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続・青春VAN日記87

ケント社の巻 その54(1984年夏)

<アイリッシュセッタークラブ・イタリア旅行⑪>

“ロミオとジュリエットの舞台・ヴェローナ”

ガイド氏の説明によれば、ヴェローナの歴史も先史時代に遡る。古代より先住エトルリア人とガリア、ゲルマン、ローマ等の接する地であり、ローマ植民都市となった後も、その交通の要所であったために、カルタゴのハンニバル侵攻からフン族アッチラの来襲まで、ローマ帝国の数々の戦いの舞台となった場所なのである。

そして中世貴族時代には、領主スカラ家やミラノのビスコンティ家等の支配となり、やがてはヴェネチア共和国の統治に置かれるまで、あのシェークスピアの戯曲にも描かれる熾烈な貴族間闘争の時代が続いた・・・ということだった。


・・・が、浅薄な私のヴェローナの既知識といえば、唯一「ロミオとジュリエット」ぐらいであった。シェークスピアと云うよりも、美少女オリビア・ハッセ―の映画であった。(まさか、あの美少女ハッセ―が藤代先生同窓の・布施明氏と結婚するとは!)




“コロッセオ”を見学し“ブラ広場”をブラブラした私達は、有名な“ジュリエットの家”を見学した。

【※ロミオとジュリエットの話は、ギリシャ神話「桑の木」を元にした
シェークスピアの戯曲であり、このジュリエットの家や窓やベランダも、いわば、熱海の“お宮の松”(金色夜叉)のようなものなのだろうが、案の定、窓の下では観光客達が“今月今夜のこの月を、俺の涙で曇らせて~”ではなく、“ロミオよロミオ、なぜ貴方はロミオなの~”とか、TO BE OR NOT TO BE(昔、英語の授業でトベ・トベと読んだ奴がいた)などと“劇中”のセリフとポーズのマネをしているのであった・・・。】


そして、私達一行は、今回旅行の最終目的地ミラノへと向かった。



ミラノ史


ミラノ(英語読みではミラン)は、ローマに次ぐイタリア第2の都市である。

ミラノの発生は紀元前600年のケルト人の町が元といわれる。
ローマ帝国の征服後は、450年のアッチラ率いるフン族の略奪や、539年のゴート族の侵入によって破壊されたが、11世紀には、神聖ローマ帝国から独立し、自治都市として復活した。

中世ルネッサンス時代は、貴族の統治する公国であった。
13世紀にはビスコンティ家、15世紀にはスフォルツア家が支配しあのレオナルド・ダビンチをミラノに迎えた。

16世紀、スフォルツア家の血筋が絶えると、スペインの統治下に入り、18世紀には、オーストリア・ハプスブルグ家に帰属し、その後、ナポレオンの支配下となった。


1861年、ミラノはサボイア家が中心となったイタリア統一運動で、
国王エマヌエル2世のイタリア王国に加わり、商・工・金融の中心地に成長していった。

しかし20世紀、ミラノは、国王エマヌエル3世の支持を獲得した
あのムッソリーニに従った。そして、2次大戦の激しい爆撃と戦禍によって壊滅してしまった。

(余談ですが・・・現イタリアはフェラーリやランボルギーニやカンパニョロの国なのに、大戦中の軍艦や戦車や戦闘機は、なぜあれほどチャチだったのか不思議だ。我帝国陸軍の兵装もひどかったが、あれでよく戦争をする気になったものだ。

・・・そして戦後のイタリア風景として強烈に私の記憶に残っているのは、20世紀のイタリア社会派映画の映像だった。

“鉄道員”での街の景色や庶民の生活風景描写は印象的だった。今でもあのテーマ曲にのって、少年の叫ぶ声が脳裏に聞こえてくる。

・・・敗戦の悲劇を描いた、映画“ひまわり”も心に残る名作だった!あの出征兵士の妻・ソフィアローレンの暮らしていた街もミラノであった。

夫を探し、訪ね歩いたロシアの広大な大地に咲き誇る一面のひまわり畑!
苦労の末、夫を見つけ出した再会のシーン!そしてその映像の背後から 聞こえてくるヘンリーマンシーニの哀しくも美しすぎるテーマ曲!

