渡選手・松永みどり選手達を前にしてマイクを握ることになってしまったのでありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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