続・青春VAN日記9
破産財団の巻 その9(1979初夏)
<VAN外編・ヴィーナスの話A>
「ところで大門さん・・・、昔から、“歌は世に連れ、世は歌に連れ”なんてえ事を申しますが、今の日本ポップス界の主流は 圧倒的に“ニューミュージック”でしょう。
だからといって、ユーミン、ハイファイセットの後を追うのはやめましょう。二番煎じになるだけです。
(・・・その後、ユーミン事務所さんからもオールデイズ路線の件で御連絡を頂き、年末TV番組に協力することになりました。)
“私どもVANの意味は先駆者であります”
石津先生も“他人と同じ事をするな、人と違う事をやれ!”と言っています。今、東京で誰もやっていないバンドをやりましょう。
ファッションの世界も、今、“ニュートラッド”ブームですが、
私どもは、原点のアイビーを追及し、60年代の世界を復刻させています。
たとえば、アメリカンポップスの“温故知新”バンドはどうでしょうか?・・・“アイビー・バンド”をやりませんか・・・?
幸いにして、バンマスの永井光男さんは“元ブルージーンズ”だし、ボーカルの石川幸子さんは“元スクールメイツ”だし、私も“元ナベプロ・ザ・ピーナッツ後援会”だし、・・・
そして、業界初となる60’オールデイズ・バンドの衣装全般は、すべて、当店のVAN製品でバックアップさせて頂きます。
さらにライブ活動等には、“アイビーグループの若者達”を動員しましょう。いかがなものでしょうか?」
・・・「 異議無し!」
かくして新生“ヴィーナス”の活動は開始された。
まずは、“新宿ルイ−ドのライブ・ステージ”からの出発であった。
“ ・・・FENからは“恋の日記”が流れていた。ビルボードもキャッシュボックスもなかったけれど毎週ラジオから聴こえてくるヒットチャートを僕はノートに書き込んでいた。
一冊のノートが終わった時、僕は18才の春をむかえた。思い返せばボタンダウンにコットンパンツ。パットブーンにコ二―フランシスを聞いていたあの頃が僕達の一番強烈な時代だった。
この日、新宿ルイ−ドでは15年前のあのパーティが再現します。
あなたも、アイビーや60年代のコスチュームでご参加ください・・。”
私は毎回、PICK-UP店のお客様達多数をご招待して、タイアップ活動をした。
この、演奏者も演曲も観客もオール・アイビースタイルのルイード・ライブは、またたく間に音楽業界の評判となった。
同時にPICK-UP店のお客様達にとっては、購入したVANの服をお披露目し合うアイビー人間達の出会いの輪を広げる絶好のパーティとなっていった。
(このライブ・スタイルは、やがて“ケントス店”等などによって、日本中に広まってゆくのでした。)
かくしてヴィーナスは“イッツ・マイパーティ”“恋のラジオ・ステイション”“涙のバースデイ・パーティ”とヒットを飛ばし、ラジオ・TVにも進出し、翌81年には“キッスは目にして”(元歌はザ・ピーナッツの情熱の花)の大ヒットで紅白歌合戦にも出場することになるのである。
そして、ポップス界には“復活キングトーンズ”“シャネルズ”等も登場して、オールディズ全盛時代を迎える事となるのでありました。
そして青山PICK-UP店の売上も、ますます上昇するのでありました。
(新生ヴィーナスの最初のスタイリストは、実は私だったのです。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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