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ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その8。
                     「内見会といえば・・・」


内見会といえば当時どのアパレル・メーカーも自社ビルの展示スペースで人体(=マネキン人形)に来シーズンの試作品を着せてディスプレイし注文を取る方式を採用していて、何処もが似たり寄ったりの感じであった。
これはオンワード樫山やワールド、レナウン等の大手でも一緒だった。


しかし、常に新しい方向性を模索していたヴァン ヂャケット販促部では、当時原宿の住宅街に在ったDCブランドメーカー、たとえばアルファ・キュービックのメンバー等とも今後の展示会のあり方などよく相談したものだった。

東京ヒルトンホテルでの大内見会の後、札幌プリンスホテルでの内見会、福岡の西鉄グランドホテルでの内見会などを経験した。
生まれて初めて足を踏み入れた札幌では施工が終了して夜販売促進部全員ですすき野に繰り出し、ストリップ劇場地球座とかいう所に入ったが、筆者などは疲れ切っていて最前列でいびきをかいて寝てしまい、踊り子さんにマジで怒られた事もあった。


そういう話しは山とあるが、今回はそうではなく内見会の演出方法に関して、ヴァン ヂャケットが当時相当新しい事を試みていたのを紹介しようと思う。

展示会・内見会といえば営業担当が来場された取引先にへばりついて注文を取るのが本来のスタイルだ。
その注文数を内見会後集計して生産ラインに生産数の調整と納期の確保を行うのが普通の一般的・常識的モノ造りの方法だ。

しかし、巷のアパレル・メーカーと違ってヴァン ヂャケットはまったく異次元のモノ造り方法を行っていた。
簡単に言うと、内見会開催より遥か前に10ヵ月後に販売する商品は、何を幾つ造るか既に決まっていたのだ。同時に生産の上限数も決まっていたようだ。

だから得意先からの注文数がヴァン ヂャケットのマーケティングプラン(これが勘を頼りに結構いい加減だった)以上に増えても、少なくても対応等できなかったのだ。
間違って内見会などで思惑がはずれ全然不人気の商品アイテムも原反発注(元になる生地)・生産ライン押さえ(縫製工場押さえ)をキャンセルするには違約金を払わねばならないなどの理不尽な生産方法を採っていた様だ。

つまり常識的に言えば順番が逆な事を平気で悪しき慣例としてやっていた様なのだ。

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筆者がまだヴァン ヂャケット入社前の時代の内見会報告社内報 VANSITEより 

これは元来、ヴァン ヂャケットがVAN Kentといった軽い付和雷同型の流行と言うものを否定したトラッド・アイビー路線の商品中心で拡大した企業だけに、元々流行による大きな変化が在ってはいけないという半ば宗教がかった商品群で構成されていたからだろうと思われる。

ところが、時代の流れと共に商品が売れていくと商品アイテム数、色のバリエーションが従来の領域だけでは得意先の要望やターゲットである若者達のニーズに答えられ難くなり、どんどん野鳥の分類ではないが亜種が増えていったのではないだろうかと想像する。
ちょうどタータンチェックの柄が本来の本家だと色数やパターンが単純なのに比べ分家、分家で血筋が分かれるごとに色やパターンが複雑になるがごとく・・・。


そうなると、当然ワンパターンで今までどおりの生産スケジュール・システムでは市場のニーズに答えられなくなったのではないかと推察している。
このあたりは当時ヴァン ヂャケットの・企画ラインに居た方でなければ詳細は判らない。

要はトラッド・アイビー路線のファンがマスで増加する事によりマーケティングの変化と共にマーチャンダイジングも変化せざるを得なくなったのではないだろうか?

 http://3.bp.blogspot.com/-micuqGqw9pc/VQOStPFrJ8I/AAAAAAAALOo/-V59VXcjnV8/s1600/1975_sales%2Bconference.jpghttp://1.bp.blogspot.com/-Egkbxn0Tpzg/VQOSxoTAgkI/AAAAAAAALOw/SnzPWT9yids/s1600/1975%2Bsales%2Bconference%2B2.jpg
 内見展示会直前、社内報で全社員に内見会での新商品ライン最低限の知識を認識させた。


そういう時代背景の中、販売促進部では内見会において、得意先から如何にヴァン ヂャケットの筋書き通りの注文を取れるようにするか、誘導する方策を考えねばならなかった。
これは当時まだペイペイの販促部員だった末端の自分には全体像は見えず、ただ効果的な具体策を実現する事に没頭していたので、今に至ってこそ思うことなのだが・・・。


