続・青春VAN日記99
ケント社の巻 その66(1985年春)
<わが青春のアメリカン・イエスタデイズ>
終戦後の混乱から間もない頃・・・、貧しい復興日本の少ない娯楽の中で、子供達の毎日の楽しみは、白熱電球の灯りの下での家族だんらんと、ラジオ放送だった。
ちゃぶ台での晩御飯の時には、ラジオ番組が流れていた。
笛吹童子、紅孔雀や、少年探偵団、赤胴鈴の助、まぼろし探偵、1丁目1番地、鐘のなる丘、三つの歌、とんち教室・・・等々。
団塊のちいさな子供達は、言わばラジオで育ったのである。
幼稚園で“ちいちいぱっぱ”を歌った子供達は、やがて桜咲く小学校の門をくぐり、ラジオ体操で健康に育っていった。
子供達の遊びは、チャンバラやビ―玉やメンコやべーゴマだった。
そしてこの頃に、日本の放送事情は大きく変化していった。
“テレビジョン”の登場だった。
街の中心地には街頭テレビが設置され、多くの人々が群がった。
力道山にシャープ兄弟、ル―テ―ズ、豊登、芳の里、木村政彦、(・・・九州では名前を呼べないボボ・ブラジル・・・)
やがて皇太子御成婚・ミッチーブームでテレビが家庭に普及しだすと、ジェスチャー、お笑い三人組、チロリン村とくるみの木・・・、やりくりアパート、とんま天狗、琴姫七変化、てなもんや三度笠・・・、月光仮面、七色仮面、少年ジェット、風小僧、白馬童子・・・と共に、
“舶来のアメリカ製の番組”が怒濤のように溢れだしてきた。
スーパーマン、ローンレンジャー、拳銃無宿、ローハイド・・・等。
家庭のだんらんは、ラジオからテレビの前へと移って行った。
番組の無い昼間のテストパターンさえ、見続けている子供達だった。
そしてテレビの普及につれて、空き地での子供達の遊びの中心は、快傑黒頭巾のチャンバラごっこから、スーパーマンや月光仮面や西部劇にとって変わり、“原っぱ”では風呂敷マントとゴム長靴と銀玉鉄砲に2B弾が必需品になった。
“♪力は機関車より強く、高いビルディングもひとっ飛び~”・・・と、塀の上から飛び降りては怪我をし、“バキューン”と叫んで走り回っては膝を“スリム”き、
“俺は、ララミー牧場のジェス・ハーパーってんだ・・・”などと言葉の意味も分からないで、“ホールダップ” とか、“オ―ノウ” とか“ジャストモ―メント”などと口走っていたものだった。
私達世代の子供にとっての外国とは、アメリカの事だった。
子供達の遊びの、全てはアメリカ風になっていった。
(フラフープ、だっこちゃん、ヨーヨーにローラースケート等々)
数多い少年雑誌からも、アメリカ風が溢れ出していた。
(シネコルト、Oゲージ鉄道、ラジコン、モデルガン、プラモデルなどなど)
そして巷では、タフガイ・マイトガイ・ロカビリーが流行していた。
私達は、アメリカに魅せられてしまっていた。
やがて中学生になると、中学生時代や中学コース誌の雑誌を読み、勉強法を知り、学校での初めての憧れの英語勉強に取りくみ、旺文社様の御世話にもなる私達世代でありましたが・・・、英語は、・・・難しかった。
・・・赤尾の豆単の丸暗記はabandon oneself toで挫折し・・・、
・・・JBハリス先生のNHK基礎英語にはついて行けず・・・、
教育ラジオは途中から選局を変えてしまうのでありました。
結局、5球スーパーヘテロダインの真空管ラジオから流れ出てくるのは、“S盤アワー”のナットキングコール、プレスリー、べラフォンテや
サッチモ、二―ルセダカ、ポールアンカ・・・や、
“FEN”の、ビングクロスビー、シナトラ、ディーンマーチン、とか。
パティページ、ドリスデイやアンドリューシスターズ達の、健康で明るい時代のアメリカの素晴しい歌声の数々でありました。
(・・・が、63年ケネディ暗殺事件頃から、“自由・平等・博愛”の正義のアメリカのイメージは、影をおび始めていくのでした・・・。)
やがて東京オリンピックが開催される頃になると・・・、家族だんらんのテレビは、アメリカン・ポップス系の音楽バラエティー番組が中心になり、東京の銀座にはアイビー族が現れ始めるのでした。
夢で逢いましょう、シャボン玉ホリデー、ザヒットパレード、ホイホイミュージックスクール・・・、日本語で歌うアメリカンポップスとモンキーダンスは時代の象徴だった。(♪いきな看守のはからいで~、ユエンナキバラハ~ンドック~・・・)
スマイリー小原とスカイライナーズのフルバンドで唄うピーナッツは実にカッコ良く、大声でカタカナ英語を歌う少年達でありました。
そしてビートルズが大流行し、リバプールサウンド全盛となり、ラジオが真空管からトランジスタに移り変わる頃、私達は蛍雪時代を読みながらの受験生時代に突入した。
日本史上、最大の同世代人口が狭き門を競う“受験地獄”であります。
・・・夕食が済むと、・・・TVのスイッチは親に切られた。私達の自由になるのは、やっぱりラジオだった。よって、当時の大方の同世代受験生の勉強法は、・・・ラジオを聞きながら・・・受験生ブルースを歌いながら・・・平凡パンチやメンクラ誌の水着写真を見ながら、の“ながら勉強族”であった!?
