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続・青春VAN日記24

ヴァンカンパニーの巻 その8(1981年 春)

<青葉台VAN本社>

再建成ったこの春、新ヴァンヂャケットグループ社員達の姿は、
目黒区青葉台にあった。
長年住み慣れた聖地青山であったが、数十人の規模となった新社には青山のビルを維持することは不可能だった。

青山に輝き続けたVANの広告等・看板は、昨年夏ついに撤去となった。

関係者・ファン達が感慨深く見守る中、青山から、あの野原先輩達のデザインしたVANの文字が消えていった。

356屋上の“VANTOWNAOYAMA広告塔”はBROOKS BROTHERS”に塗り変えられてしまい、今はただ、青山KentShop店のみが、唯一その姿を留めるのみとなったのであった。


さて新・青葉台オフィスでは牧尾副社長の挨拶が始まった。


「かつての我社は拡大路線をひたすら走った。そのチョップ数はひたすら増加し、業務内容は多岐・多方面にわたることになった。
その結果、巨大化・複雑化してしまった組織は管理・制御がはなはだ難しい状態になり、ついには倒産に至ってしまった。思い返すも無念な事であった。


しかし、悪化する経営状態の中ではあっても、Kent部門のように良好な営業実績を維持していたチョップもあった。我々は、共倒れしてしまったかつての徹を踏んでは成らない。

したがって、今後、新社はすべて別会社方式の形を採り、独立する事になる。成功も失敗もすべて、各社個々の責任である。

各担当は1日も早い独立を目指し、業務に励んで頂きたい。さて、我々の第一期営業目標はカンパニー社直営店の成功である。さらに第二期目標は、各ブランドの独立と新規取引店の開拓である。

・・・がんばろう!」




やがて、青葉台ヴァングループの中からは、すでに会社登記済みの、VANカンパニー、VAN-MINI、潟Uイディクスの各社が“原宿VAN-SHOP本店”の新規開店に伴ない、その本社を原宿に移転した。




VAN外史・原宿の変遷>

想い起こせば学生時代の1969年。私は新宿京王デパートでアルバイトしていた。バイト仲間の大学生達は、当時百貨店1の美人揃いで有名だった奉仕課のエレベーターガール達に皆憧れたものだった。(若かったなあ・・)

美人班長さんを筆頭に、河原さん、豊泉さん、岡田さん、布川さん・・とモデル顔負けの超美人揃いで有名であった。(よくも憶えていたもんだ)

私も仲の良かったアルバイト仲間の倉持さん(早大政経→銀座松屋)にそそのかされて、へたなラブレターを書いたりしたものだった。

そして合コンデートによく利用したのが、当時原宿キディランドの隣にあった喫茶店“クローバー”だった。(ここの珈琲には、ニッキやシナモンが入っていたり、ウインナコーヒーなんていうのがあったりして、当時世田谷通りの“アロー”や青山2丁目の“ドルメン”、自由が丘の“ドライブインVAN” 等とならんで軟派学生達に人気のかっこいい店だった。)

VANが青山99ホールでエスプレッソ・コーヒーを広めるより5年前のことであった。

ともあれ、60年代の原宿は明治神宮の門前町だった。それが東京オリンピックの都市改造工事で、神宮まで続く表参道通りも倍の広さの大通りとなり、小川には全て蓋がされ、景観は変ってしまった。

それでも原宿界隈は、まだ進駐軍代々木ハイツ時代のアメリカの香り、落ち着き、大人の風情が残り、あかぬけた静かな町だった。駅前近辺には、お土産店、飲食店、が多数在り、明治神宮の奥の森、ハイツ跡の代々木公園、オリンピック競技施設は静かで雰囲気のある最高のデートコースだった。

それが70年代に入ると、アウトドアスタイルの流行・原宿ホコ天の大騒動、第3次アイビーブーム・オールデイズ流行、ラフォーレ原宿開店、等々によって急激に若者文化中心の街へと変化していった。

そしてとうとう“ヤングの街・原宿”に変化してしまった。(良くも悪くも、原因の1つはVANのせいだったのかもしれない。)

1981年、“人気の竹下通り”の一翼を担ったのが、“原宿VANSHOP”であった。

原宿既存のショップ指導型トラッド店の雄“クルーズ”

潟jューヨーカートラッドの結晶“バークレー”
アメリカン衣料専門の古参店“ハラダ”
新興“ビームス”、“キャンプス”・・・等々。

そして家元“VANSHOP”の登場は、ヴァンカンパニー本社の登場とともに原宿をさらに発展させた。

狭い通りは、良家のお坊ちゃん・お嬢さん風の爽やかな若者達が集い、明るく健康的な、キャンパスムードの溢れる街となった。(※たしかカンパニー鳴島社長は竹下通り商店会の会長もしていた。)


しかし、アイビーの街“原宿”は長続きはしなかった。渋谷で文化屋雑貨店やハリウッドランチマーケットが人気となり、“渋カジ”が流行する頃になると、ファッションはカオス状態。


竹下通りは、品格の無い若者衣料・芸能タレントの店で溢れ、路地裏の住宅街までが小物店やカリスマ美容院になってしまい、猥雑化する一方となった。

やがては意味不明言語を話す女子高生のルーズソックス姿や、全国のお国言葉が飛び交う修学旅行生や外人旅行客で溢れかえり、無秩序・無国籍の街となっていった。

そして、あの閑静な高品位原宿のイメージは遠い過去の物になってしまった・・・。






以下“HOT・DOG PRESS”1981年8月10日号より






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

        










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