想い出すだけで今でも泣けてくる。
・・ああ、映画って、本当にいいもんですね!
心に残る思い出のアルバム写真ですね!
それでは、又お会いしましょう、サヨナラ・サヨナラ・・・???)



しかし、戦後のミラノは、世界の商工業のモダン・デザインの発信地として日本同様に見事な復興を成しとげた。

現代のミラノは、ファッションや家具デザインのミラノ・コレクションや、自動車産業の中心地としてクラシック・カーのミッレミリア・レースのスタート地点でもあり、又、ジロ・デ・イタリア・レースのゴール地点としても有名であり、歴史と近代が見事に融合した大都市に復興した。



“モードの街・ミラノのど~も?”

パリ・コレクションと並び、その年の流行が作られる発信元と言われ、有名なプレタポルテやモードの本場として知られるミラノだが、果して、80年代の経済文化大国に登りつめてしまった日本にとっては、かつてファッション雑誌が大騒ぎしたほどの・・・ものだろうか?


会長談

「今、日本では、ヨーロピアン・カジュアル・ウェアなるものが流行しているけど、ボクはあんなものは大嫌いだ。

アメリカン・カジュアル・ウェアっていうのだったら、これはわかる。


あれは正統スポーツ・ウェアの拡大版なのだから・・・。


しかし、日本で言うヨーロピアン・カジュアルとは一体何だ?
タウンとカントリー、昼と夜のTPOが入り乱れて、ひどいモンじゃないか。

だいたいヨーロッパで、あんなものを着ているヤツなんか見た事も無い。ボクにはモードはドーモ・・・だ。



ヨーロッパでのスポーツといえば、もともとこれは貴族達だけの
遊びであり、一般の人達の意識にはあまりのぼらないものなのだ。

元来、ヨーロッパの服、というものは、身分社会の上に出来上がっているものだ。それを、今、身分社会への挑戦として、カジュアル・ウェアという形で発表しているのだろう。

スポーティなものに託して、身分社会の鎧を打ち壊そうとしているのだろう。


ボクは、身分社会というものが好きじゃないが、それを意識してくずそうとする発想も理解できかねる。


身分社会の上層の服装というものは、ヨーロッパ文化の集積としては、
非常に素晴らしいモノだと思っている。

服装、というものには、それぞれの歴史、文化のバック・グラウンドというものが常にあり、それを理解し、身に付けた上で、初めて着こなせるものだ。


日本人がいきなりヨーロピアン・カジュアルやモードに飛びつくというのは、いかにも無見識なこととしか思えない。



ボクがアイビーを提唱したのは、アメリカン・トラディショナルの伝統が、わずか百年ぐらいだったこと。そして、日本人が持つ、弊衣破帽のバンカラ精神が、アイビーリーガー達の持つファッション哲学と、ある意味で共通したバック・ボーンを持っていた、という事を確信していたからだ。


ヨーロピアン・カジュアルなんていう、いい加減なものとは根本的に違っているのだヨ・・・。」




“来た、見た、分かった”


ヨーロッパ・ファッション界の動向に一喜一憂している日本とは逆に、ミラノの若者達の間では、ホットドッグ誌の花房さんが言ったように、アイビーやプレッピー(アメリカン・スタイル)が大流行していた。

なんと街中には、我社と同名の“KENTSHOP”までもが存在し、ボタンダウンシャツが売られていた。(こんな事がアリタリア!・・??)

カジュアル・ウェアとは、結局、IVYTRADが世界の原点なのだ。

モードやらコレクションの上流世界が、ブランドマークをつけて売る服の世界では無い。スポーツやカジュアルは機能の世界なのだ。

モードの世界とは、機能とは別の、見栄と世間体のセレブやスノッブ人種御用達の“プロモーション”の虚構世界だ。

AラインやHラインのデザイナーブランドが流行ったのは昔の話だ。



会長曰く

「三宅一生は、パリやミラノのマネなんかしていませんよ!