営業部門に向かって、「それは出来ません!」とだけは絶対に言わないのが販促部の理念だ・・・と常日頃から言っていた軽部キャップは当時相当なジレンマの中、部下に色々注文をつけていたのだろう。ストレスは半端なものではなかったと推察する。

其処で販売促進部が考え出したのが、製作部門がシーズン前に作る型紙(企画パターン図)と生地見本を貼り付けた原始的な製品メニュー
      (=スワッチと呼ぶ。間違ってもシュワッチ!・・・ではない、念のため)
をヒントにブランド毎の来期のテーマ、コンセプトをプレゼンテーション・ボードに表して営業部員と共に得意先にセールスする方法だった。

表向きはこれらを「コンセプト・ボード」内々には「紙芝居」と読んでいた。

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スワッチを視ながら受注活動・数出しを行う営業部員。 


内容は、各ブランド別にそのブランド内の商品を幾つかのテーマに分け、そのテーマごとのコンセプトを解説した。
例えば、来期は何故グレーの色をフィーチャー(重点的に押す)するのか、何故1950年代のアメリカがモチーフなのか??(=たまたま映画「スティング」や「華麗なるギャッビー」など40年代50年代モノの映画が流行っていたが為)などなど得意先のバイヤーが判りやすいプレゼンテーションを行うツールとしてこのコンセプト・ボードは営業部門から非常に珍重された。

ボードの最後のほうにはその商品を展示する売り場のディスプレイ例などまであったものだから、得意先の売り場担当者は「自分の売り場がこんな風になるのか!!」と非常に喜んだと言う話を幾つも聞かされた。

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今は既に「死語」に成ってしまったシティ・ボーイズと言う言葉はこれを期に流行るエポック的言葉だった。このコンセプトボード(=通称紙芝居)の製作は中味が企業秘密だから決して外注しなかった。 
 
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 今のBEAMSその他の店舗の原型は既にこの頃ヴァン ヂャケット販促部に存在していた。
 
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映画「ビッグ・ウェンズデー1978年」「バック・トゥ・ザ・フューチャー1985年」もまだこの世に無かった時代に、既に時代を先取りしていたヴァン ヂャケットの先取り感覚は、やはり会社そのものが群を抜いて新し物好き集団だった事を表している。 
 
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しかし、このパース画に見られるように、ニュー・スポーツショップの客が皆スーツ姿の男性だったりして、まだまだちぐはぐな感覚の様だ。まだ市場にはこの手の消費者達があまり育っていないと言うファッション界の変革期・混沌期だったのだろう。いわゆるアメリカ東海岸の生活観から西海岸の生活観へ時代が大きく変わろうとしていた時期なのだろう。
 
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頭のディスプレイ用小物の提案までしている。このようなアパレルメーカーは他には無い。 

ただこの方法には幾つかの弊害も生まれてしまった。
まずそれまでセールストークを一生懸命自分で情報を集めて考えてきた優秀な営業担当が
「内見会の販促部のコンセプト・ボードがあるから、もう一人で苦労しなくて済むな」と勉強・努力をしなくなってしまったこと。
同時に得意先が「ヴァンさん!あのプレゼンボードのようにうちの売り場飾ってよね?」とプレゼンボードの実現を要求してくるケースが出てきたのだ。

勿論費用はヴァン ヂャケット持ちだ。


この紙芝居(=コンセプト・ボード)造りは初めて具体的に大学で学んだ写真・デザインに関するセンス・知識が直接役立つと言う意味では非常に面白く身を入れて出来る仕事だった。

仕事と言う概念より、まさに「やりたくてしょうがない事=趣味」のレベルの内容だった。

だから徹夜こそしないが連日夜遅くまで販促部の部屋に居残って残業を楽しむ毎日だった。
時には夜遅く仲の良い営業部員がふらっと現れたが、皆得意先と一杯やっての訪問だったのでまじめに販促部が深夜まで活動しているのを見て相当驚いたようだった。

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この頃の筆者のデスク周り、机の上のカメラが仕事上大事な道具であった事を示している。
横のデッキチェアは社外の印刷屋さんや写真屋フォトスタジオの人々と長時間打ち合わせをする為
必須だった。
 

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実にお世話になったインスタントレタリング・LETRASET。 


当然営業部員は翌日356営業部のフロアで、販促部が夜中まで内見会用の紙芝居を一生懸命造っている事を吹聴するので、噂はあっという間に広がり営業部と販促部の信頼感は今まで以上に増したのは間違いないところだった。




ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その9。
                    「内見会といえば・・・その2.」


コンセプト・ボードの大成功は軽部キャップの小躍りするような内見会事後報告で部員全体がよく理解できた。
やはり営業あってこその販売促進部というスタンスは部員全体が良く刷り込まれていたからだろう。

営業売り上げ目標という具体的・数値的な成果が無い、宣伝・販促と言ったスタッフ部門ではこういった実働部隊の「感謝・悦び」を知ってこそ、自分達セクションの存在意義を確認できるのだった。

広告代理店(後に自分が属す事になるのだが)はこういった製造業クライアントの内部的な事実をまったく知ろうとせずに、グイグイ提案ばかりされて嫌われる事に気が付かない。

このヴァン ヂャケットでの経験は後の人生に非常に役立った貴重なものだった。


こういう喜びは直ぐに仕事に反映された。その次の内見会には更に進んだ技術を駆使して、得意先を唸らせたいという販売促進部の一種独特な職業病のような症状が生まれるのだった。

そこで我々販促部員が取った次のステップは、紙芝居(=コンセプト・ボード)をスライドで一度に大人数に対して見せようというもの。
勿論既に完成して数年が経っていた99Hallでの上映を目論んでいた。

しかしこれは最初にコンセプト・ボードを作成して複写してスライド化する方法を採るだけでは意味を成さなかった。
白いボードに雑誌から切り抜いたイメージ写真を貼り、文字をインレタ(=インスタントレタリング・一種のデザイン処理用画材)で貼ると、上映した際写真と背景のボードの白さがハレーションを起こして非常に観づらくなるという難点が発見されたのだ。

もうこうなると、完全にスライドの機能を理解しストーリー作りから入らなければ、コンセプト・ストーリーは完成しなかった。
VANブランド、Kentブランド、MINI・BOYSブランドそれぞれにコンセプト・ストーリーを作成。

無言のスライドを紙芝居のように送り、口頭で活弁士が喋る昔の映画ではあまりにお粗末だという事で、BGMを入れ、ディスプレイは実際にSD部の池田CAPが行い、筆者が撮影してスライド化してストーリーに入れ込んだ。
ナレーションも最初の内見会は我々が吹き込み完全な手造りスライドショーになった。

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スライドショーの画面に欠かせなかったのがVANのロゴインスタントレタリングだった。 


最終的な1978年春夏バージョンでは新たなブランド・SCENE(シーン)もあわせて製作した。
ヴァン ヂャケット倒産時に退社する際、各人がそれぞれ色々なモノ(ステッカーや紙袋、本や資料、サンプル)を持って帰ったが、筆者は、いの一番にこの想い入れ深い販促物だけは何としても後世に残すべき知的財産だと持って帰って置いたのが功を奏した。

今VANSITEで誰もが見られるようになって保存しておいて良かったと安堵している。


VANコンセプトスライド= http://vansite.net/78ssvansalespromo1.html

SCENEコンセプトスライド= http://vansite.net/78ssvansalespromo2.html

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 VANブランドの伝統的毛皮の防寒ウエアから
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SCENEブランドのダウンジャケットへ時代は変わりつつあった。双方現存使用中。 

筆者は主に商品ディスプレイ、店舗、などの撮影と全体の構成、音入れなどスライドショウの根幹メカニックを担当した。

前出の通り最初の頃は単純に画面が切り替わり販促部の人間のナレーションで実施したが、大勢を相手の上映時にそれはあまりにみすぼらしいとの話で予算が3倍になったので、プロのナレーターを雇い、画面もフェードアウト+フェードインを行う為に2台・3台のプロジェクターを連動させる高度なスライドショウへと進化していった。
しかしこのメカは自分にしか判らなかったので風邪を引いて休みそうになろうものなら大騒ぎだった。

観ていただければ判るが、画面の写真は海外のファッション雑誌やアウトドア雑誌、1960年代のキャンパスが出ている雑誌等だった。神田の古本屋に何度通ったことか。

背景のBGM等は当時流行っていた音楽を中心に取り入れた。
もちろんオープンで見せる物ではないので著作権協会JASRACなどへの届出は行わなかったし、街中で撮影した人々の顔写真も今ほど個人保護法等なかった時代なのでそのまま露出した。  ※現在は街中撮影の個人の顔にはマスクを入れた。

