続・青春VAN日記92
ケント社の巻 その59(1984年秋)
<KENT BOOK>
「‘60年代―それは私にとってVAN, Kentと共に過ごした時代だった。
その後、夢多き憧れのアメリカは現実味を帯び、やがて恐るべきパワーを持った‘70年代へと引き継がれてゆく・・・。
そしてKentは、VANで育ちアイビーの面白さが分かりはじめて、服の魔力に取りつかれた人たちに対して、TRADという世界を確立していった。」
・・・くろすとしゆき
今秋、くろすとしゆき先輩が“ケント’85春夏展示会”に御来社された。
かねて昨年より、くろすさん・立風書房の小野至さん・ケント社の三者間で企画されていた“永遠のトラッドブランド・ケント”、「KENT BOOK」制作の最終打合せである。
ノーマン・ロックウェルの香りを伝える大好きなイラストレイター綿谷 寛画伯も同行されていた。
言うまでも無く、くろすさんは1966年1月付をもって石津社長からKentの担当を任命され、大阪時代の安田部長の高級紳士服路線から、“VANのアイビー”に対しての“Kentのトラッド”路線 を確立し、さらには、
・・・「モノ」を理解するためには、表面に現れている「カタチ」だけでなく、その裏側に隠れている「ココロ」を知らねばならない・・と、日本独自の「トラッド道」・「トラッド精神」の思想を確立させた、
いわば“Kentトラッドの生みの親”である。
昨年時に、ケントブランドの歴史を後世に伝えようとの三者合意があった時、私は、かつてのケント営業部の先輩である兼田さんから引き渡されて密かに所持していた、・・・あのまぼろしの・・・くろす部長の書かれた“1966年ケント企画書” 原文コピーを御本人にお渡しして、大いに懐かしがられたものだった。
そしてケント社は、社史とも言うべきこの“KENT BOOK”執筆のくろすさんに、全社挙げての資料や商品・ノベルティ等の全面協力を惜しまなかった。
ケント・ストーリーの全てをくろすさんに書いて頂きたかった。
日本の“トラディショナル”を正しく後世に伝えたかった。
くろすさん入魂の“KENT BOOK”は、1985年6月15日立風書房のグラフィック・シリーズ(VANグラフティシリーズ)として第1版が発行され、全国書店・ケント特約店で発売された。
KENT
BOOKには、かつてのヴァンヂャケット社の風景や匂い、Kent20年の歴史の全てが満載となった。
・・・ほんの一部をご紹介します。
「私のトラッド道」(くろすとしゆき著・KENT
BOOKより)
思えば60年代のわたしは、一瞬たりとも立ち止まっていることはなかった。
いつも走っていた。走っていないと不安だったのかもしれない。それほど周囲も激しく動いていた。
60年代の10年間わたしはVANに在職した。この10年間はわたしにとって、素晴らしい日々の連続であった。毎日が面白くてしようがなかった。
こんな楽しく仕事をさせてもらって、お給料いただいて、本当にいいのだろうか、そんな気分で過ごしていた。
労働は提供したが、それを何倍も上回る収穫があった。それは知識、そして友人達である。
1961年5月、わたしはVANに入社した。当時は入社試験などある規模でもなく、VANの信者が本社をたずね、その日から働き始めるといった、実に自然な形で社員が増えていった。
わたしもその例にもれず、東京に企画部が出来るというので、石津祥介氏を訪ねて行った。
わたしはその数年前、学生時代から、イラストレイターの穂積和夫氏らと共にアイビー・クラブを結成、今で言うところのパフォーマンスをあちこちで行っていた。
素人ながらアイビーへの思い入れは誰にも負けない自信はあった。
そんな熱い思いが通じ、折からアイビー路線を進もうとするVANの企業姿勢とうまくマッチしたのだろう、ただちに採用、明日からでも、という話になった。
5月1日、わたし一人の入社式が日本橋VAN1階の営業部で行われた。
緊張に身を固くしているわたしを、30数名の全社員に紹介してくれたのは、大川照夫専務だった。
ずい分 若い会社だなという印象を受けた。平均年齢22~23歳ではなかったろうか。
わたしは26歳になったばかり、年令順に並べれば上から10位以内に入るほど年配者が少ない会社だった。
ファンの集いのような会社なので、若いとはいえ、服に対する思い入れは皆すばらしかった。
その情熱が初期のVANを支え、推進させていた。
朝早くから夜遅くまで実によく働いていた。
ボンヤリしてるヤツや、仕事中タバコを喫ってるような奴は一人もいなかった。一人一人が命令されなくても仕事を見付け、キビキビと対応していた。
