続・青春VAN日記45
ケント社の巻 その12(1982年)
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<青山トラ次郎・営業旅情⑪> |
私が初めて北九州地方を訪れたのは、学生時代の事だった。
私は学内音楽サークルの夏季演奏旅行(ビータ)の総合司会者だった。
この時代は、“巨泉の大学対抗バンド合戦”や“勝ち抜きエレキ合戦”等の人気もあって、大学野球同様に学生バンドも大人気だった。JAZZ研も、学内文化委員会や県人会、OB組織の力もあり、毎年、全国各地へと演奏旅行に出かけていたものだった。
1971年、学内のビッグバンド・ハワイアンバンド・ウエスタンバンドロックバンドの一行50名は、夜行寝台列車(もちろん鈍行二等車)で九州方面に出かけた。
(森繁久弥の喜劇“駅前シリーズ”やフランキー堺の“車掌シリーズ”渥美清の“列車シリーズ”映画がヒットした時代でした・・。)
余談ですが、管理人も高校時代ハワイアン・バンドを組み、ウクレレを弾いていました。その頃別の組に、現在も歌手として活躍している布施 明君がいました。彼はロック・バンドを組みそのボーカルをやっていたのです(因みに彼はハードルの選手でもありました)。
予餞会(文化祭)等でライブをやるのですが、女子はみなロックを聴きにいき、我がハワイアンにくる学生は少数派でした、・・・
いい曲やってたのに・・・とほほ・・・。
《 追伸 》一年先輩には今をトキメク?、東京乾電池出身、高田純次氏がいたはずですが、どうも記憶に有りません、ひょっとすると高校時代は冬眠状態で、後年今のキャラクターが開花したのかも・・?? |
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この時のステージは、小倉・福岡・大牟田の3都市であった。
私には初めての九州だったが、メンバーには御当地出身者もいた。
ジャズ研仲間でギター名人の桂君は、あの霜降り学生服に弊衣破帽で有名な小倉高校出身者だったので(お父上は井筒屋取締役だった)博多や小倉の街を楽しくビータ出来た。
当時から、芸能人・ミュージシャン・モデルの一大産地であったこの地では、音楽に対する関心度が高く学生バンドも温かく迎えてくれた。
まだ娯楽の少なかったこの時代、学生バンドでも多数の入場者があった。
小倉市民会館での楽しいステージの後は、小倉城や市民プールで遊んだ。福岡市民公会堂でも、公演の後は福ビルのエレベーターガールを誘って屋上ビヤホールで大騒ぎをしたり、また岩田屋かいわいやフタタ近所のJAZZ喫茶などで遊んだものだった。(いい気なもんだった。)
そして、想い出の会場が大牟田市民会館だった。
当時まだ炭鉱の町の面影を残していた大牟田市の市民会館ホールは、なんと設備が、戦後の芝居小屋そのままであった。
三井三池で働いた労働者達もここで娯楽を楽しんだのかもしれない。
緞帳(舞台の幕)その他の舞台装置は、電動ではなくすべてが手動式で、なんと、荒縄ロープを木製の人力巻き取り機で引っ張る式のものだった。売店にはアンパン、サキイカ、酢コンブ、甘納豆、ミカンにお茶等が並び、ホールでは「エー、おせんにキャラメル、お茶はいかがですか~。」
極め付けは、横にあるトイレからのプーンと匂う妙なる香り。
開演前の館内には高田浩吉の股旅歌謡曲のBGMが流れていた。
素晴らしすぎる、甦る昭和の浪漫?
スゴイ!これじゃあ「A列車」というよりも、「赤城の子守唄」だね!
開演のブザーが鳴ると、ワンオクロックジャンプの演奏に乗って自分で幕を引っ張って登場する司会者の私。(アリエネー!)
「どーもどーも(高橋圭三風)1週間のご無沙汰でした(玉置宏風)、皆様こんばんわー、只今の曲は関東地方が生んだ最高のミュージシャン、カントウ・ベイシーのナンバーからおおくりいたしました!」
・・・シーン・・・シーン・・・S C E N E・・・・・。
山野ビッグバンドコンテストでは、“君は面白い”と“いそのてるおさん”に誉められたネタも、この日はひたすら滑り続けるのでありました。
博多駅に降り立つと、色んな思い出が甦る。・・・10年ひと昔。
1982年の博多は、景色がだいぶ変わっていた。
新幹線が、東京駅から博多駅まで全線開通していた。
天神地下街が開業し、天神コアが開店していた。
さて、牧尾社長は元VAN九州営業所長である。さすがに博多では旧VK時代の関係先や部下・知人の方々が多く、挨拶回りのため、私とは別行動を取られる事になった。
新規商談は、私一人で行動する事になった。(わーい自由行動だ!)
