続・青春VAN日記35
ケント社の巻 その2(1982年)
<青山トラ次郎・営業旅情@>
『 車 寅次郎さん 』 に黙って合成しました。ごめんなさい!! |
今仮に、10人ぐらいのサラリーマン諸氏に、「いま一番したいことは何ですか?」という問いを発してみるとする。
すると10人のうち8人ぐらいは、「旅に出たい」と言うのではないか。
旅とは、そんなに良いものだろうか?
たしかに気の置けない仲間との気ままな旅ほど楽しいものは無い。しかしながら、はたしてそれが、行動の全てを“規格化”され“管理”され、予算遂行の目標を課し、話し相手もいないたった一人の孤独な旅で、毎日が見知らぬ街を渡り歩く、そんな「旅」であったらどうだろう?
一人旅には、時刻に対する入念な配慮と、チケットの管理に関する間断ない危惧と、所持金の配分に対する緻密な計算能力が必要である。
どこそこへ行くためには、何時何分の列車に乗り、どこぞの駅の何時何分の列車に乗り換えねばならない。そのためには何時何分に起床し、何時何分までに朝食を済ませねばならない。何時に就寝せねばならない。
・・・こういう時間の配分を組み立てるだけでも、時刻表と格闘して一苦労なのである。
そして旅行期間中は、常に、時刻表と各種切符と所持金の確認、取引店との営業予算・傾向と対策、 所在地、担当者名の確認、本社の商品在庫状況、予算進行状況の確認、宿泊等の確認連絡、あるいは商談に使用する見本商品やスワッチの確認作業を続ける。
日曜日には東京に帰れたとしても、留守宅の心配をしながらも、一ヶ月以上も、えんえんと、この旅を続けるのである。
そしてその荷物量たるや、商品見本、商談用スワッチ、受注伝票、電卓、筆記用具は言うまでも無く自分の1週間分の着替え衣料、洗面具、身の周り品などなど。(はたして、全部でどれほどの荷物量になるか、ご想像下さい)
そしてこの荷物を抱えて、毎日の時間刻みのスケジュールに従って、炎天下や雨の中、駅の階段を上り、歩道橋を登り、延々と歩くのである。
たった1人で衣食住すべてを手配し、見知らぬ土地で行動するのである。
・・・もはや旅の楽しさどころではないのである。
かくして、私の営業出張生活は始まった。
最初の出張は、新緑の5月であった。南から始める事にした。
九州方面一周、1週間の予定である。
まずは各お取引先に対してのケント社説明・ご挨拶の出張だった。
すべて事前にアポイントを頂く事の出来た、ありがたい旧VAN社時代よりのお客様である。
当初の九州訪問店舗数は、約10店舗であった。初回のみは新ケント社のプロモーションを兼ねてと、元VK(九州)営業所長である牧尾社長に御同行頂いた。
<第1回九州商談予定店舗>
鹿児島 だるまや様(尾堂照夫社長)
熊本 まつの様(松野建蔵社長、松野二郎店長)
柳川 K‐PORT様(高須啓治社長)
長崎 かねやす様(濱野一夫専務、瀬戸口幸男部長)
佐世保 かねやす様(藤山真彦店長)
博多 Kent‐Shop福岡店(ヴァンカンパニー)
潟{ストンナイン(川本社長・元VKキャップ)
小倉 オーミハウス様(織田社長・元VKキャップ)
中津 クォーターイン様(桑原正良社長)
大分 クォーターイン様(黒瀬順治店長)
MrSHOP Kent様(田崎社長・小生入社時のVTケント部長)
延岡 SAGA様(佐賀信彦社長)
宮崎 ニノミヤ様(二宮信義社長、二宮久店長)
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私は、真剣勝負の旅を覚悟した。
出張中の私は、24時間すべてがON-DUTYとなる。
朝起きてから夜寝るまでの全ての行動がKentとして評価される。
我社の評価を落とすような行動は、決して許されない。さらに道中には、不意のあらゆる危険・非常事態も起りえる。いつでも“腹を切る”覚悟が必要であった。
・・・そして、ケント営業マンは羽田空港へと向かうのだった。
( インターネットも携帯も無かったこの時代に、ただ情熱と熱意だけで働いていたVAN営業マン達。一見、華麗に見えるVAN営業マンの、これからの話が実体です。VAN石川部長も私も、3年間この仕事を続け、身体を壊しました。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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