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続・青春VAN日記69

ケント社の巻 その361983年秋)

<全日本ウインドサーフィン選手権・沖縄余話>

連日の競技が続く大会スケジュールであったが、本命競技のオリンピックトライアングルレースの前日にはLAYDAY”選手休息日が設けられた。

自由時間の出来た私は、名護市内に散策に出かけた。
市内の小さな書店で、私は興味を引く新刊書を見つけた。

大田昌秀編著「写真記録これが沖縄戦だ」(1979年琉球新報社発行)と
同著「総史沖縄戦」(1982年琉球新報社発行)であった。

沖縄の歴史や文化に興味のあった私はさっそく購入した。

この本は、沖縄師範学校在学中に学徒動員・鉄血勤皇隊に徴発され、荒れ狂う“鉄の暴風”の最前線で、クラスメイトのほとんどを失い死線を彷徨った経験を持つ大田昌秀氏(1990年、沖縄県知事就任)が著した、本土の元軍人が書いた戦史ではなく、沖縄県民の立場で書かれた、沖縄戦の本格的な通史だった。

以前からすでに小禄の海軍壕、ひめゆりの塔、摩文仁の丘等を見学し、カデカルさんのお宅で沖縄史資料を読み、首里博物館にも足を運んでいた歴史好きの私は、夢中になって読み始めた。

そして、ビーチの木陰のディレクターチェアで読書していた私は、心地良い潮風の中で、ついウトウトとまどろんでしまった・・・。


・・・私は夢を見た・・・。

<一炊の夢>


目を覚ましたつもりで、浜辺を眺めた私は驚愕した。
さきほどまで、夕暮れが近づき美しかったはずのビーチの沖合いが、なんと、無数の米軍の軍艦・輸送船で真っ黒に埋め尽くされていた。

数え切れない上陸用舟艇群が海岸を目指し、爆発音が響いていた。上空には数百の米艦載機が乱舞していた!

「うわ!いったいなんだこりゃー・・・」

どうやら、私は昭和20年4月1日の沖縄にいるらしい。場所は嘉手納海岸を眺める牧港あたりのようだ。そして私は軍帽姿の沖縄師範学校男子部生徒らしかった。

いっしょに腰をかがめて嘉手納方面を眺めていた同級生の名札には、大田昌秀と名前が記入されていた。

私たちの学ぶ沖縄師範学校は、軍命によって軍司令部直属隊として鉄血勤皇隊・千早隊の部隊名で召集・配置されたのであった。

千早隊とは、首里城の地下壕にあった沖縄守備軍司令部の情報部からニュースを受け取って、各地の壕に潜んでいる将兵や住民に情報を伝える任務を負っていた。与えられた武器は南部式拳銃と弾数十発であった。


そして私達両名は、上空を飛び交う艦載機の機銃掃射と艦砲射撃を避けながら、首里司令部から嘉数の第62師団まで連絡伝令に来たのだった。

・・・その時、突如、米第10軍の上陸が開始されたのである。

この時すでに大本営は、沖縄を“本土防衛作戦の捨石”と考えていた。

陸軍は、航空軍を本土に温存し、現地軍の最後のたっての支援要請をも拒み、あまつさえ、守備軍の要・第9師団を台湾に転出させてしまった。

沖縄守備軍の任務とは、勝つ見込みの全く無い、本土防衛準備のための時間稼ぎの戦いであった。

大日本帝国大本営は沖縄を見捨てたのである。


米軍上陸部隊は、司令官バックナー中将率いる米第10軍を基に、陸兵7個師団18万人・艦船1500余隻・艦載機2000余機。予備兵力を併せると、沖縄の総人口を上回る54万の大軍であり、その兵力はノルマンジー上陸作戦を上回っていた。