今日の商談店は、ヴァンカンパニーKent-SHOP福岡店である。
・が、柳川の高須さんからは、すでに耳よりな別情報を聞きこんでいた!
「・・・元VKキャップの川本さんが、警固のKent-SHOPの近くで “ボストンナイン”と言うアパレル会社を経営されているんだけど、僕のオーディオのライバルで面白い方だから寄ってみるといいですよ!川本さんの趣味はジャズ・トランペットらしいですよ!」
OH! WHAT A DIFF'RENCE A DAY MAKES!
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我が家のオーディオ・ルーム??
JBLのL55(1972年に我が家にやってきた)、
Technics SL120にMicroのピックアップ
ShureのカートリッジでLPを聴いているアナログ人間です。
(何て言うとカッコいいみたいですが、
要は買い換えるお金が無いだけです。
タンノイ・・・・・欲しーーーーい!!)
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<ボストンナイン・ノクターン>
・・・あの悪夢の1978年4月。
中州の灯りを望む博多川の対岸で、ある一人の男が夜空を見上げていた。涙で潤んだ彼の目には一面の星空が映っていた。
突然の愛する会社の不幸な出来事に、ただ立ち尽くす男だった。
そして混乱し続ける彼の脳裏には、楽しかった昨日までのVANの思い出が走馬燈のように駆け巡っていた。
“すべては変わりゆく。 とどまるものとてない。
誰もが変り、社会も変ってゆく。それが時のさだめ。
変らぬものは何ひとつとしてない。
この世でたしかなものなどは・・・無い。”
しかし・・・、
“私の青春のロマンは悲しい調べのままでは終わらない。
歌は終わったとしても、メロディは心にいつまでも残る。”
だから私の心のVAN精神は、誰も奪う事は出来ない。
誰も奪えぬこの想い!
They Can't Take That Away From Me.
“YOUNG-AT-HEART”
よし、今日からは自分自身の手で会社を作ろう・・・!
・・・涙がこぼれぬように夜空を見上げる彼の手には、使い込んだ愛用のトランペットがしっかりと握りしめられていた。
あの幼き日に、楽器店のウインドウに顔を押し付け、いつかは手に入れようと願ったあの憧れのBACHのトランペットが!
満天の星空の下、博多川の土手には“星に願いを”のメロディがいつまでも鳴り渡るのでありました・・・・・。
「・・・さあ!それでは皆様にお贈りいたしましょう!
VKが誇るトランペッタ―、川本元氏が、せつせつと歌い上げます。
“ STARDUST”・・・どうぞ―! 」
(川本キャップ、妄想の程、おゆるしください)
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川本キャップ、いやボストンナイン川本社長とは、日本全国のメンズクラブ読者の誰が見ても、いや、業界の誰がどこから見ても、VAN社員以外の何者にも見えない、歩く三つ文字のような方でありました。
川本氏と |
「・・・おー、君が青山のトラさんか、よく来たね!
我がⅤ社の長年の積もる話もあるからよかったら家に来ないか、
Kent-SHOPの商談を終わらせてから、夜もう一度きてくれんか!
今日はとことん語り明かそうじゃないか・・・!」
・・・本日業務の警固Kent-SHOPは、初代中本店長(元VO)がVAN・MINI社長で東京に移動したため、大川店長(VT)の時代でした。
そして青山のトラ次郎は、業務終了後はすみやかにボストンナイン社を再訪問するのでした。
川本社長の御自宅では、かの伝説のトランペットを見せて頂き、サッチモ、マイルス、アートファーマー、クリフォードブラウンを聞かせて頂きながら、懐かしいⅤ社話とオーディオとジャズの話は夜遅くまで続くのでありました。
・・・川本先輩、その節は本当にお世話になりました。
見ず知らずの初対面の私に一宿一飯の御恩を頂いた事は、けっして忘れません。改めて心より御礼申し上げます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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