続・青春VAN日記50
ケント社の巻 その17(1983年)
<石津謙介アイリッシュセッター・クラブ>
「・他人の事を、思いやり、気くばりする心の持ち方、これをエレガンスという。“紳士”への第一歩である。」・・・・・石津謙介
紳士服を売物にし、品格を重んじる百貨店といえども、私達・業者に対して、エレガントな紳士的対応をする店は少ない。
銀座松屋店は、都内百貨店の中で洗練された店舗の一つであった。
衣食住・生活文化の演出にも、他店より優れたものが在った。そしてその商いのやり方は他店よりも誠意のあるものだった。
経営者のお考えか、礼節を知る紳士な社員方のせいか、はたまた銀座という土地柄のなせる技か、松屋紳士服幹部社員の皆様は、取引先社員の名前を“さん付け”で呼んでいた。
これは当時“飛ぶ鳥を落とす勢いの百貨店”の中では珍しい事だった。(例外・京王百貨店ではアルバイト学生の名前でさえ “さん付け”で呼んでくれた。)
70年代、大規模小売店の商売は本当に紳士的では無かった。
たとえば・・・取引先からの支払請求に対し全額を支払わない、99日手形発行、未決まり更新等手段による支払いの延長、お付き合い買物の強制、店内作業労働への参加強制、各種協賛金の取立て、アバウト大量発注に大量返品、中には、付け届け、袖の下の要求・・・と、非・公正取引のオンパレードだったのである。
御無理難題のやり放題に納品業者は苦しめられたものだった。
そして我世の春を謳歌する大規模小売店社員の大半は、取引業社や社員の名を呼び捨てにしていた。
“一体誰のお陰で飯が食えているのだ”という態度であった。
傲慢な態度に対する取引先・卸業者の不満・怨みは深かった。
そして1982年、起るべくして“三越事件”は起きるのだった。
その中で、松屋様は取引先を “さん付け”で呼んでいた。
当然、その金銭的取引も他店より紳士的なものであった。
銀座松屋様のトラディショナルに対する熱意は本物であった。
やはり企業は人である。新装ミスタートゥデイ売場は素晴らしかった。
ブルックスブラザース、POLO-Shop、Kent-Shop・VAN-Shop、J-プレス、ニューヨーカー等の各社入魂のショップが軒を連ね、売場総監修には、三顧の礼を尽くして石津会長。
松屋様売場社員には、飯島部長、橋本課長、池田課長以下、大泉係長、高須さん、安川さんとトップ社員が抜粋され、紳士靴売場には、あの京王バイト仲間だったチャーチ倉持課長の顔も。
各メーカーの営業・販売社員にも、各社ベテランが勢揃いし、まさに質・量 共に日本一のトラッド売場の完成であった。
売場には、業界の懐かしい顔ぶれが勢揃いした。
ダイドー、ニューヨーカーグループ社員には、あの西武時代の売場仲間の滝口部長、大沼さん、栗原さん、達。
ブルックス営業社員には、かつてVAN同期社員だった永田博人君。
POLOには岡野社長(元Ⅴ社チーフ)のお顔も覗き、Jプレスには谷ヘッドのお顔も・・。
さらにSCENEには高田さん、ケンコレクションの愛甲君・・・。
マクベス社、ハーバードさんにも元Ⅴ社に居た懐かしい顔がずらり。
その結果、売場造りは同業各社がともに協力しあい(Ⅴ社同窓会?)本当にいいトラッド売場が出来た。
私達メーカー各社は、各百貨店様と苦労の取引を重ねながらも、紳士の心ある百貨店はきちんと見極めていたのである。良い店には、業者も力を尽くすのである。
商売は、“あいみたがい”なのである。企業は人なのである。傲慢な店には、業者も客も、人は集まらないのである。
そして、松屋様の肝いりで銀座店トラッド顧客の一流紳士の皆様と、良識ある業界の大人仲間が集う、
【 石津謙介アイリッシュセッター・クラブ 】 が結成された。
(クラブ名の由来は、会長のお好きなアイルランド犬種名からである)
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1983年、アイルランドにて |
気が付けば、かつてのアイビー青年達はトラディショナリストになり、紅顔の青年達は、管理職年代の大人に成長していた。
そして松屋のトラッドマン、ミスタートゥデイ売場・大泉係長の顔は少年のように輝いていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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