対する沖縄守備軍は、牛島満司令官、長勇参謀長、八原博道高級参謀の率いる陸軍南方方面軍配下の第32軍、3個師団戦闘部隊約5万。

小碌飛行場を死守する大田少将以下海軍根拠地隊と現地召集の防衛隊を加えてもその数約10万。


・すでにマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦にて連合艦隊は消滅し、台湾沖航空戦での消耗でまともな航空兵力は無くなっていた。

地上戦におけるその兵力比は、兵員数1対2、火力比は1対無限大。


前日、首里陣地から米軍集結の様子を眺めていた第32軍八原高級参謀の感想の言葉・・・。

「海を圧し、空を掩い、天も地も海も震撼せしめる古今未曾有の大攻勢に対し、これはいかに、わが全軍は一兵、一馬に至るまで、地下に潜み、一発一弾も応射せず、薄気味悪く寂然として静まり返っている。

厳たる軍の作戦方針に従い、確信に満ちた反撃力を深く蔵し、戦機の熟するのを、全軍十万の将兵は、息を殺して待っているのだ。

歴史的激闘は、沖縄島に動静至妙な美を現出しつつ、荘厳に幕を開いていく・・・。」(八原博道『沖縄決戦』より)




いったい勝つ見込みの無い戦に何を考えていたのだろうか?

この時、すでに慶良間の島民と兵隊は攻撃を受け殺されていたのである。

それを眼前にしながら、この誇張癖・美文調の自己陶酔の極みとは何なのだろう?
慶良間島民3700名の命などまるで眼中に無いのである。




慶良間島民集団自決の生き残りの証言。


「米軍の上陸後2時間程経った午前10時頃、追い詰められ一ヶ所に集まった部落民は、家族単位で玉砕を決行されました。

数時間前まで誰一人として想像もできなかったことが、わずかの時間で、やってのけられたのです。当時、57歳で農業を営んでいたKさんは、妻子をつれて逃げられるだけ逃げようと思ったようですが、もう行く所も無いということで壕にひきかえし、持っていた縄で、最初に54歳になる奥さんの首をしめ、次に28歳の娘さんの首を強くしめました。

そして、それぞれ死んだのを確認したあと、自分の首を無我夢中でしめているところを米兵にみつかり、未遂に終わって捕虜になりました。その時のくやしさは何と言っていいかわからない・・・。」
  (沖縄県史より)


私達県民は、学校で“お国のために死ね”と教えられた。


国とはいったい何なのか?国体とは何なのか?
支配者や軍部が国なのか?国民がいるから国ではないのか?
国民が国を守るものなのか、国が国民を守るものなのか?
軍隊とは、いったい何を守るために、何と戦う組織なのか?


敵と戦う以前に島民に自決を教え、国民を先に殺しながら、自分達は投降し敵軍の手によって保護される軍隊とは何なのだ?



(・こんな事は考えただけでも非国民として抹殺される・)