最初のうちは、この空気になじめなくて、ウロウロするばかりであった。
企画部とはいうものの、広い部屋でのんびりデスクワークというわけにはゆかぬ。
生地をかつぐ、納品する商品に値札を付ける、出荷のパッキングをやらされる、その合間をぬって商品企画を行った。
そんな雑然とした空気の中から、わたしは60年代の熱気を自分なりに吸収していった。
折からの60年安保で学生達は大きく二分されていた。ひとつは学生運動にのめり込んで行った硬派学生。もう一方は学生運動よりもアイビー・ルックに身を固め、軟派に走る連中である。
VANはもちろん後者をターゲットとして捕えていた。
アイビーを苦々しい思いで見ながら、インスタントラーメンをすすり込む学生運動の連中をどこか意識しながら・・・。
60年代は、こうして安保とアイビーというカタチで若者たちの意識を二分しながら激しく動き始めた。
VANに入社するまでは、わたしもVANファン、いわば被害者、ところが立場は逆転、加害者に回った。これはこたえられない快感。
今まで金を払って買っていたのが、金をもぎ取る側になったのだから。しかももぎ取るどころか、感謝しつつお金をはらってくれるユーザーがほとんどとなれば、いい気持ちにならないのが不思議なくらい。
そして企画部もようやく、体裁が整い、以前ほど荷をかつぐこともなくなり、軌道に乗り始める。外国のファッション誌も揃い、デザイン・ソースには欠く事が無くなった。
当時VAN企画部のソースは、何と、「シアーズ・ローバック」のカタログだった。
神田の古本屋から古いカタログを仕入れてきては、端から商品化した。
その頃のシアーズ・カタログは“アメリカ100パーセント”。隅から隅までアメリカの匂いに満ち溢れていた。
わたしたちは息をのみページに見入った。どれもこれも欲しい物ばかりだった。
あのカタログは、貧しかったわれわれに、豊かなアメリカをいやというほど見せつけてくれた。
わたしたちは、見せつけられたアメリカを、再現していただけだった。輸入物がごく一部の人たちの物だった60年代初期、アメリカ製の衣服を身に付けることのできるのは、特殊な人にかぎられていた。
そんな欲求不満に、わたしたちはVANブランドを通して、ささやかに答えていたのだった。
現在わたしの手元に、処分をまぬがれた当時のVANのブレザーとレインコートが生き残っている。ずいぶんとひどい出来である。
裁断も縫製技術も、今と比べ物にならぬくらいのおそまつさである。だが、そのおそまつさを超えてあまりあるほど商品には情念がこもっているのを感じる。
20数年経ってなお、瑞々しいほどそれらの商品は鮮度が高い。
これはどういうことか。情熱が技術を上回っていたということか。
それも四半世紀を経過してなお消滅することのない程の情熱。
60年代、日本中の若者を熱狂させたVANの秘密はそこにある。
アメリカ式のしゃれたキャンパス・ルックだったからではない。社員全員の「思い」「情熱」が若者達の心をゆさぶり、彼らを、アイビーの渦に巻き込んで行ったからだ・・・・・・・。 |
・・・VANらしさとは何か? 実に良い所ではありますが中断致します・・・。続きはぜひ、KENT BOOK本文にてお読みください・・・。
思えば、あのVAN復興時代の私達も全く同じ気持ちでした・・・。
・・・このKENT BOOKには、
「石津謙介師のケント秘話、」
「ケント・トラッド歳時記、ケント歴史、」
「歴代ケント企画担当者達の情熱話、」
「青山・堂島・鎌倉等初期ケントショップ店長の思い出と願い、」
「ケント・パーティに集ったたくさんのお客様達の写真や思い出、」
「ケント商品・ノベルティ博物館、」
「ケント蘊蓄学、ケント事典、」
「くろすさんの“トラッド道”」・・・と、・・・ケントの全てが詰まっている・・・。
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管理人が1987年にNY, SOHOのアンティーク・ショップへ入ったときに
偶然にも見つけた
“ 1908 SEARS,ROEBUCK CATALOGUE ”です。
(言うまでもなくオリジナルではありません、1960年代の復刻版です。
私も、あれやこれや、いろいろと利用させていただきました。) |
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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