続・青春VAN日記47
ケント社の巻 その14(1983年)
<ケント社設立>
1983年、株式会社ケント(KENT INCORPORATED)は独立した。
合わせてヴァンヂャケット社と共に、その本社屋を港区芝3丁目小林ビル(通称ボートビル)に構えることになった。
新社屋は緑の芝公園・ゴルフ場・増上寺に隣接し、近くに東京タワーを見上げ、浜松町や三田・麻布にも近い赤羽橋交差点にあった。
通称三田通り(桜田通り)から見た赤羽橋交差点方面と東京タワー |
引っ越しを済ませた新VANグループ本社内の配置は、1Fが物流、2FがVAN,3FがKENTであった。
ビル内には、VAN早川社長、宮川常務、石川営業部長、武部制作部長、君塚営業課長、桜庭販促課長、クニオちゃん、堀内さん達・・・。
Kentには牧尾社長、私等・・・あわせて約40人のグループ社員達の笑顔が溢れていた。
さてケント社では、昨年の営業活動の結果、初年度第1期の御契約店は以下の各店となった。
●ヴァンカンパニー社(敬称略)
札幌、仙台、青山、静岡、名古屋、大阪、神戸、福岡の各店。
●専門店(敬称略)
九州地区 鹿児島だるまや本店・天文館店、熊本まつの、柳川K-PORT、カネヤス長崎・佐世保店 小倉オーミハウス、クォーターイン中津・大分店、延岡SAGA、宮崎ニノミヤ、那覇YAGI3号店。
四国地区 松山さつき&メイ、高松百足屋(銀蝶)、高知鳩家、徳島JIRO
中国地区 広島コーネル、さだや、津山カナモト、三次モリトウ、岡山バニー、鳥取Kent-club、米子落合。
阪神地区 加古川TOP、垂水NACプラザ・須磨NACパティオ、豊岡BOB、神戸BONNY本山・三宮店、大阪Kent67、ローリーハウス。
近畿地区 四日市ハチトリ、奈良ベイブラウン、豊橋チャールズ、松坂アサヤ、岐阜ハトヤ・グレトナグリーン店。
中部地区 長野ニューポート、飯田ヤマギシ、新潟カワサキ、柏崎タカラヤ、富士宮Kent-shop花田、富士吉田ウインザー、山梨ムツミヤ、甲府356ブラザース、糸魚川ダン。
関東地区 前橋エンゼル、高碕屋、桐生シャイン、宇都宮やまと、水戸ボストン、平塚浦川屋。
東北地区 青森オノヤ、北上スズキ、古川ミズノ、山形アメリカンクラブ、郡山38NL、陸奥ジーンズハウス。
北海道地区 北見フォード、勉強屋、旭川地球村。
・・・様達。
かくしてケント社は、日本全国の心あるお得意様方の御好意によって、営業開始する事が出来たのである。
改めて各店の皆様のお顔が想い出される。
この時、あの倒産からはすでに4年の年月が経過していた。
流行の移り変わりの激しいこの業界にあって、じっとKentの復活を信じて待っていてくれたお客様は、当社の命だった。
Ⅴ社先輩方の残したKentの信用と、長年のお得意様との深い人間関係、そしてⅤ社と小売店様がいっしょに作り上げた全国トラッドファン。これらは、日本アパレル業界に燦然と輝く“宝”であった。
私達ケント社は、これらのお客様方に永遠に“報恩奉仕”する企業であらねばならない。そして、新ケント商品の全国小売店・卸展開は83年下期より開始される事となったのである。
さて全国小売店展開を控え、牧尾社長以下15名のケント社現場の“商品企画・制作・生産・受注業務”は、フル活動となった。
物づくりチームは連日の残業となった。
営業担当の私も“月月火水木金金”の日々が始まった。
まずは予算の作成、商品ラインアップの決定、数出し作業、そして受注・売上管理体制、回収計画を確立しなければならない。
さらには兼任の販売促進担当者でもある私としては、“復活Kent”を日本中に力強く主張したかった。 Kent商品の、さらなる御注文をいただく為にも効果的な“展示・受注会”を開催しなければならなかった。
部下のいない1人販促の活躍が始まった。
展示会イメージ、キャンペーンテーマ作成、会場の選別、設計案、日程、案内状、ノベルティ・お土産の考案制作、親愛なる各種関係業者へのご連絡、媒体関係の皆様やモデル業界への御協力お願い、お客様の交通手段・食事・宿泊等の手配・・・。
・・・ああ、体がいくつあっても足りない。
1982年、V社飲み会 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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