もはや日本には正常な判断力のある人間はいなかった。

戦争とは狂気だ。
コンフォーミティの極みだ。


私と大田昌秀君は第32軍の反撃が開始される前に首里に戻った。




4月1日 
 渡具知海岸に米軍総上陸が開始される。即日北・中飛行場は占拠された。


4月4日
 沖縄本島中部地帯、さしたる抵抗もなく占拠される。


4月7日
 戦艦大和以下日本海上救援部隊、沖縄に出撃し壊滅。


4月8日
 米軍、牧港まで前進。


4月16日
 米軍、伊江島上陸。北部守備軍(宇土部隊)八重岳を放棄。


4月18日
 米軍、本部半島制圧。米従軍記者アニ-パイル、伊江島で戦死。


4月19日
 米軍、首里外郭陣地(第62師団)総攻撃開始。
 嘉数高地に死闘展開。


4月21日
 首里防衛陣地崩壊始まる。激戦続くも嘉数地区撤退。


5月4日
 第32軍・長勇参謀長、米軍に対し全線総反撃開始。


5月5日
 第32軍総反撃失敗。首里防禦戦始まる。激戦続く。


5月21日
 米軍、那覇市街に侵入。


5月22日
 第32軍、南部・摩文仁地区への後退を決定。


5月24日
 義烈空挺隊120名、北・中飛行場へ強行着陸攻撃、玉砕。


5月27日
 第32軍司令部は摩文仁へ後退を開始。住民悲劇相次ぐ。


5月31日
 首里城、米軍の手に落ちる。


6月10日
 米軍司令官バックナー中将、牛島中将に降伏勧告状。


6月17日
 米軍、スピーカーにて兵士・住民に降伏を呼びかける。


6月18日
 牛島中将、大本営・所属の第10方面軍に決別電報を打ち、配 下将兵に 対し「鉄血勤皇隊をひきいてゲリラ戦に出よ」と、 最後の命令を出す。





沖縄上陸開始


・・そして私と大田昌秀君は、摩文仁の壕にひそんでいた・・


戦いはすでに掃討戦になっていた。島尻地帯への沿道には県民犠牲者がるいるいと重なり合って倒れていた。

十数万の兵と住民が、狭い島南端に、網にかかった魚群のように追い込まれてきたのである。


頭上には、絶え間なく照明弾が打ち上げられ、弾丸が炸裂した。

海からは米艦船群が砲列をしいて獲物をねらい、上空には艦載機が絶えず旋回し機銃掃射が行なわれていた。

もはや戦闘ではなく、殺戮であった。


南端の地では人々は村内の自然洞穴に息をひそめて隠れる以外に方法は無かった。

大きな壕は兵隊によって占拠され住民は追い出された。


数ある中の、私達師範学校生のいる壕も負傷兵で一杯であった。

傷口が空気をつめこんだようにふくれあがり必ず死に至るガス壊疽患者。腕や足を失い動けぬ者、傷口にわいたウジのためうめき泣いている多数の兵隊。

・・・その中に、血みどろの姿で必死に介護を続ける、女学生達の姿があった。すでに南風原陸軍病院も無く、薬品も包帯も無い中で、女学生達は泣きながら励ましあって働いていた。

軍医もいない中で介護活動を続ける、沖縄師範学校女子部の生徒達だった。


そこには、幼なじみの同級生・西原優子の姿もあった。水も食料も弾薬も何も無かった。あるのは自決用に与えられた1個の手榴弾だけだった。

「学生さん、水・・水をくれ・・」

喉の乾きに耐えかねる兵隊のため深夜、私と女学生達は水を求めに壕を出た。


・・・その時だった!戦車のキャタピラ音が周囲を取り囲んだ。

突然、米軍スピーカーから流暢な日本語が流れた。

「日本人の皆さん、これ以上無益な戦闘はやめ、武器を棄てて出て来なさい。5分間待ちます・・・。」

ところが、壕の中の日本兵には投降という手段が許されていない。
投降する者は、友軍の手によって殺される。
なんと、敵軍よりも先に、後方の味方の壕から発砲が始まった。

壕に戻れない学生達は最後の覚悟を決めた。西原優子は叫んだ。

「みんなで母校の校歌を歌いながらニライカナイに行きましょう」

私達は、頭をきっとあげ胸を張った。

「さあ、思い切り歌って!進むのよ!みんなで同じところに行くのよ!」


言い終らぬうちに、機銃弾の連射が私達を襲い、数人が大地に倒れた。
残った生徒もその死体を乗り越え、校歌を歌いながら歩いていった・・。

全員が地上に倒れ、銃声がおさまった時、米兵が散らばっている生徒の死体に恐る恐る近づき、驚いたように叫んだ。

「おい、この子供達は丸腰だったんだぜ・・・。」


壕の中からは、大田君が狂気のように飛び出して来た。

「横田―っ、しっかりしろー、死ぬなー、死んじゃだめだー!」


大田君の腕の中で、私の鼓動は止まった。


「・・・オ・・オ・・・オカア・・サン・・・・・・・・。」






・・・・・・・・・・・・・・・・つづく








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