深夜放送のディスクジョッキーからは、糸井五郎・土井まさる、や野沢那知・白石冬美・亀淵昭信・陳平・・・氏達等が登場し、聞こえてくるディスクはブラザースフォーやキングストントリオ、PPM、ブロードサイドフォー、フォーククルセダ―ズ等のフォークソングや、ボブディランのプロテストソングの歌声であり、
又、ベンチャーズやスプートニクス、寺内たけしとブルージーンズや若大将のエレキでありました。
やがて最大の競争社会を生きる団塊高校生達の間では、旺文社アンチョコとギターとVANとが三種の神器になり、高校文化祭はどこもフォークソングの歌声とエレキバンドのテケテケと、ボタンダウンで溢れるのでした。
しかしながら文化祭でギターを抱えてブラ・フォーを歌っていた私でありますが、生意気盛りの私達の好きな音楽は、すでに、大衆歌謡や和製グループサウンズよりも洋楽でありました。
そのきっかけは、英語に少しでも慣れようと深夜いつも聞いていた駐留軍放送のFENであり、参考書はメンズクラブ誌なのでした。
いつもはアンディウイリアムスやポールアンカ、コニ―フランシスやパットブーンを聞いていた私が、やがて一番引きつけられたのは、スタンゲッツやポールデスモンド、デイブブルーベック、MJQや、アートブレーキーやマイルス・コルトレーン・ロリンズ等の演奏していたモダンジャズでした。
“ジャズはアイビーの先生だった”
ジャズとアイビーが、私の憧れのアメリカそのものだったのです。
さらに放送部員だった私は、文化祭でOB稲門会が呼んでくれたW大ハイソサエティ・オーケストラのPA係をやった事が、その後の進路や、また “スイングジャズ”に夢中になっていくきっかけとなるのでした。
かくしてジャズとアイビ―三昧の大学生となる私でありましたが、学生運動や安保騒動、ベトナム反戦運動には興味は・・無かった。
大学生活では、キャンパスライフと部活動に夢中でした。
ジャズ研ほど楽しいものはありませんでした。
文無し学生でも、日本各地に演奏旅行で行く事が出来るし、他大学との交流等で、友人もたくさん出来るし、有名女子大のガールフレンドも・・・?
・・・やがてやがて、恋の熱病に冒される“苦しい青春”の経験は、私の様な無骨な男にも訪れたのです・・・?
演奏旅行で知り合った、某女子大ハワイアンバンドの可愛娘ちゃんに私は一目惚れしてしまったのですが・・・・・、悲しいかな、バンカラ男子校出身の私には成す術が有りませんでした。
窓の下で“七つの水仙”を唄うばかりでした。
I do not have a mansion I haven’t any land
not even a paper dollar
to crinkle in my hand
But I can show you morning on a thousand
hills
And kiss you and give you seven daffodils
こんな時に、役だったのはジャズでした・・・???
スタンダードには、異性との心の触れ合いや人の心情の機微を、美しく綴った曲が、それこそ星の数ほどありますが、その素晴らしい歌詞は、けっしてバイロンや源氏物語の恋歌に劣るものではありませんでした。
これを使わない手は無いのだ!
・・・その時の私は、自分の顔もかえりみずに、ガーシュウィンやコールポーターの名曲、そしてシナトラやジョニーハートマンの美しい曲の和訳歌詞を
“ラブレター” (そういう時代でした)に多用させて頂きました。
The very thought of you makes my heart sing・・・
You are too beautiful but I am a fool・・・
I’m in the mood for love・・・
They can’t take that away from me・・・
What is this thing called love・・・
All The Things You
Are・・・なんちゃって
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(ハタシテ彼女に意味は通じたのでありましょうか?全くYoung at heartな私・・・でありました。・・・赤面!)
・・・さて、恋の行方は?
残念!憧れの彼女は、K大ライトのバリサク君に奪われてしまい、
Willow weep for meな私なのでありました・・・(涙)。
(・・・団塊の競争社会の厳しさを身を持って味わう私でした・・・。
追伸、失恋した時には、けっして“ビリーホリデイのストレンジフルーツ”を聞いてはいけません。・・・苦しみが100倍になります・・・。)
ことほど左様に、ジャズとアイビーのアメリカは、私の青春の憧れであったのですが、そのわずかな知識と経験は、あこがれのV入社試験でも、百貨店勤務時代にも、営業マン時代にも、倒産中にも、“J”でも・その後の私の人生を手助けしてくれました。
・・・そして今、とあるパーティーで我校長先生の愛唱歌が「オールマン・リバー」と知りましたが、(・・・周囲にはその古い名曲を知る人がいませんでした。)
その時私は、
「・・・その曲は20世紀米国最大の作曲家ガ―シュインと並ぶ、ジェローム・カーンの作曲したミュージカル「ショウ・ボート」(1927年)の中の代表曲です。
戦前の米国でセントルイスブルースと並んで大ヒットしました。
・・・私は4年前、ヴィーナスとニューオリンズを旅行した時に、現地で耳にいたしました。夕暮れのフレンチクォーターのミシシッピ―河畔で、黒人の老人が一人、川に向かって切々とトランペットを吹いている、哀愁の“オールマンリバー”のメロディを聞きました・・・。」
・・・と言った時・・・、
「おおヨコタ君! ・・・君は知っていたか!ニューオリンズかあ!・・・懐かしいなあ!・・・」
(・・・面目躍如! ・・・道楽は無駄ではなかった!その時、実にうれしそうな御顔の会長でありました・・・。)
かくしてか???
第3回・銀座松屋アイリッシュセッタークラブ海外旅行は、“石津会長とアメリカ横断旅行”と決定し、またまた、お供を仰せつかる私なのでありました。
つづく
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“ナポレオン・ハウス”のサイン |
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“プリザベーション・ホール”のサイン |
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“ New Orleans ”フレンチクォーター内の風景です。
第3回アイリッシュセッター・クラブ・ツアーの時
管理人が撮影したものです。 |
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