いまだに雑誌の流行ファッションの宣伝記事に扇動されて、欧米世界の流行を追いかけているバブル日本人達の“モノ”の哀れ!



ミラノのドォーモ

ミラノは私達のイタリア旅行最後の見学コースである。一行は、時間を惜しんで観光に出掛けるのであった。ミラノのランドマークは、なんといってもミラノ大聖堂・ドォーモである。

宗教的な解説は良く分からなかったが、その規模・装飾は圧巻だった。ミラノ領主ビスコンティが建造させた世界最大のゴシック建築と言われ、135本の、先端に聖人像のある尖塔を持つ巨大な建造物であった。

とにかく、純白に輝き、でかい、派手だ、華美だ、凄すぎる!



・・・会長の一言。

「ボクはねえ、あんまりゴテゴテしたのはドーモね・・・!?。」



キンキラ、ピカピカ、ゴテゴテは、会長の御趣味ではなかった・・・。東西を問わず、どうして金・権・登りつめた人間はこのような趣味になるのだろうか?はたしてこれはカッコいい事なのだろうか? 渋いケルン大聖堂とは対照的であった。

鎌倉の建長・円覚寺は、もっと渋かった・・・ああ質実剛健。)



私達は、そのままドォーモ広場からエマヌエル・アーケードへと歩いた。

かつてのイタリア国王名にちなむ、この大アーケードは、当時のロンドン・バーリントンアーケードやピカデリーアーケードと並び、世界の近代ショッピング・アーケード街のさきがけであり、ディズニーランドのワールド・バザーのモデルでもあった。

巨大なガラス天井に覆われた大理石ストリートの交差点には、踏むと幸福になれる?という牛の絵のモザイク・タイルが有り、また、グッチ・プラダ・ヴィトン・ブルガリ・ベルサーチ・フェラガモ・・・アルマーニ・・・等々の有名店の数々がキラ星のように軒を連ね、数々のカフェ・レストラン・バー・・・が立ち並び、たくさんのミラノ美人が、歩道のテーブルでお茶を飲んでいた。

きっと、ここは“ヒカリもの”の好きな方や、上流階級憧れ派の方にとっては天国のような場所なんだろうなあ?

私は職業柄で、店舗の外観・レイアウト・ディスプレイ・店員の接客態度等を中心に勉強させていただいたが、さすがに、横田にグッチ(ムッツリーニにフェラーリ)・・・状態であった。



セビルロウやマジソン・5番街やオコーネル通りのような感動は・・・。




さて、10日間以上もビーフorチキンorパスタを食べ続けたメンバー達のイタリア最後の晩餐は、希望者多数で“日本食SUNTORYとなった。

店内には、日本人客も多く、スカラ座が近いせいか、日本の有名オペラ歌手のIさんの姿もあり、わが会長に対しても丁寧な御挨拶を頂いた。

ミラノの地で、日本人同士で気軽に会話できるこの安心感!
味のわかる料理を、日本人店員に日本語で思い通りに注文出来るこの喜び!
久しぶりの、日本酒、漬物、焼き魚、焼き鳥、煮物、海苔、塩辛、・・・
お刺身に白いご飯。なんと納豆まであった。


・・・嗚呼!日本酒や和食とはこんなに美味いものだったのか!
やっぱり日本は最高だ。
(日本から取り寄せているとのことで値段も最高だった。)



やっぱり、ソフィアローレンよりも吉永小百合様がいい。
マルチェロ・マストロヤンニより、高倉 健・加藤 剛様がいい。


アルマーニよりもVANKentが絶対にいい。


旅行出発前よりも、確実に10倍の愛国者になって帰国する私でありました。

                  イタリア旅行の巻 おわり






・・・・・・・・・引き続き・・・・・・・・・つづく









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