続・青春VAN日記95
ケント社の巻 その62(1985年春)
<1980年代の日本市場動向>
日本経済は、1950年の朝鮮戦争軍需景気に始まった高い成長率を、80年代に入っても、いまだ継続していた。
国民総生産は、昭和30年~50年の20年間で約10倍にも達した。
まずは工業の技術的進歩はめざましく、生産力の増加につれて海外輸出が急増し、日本は世界の猿真似国から技術大国へと進化していった。
そして戦後復興の国民的消費は急激に豊かさを増していった。
このような日本経済の成長のスピードは世界史にも類例の無い物だった。
かつて、飲まず食わずであった敗戦国民は、戦争から20年も経たないうちにオリンピックを開催する怒涛のような復興を成し遂げたのだ。
日本政府は戦後20年にして、もはや戦後では無い、と宣言し、国民は世界の一流品や高級品を手にすることが出来る生活水準にまで成長していったのである。
・・・しかしながら、経済の著しい成長に比べて国民文化の成長は多分に遅れがちだった。
文化住宅・文化食・文化鍋・文化服装学院・等、文化がトレンドの戦後時代だったが、多数の国民は衣食住の確保に手いっぱいだった。
子供とは一時期、極端に成長するが、身長だけ伸びて体重が遅れる事が多々ある。日本社会はそんなバランスのとれない少年のようであった。
その時代に、日本の経済と文化のアンバランスを補う人々がいた。
あるべき文化国家の、衣食住の生活文化向上の啓蒙活動と云うべき、新しい“アパレル業界”なる世界を広める男達だった。
その代表は、石津謙介社長率いるヴァンヂャケット社であった。
VANはアイビースタイルという単なる若者衣料を売る企業でありながら、その商品に質実剛健、よく遊び良く学べ等、青年の生き方までを標榜し、昭和の若者達の新しい生活スタイルまでも提案をする学校でもあった。
その教室であるショップの販売員は、尊敬され、若者に衣服を教へ、人生指導までしていた。
日本の若者達の風俗や思想文化にまで影響を与えた企業だった。
しかし、70年代の終わりに、文化を先導し風俗を作ってきた、その業界トップ企業は破綻して、若者達に衣服の知識や着こなし方の基本を教えていた、まるで学校のような企業は無くなってしまった。
そして80年代。ヴァンヂャケット社無きあとのマーケットでは、服の意味や着こなし方まで教える企業の姿などは次第に無くなり、消費者志向と言えば聞こえはいいが、バブル景気で現金を持った客達から楽にお金を頂くべく、面倒な商品企画などやらずとも、すでにそのネーム力と権威や信頼性は世界に確立済みであって、即マーケットに訴求出来る、世界の極めつけ有名高級ブランドの取扱商売に、業界人間達の目は向くのだった・・・。
急激に世界の金持ち国となり、バブル景気に浮かれる巷では、贅沢・華美な高級品・舶来品を身に付けるファッションが蔓延し、サラリーマンが簡単にローレックスを持ち、外車を乗り廻し、一般女性が高級バッグやドレスを纏い、羽根付き扇子を持ってクラブで踊り狂う無秩序で享楽の風俗になっていった。
そして、この有様に、私は“日本高度成長時代の終焉”を予感した。
(80年代の日本は、アリとキリギリス童話の“キリギリス”状態だ。ビアフラやカンボジアでは多くの避難民や餓死者が出ているのに、ティファニービルを買ったり、世界の高級品を買い占めたり、フォアグラやキャビアを食べていい気になっている・・・。
大自然の摂理や歴史とは、必ず自然界や社会のバランスを保とうと動く。今に逆のモーメントが働き、大変な事になる・・・。)
一方、80年代の産業界では、業務のさらなる効率向上・利益率向上を求める日本企業の多くが、バブルの流れに、より儲けるべく企業体質改善の合理化運動に走っていた。
某社かんばん方式とか、国際標準化機構ISO等が流行して、バランスシートには寸部の無駄も許されないシビアな経営が要求され、管理し儲け尽くす究極の利潤追求の拝金主義の姿になっていった。
(果して、当社はこの流れに乗っていいのだろうか・・・?
マーケットには、既にあらゆる商品や世界の究極の高級品が出回り、従来の自動車も住宅も電気製品も、モノは国民に行き渡ってしまった。
もうそろそろ飽和状態になる。
今後は日本の人口増はストップし、消費者人口も減少化に変転する。
企業経営努力もやりつくし、これ以上の利潤を上げる余地は少ない。
消費者の嗜好は多様化し、もう大流行などはあり得なくなる。
まとまって売れる既存商品などは、もうすぐ無くなる。
今が経済成長のピークだ。
もうすぐ停滞が始まり、市場では、今までには無かった全く新しいジャンルの商品とか、時代を超えても存在を許される価値ある伝統商品しか売れなくなる。
時代は変わる。
これから始まるシビアな時代には、VANのような遊び心とか夢やにおいを売る楽しい会社は、はたして存在が許されるのだろうか。
・・・しかしながら、私は歩く化石になろうとも、あの、素晴らしい先輩・仲間達の笑顔が溢れていた日本中の若者達の松下村塾であったヴァンヂャケット社をなんとしてもこの世に存続させていきたいのだ。
どうしたらVAN Kentを100年ブランドに出来るのだろうか・・?)
取引先店も増加し、社員数も増加して赤羽橋本社が手狭になったVANグループは、1985年春、港区・麻布十番アポリアビルへと本社を移転するのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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1978年2月、VAN 356別館入り口前にて |
石津会長生誕100周年、
山陽堂書店ギャラリーに飾られていた会長の言 |
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