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当時盛んに神田の古本屋外で探したエスクワイヤー誌 

この紙芝居(=コンセプト・ボード)でのプレゼンテーション以来、得意先に対して説得する方法としてとんでもない「嘘技法」を思いついたことがあった。
今の世の中では既に当たり前のような手法だが、当時1976年頃はまだまだこういう手法は使われて居なかったように思う。


それは何かというと、例えばグレイフランネルのスーツなりジャケットを拡販しなければならない(理由は前回説明)様な場合、幾ら口頭で力説しても大手の百貨店さんバイヤーはなかなか信用してくれない。

其処でニューヨークに出張してウォールストリート、マジソンスクェアー等の交差点で信号待ちしているビジネスマンの写真を山ほど撮ってくるのだ。
そうして、その中からグレー系のスーツやジャケットを着用している者だけをトリミングで集めてスライドで流すのだ。

勿論ニューヨークだから紺系、ブラウン系、グリーン系、更には柄の激しい者などは沢山居る。

しかし、グレー系だけを選りすぐって並べて見せると大手百貨店のバイヤーさんたちは、いとも簡単に信用してくれてしまった。
筆者は決してその効果に驚いてその後広告業界に入ったわけではないが、あまりの効果に相当ショックを受けたのは間違いない。
そんな事をしても良いのだろうかと、少々後ろめたかったのも覚えているが、会社が儲かることなら正しいのだろうと思ったのも確かだった。


筆者は今、66歳にして野鳥写真の撮影、特にヤマセミの生態観察撮影に熱中しているが、そのきっかけになったのがこのヴァン ヂャケットでの販促部の仕事の数々だったことは紛れもない事実だ。

何故ヤマセミの観察と撮影に熱中するか?
それは勿論このヤマセミという野鳥の生態が面白くてユニークですっかり虜になってしまったからなのだが、同時に何処をどのように調べてもヤマセミに関する詳しい文献や資料や写真が無いからだった。
プロの写真家と称する者がヤマセミの習性を利用して羽根を広げて日常いつも留まる留まり木に細工をして、留まる瞬間を待ち構えてストロボ撮影したり、川底の砂に御椀状の窪みをこしらえて流れを変えヤマセミの餌になる小魚が集まりやすくし、飛び込んで採餌する瞬間を収録した動画や静止画は幾らでも見た。

NHKでも盛んに流したあれだ。
しかし、そのユニークなヤマセミの生態や行動が詳細な纏まったレポートになっているのを見たことがない。在っても佇まいや外側から見た一般的な生態だけだった。

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水中から拾った棒切れを何度も空中に放り投げて咥え遊ぶ?ヤマセミの珍しい生態。 

野鳥や鶏を描いたら右に出るものが居ないといわれる、かの江戸時代の天才伊藤若冲ですら、ヤマセミは描いていない。
何故か?理由は被写体のヤマセミに出遭えなかったからだろうと推察している。
若冲はモデルとしての鳥の死骸だけ目の前にしても絶対に描かない、生きた姿を観て描く物凄い観察力の持ち主だった。


彼の鶏の絵の中に二本の足の間から首を反対側に出している奇妙な絵が在る。
実際に名古屋の養鶏場のベテラン職員が「過去に一度だけ実際にそういう場面を目撃した」と言っているほど珍しいシーンを記憶して描いているのだ。
そういう意味からするとヤマセミは同属のカワセミあるいはその他の鶏や鴨類、小鳥等に比べてその絶対数が圧倒的に少ない野鳥だから、さすがの若冲もしっかりと観察して描くチャンスを持たなかったのだろう。

 http://2.bp.blogspot.com/-ghThvgMHvWo/VQTMhc8IdhI/AAAAAAAALQU/-CzOlwk-70A/s1600/%E8%8A%99%E8%93%89%E5%8F%8C%E9%B6%8F%E5%9B%B3%E3%83%BB%E4%BC%8A%E8%97%A4%E8%8B%A5%E5%86%B2.jpg
伊藤若冲・芙蓉双鶏図(部分) Googleフリー画像より 


要は何が言いたいかと言うと、他の誰もやらないことにチャレンジする、新領域を開拓するという事に無上の喜びを感ずるようになってしまったのだ。
野鳥を撮るにしても木々や岩の上に留まっている姿より空を飛んでいる所をフレームに納めたい、あるいは何か生態的に意味のある行動をしている場面を記録的に画像に収録したいと思うのだ。
鳥類図鑑のような接近して綺麗な写真を撮りたいとはあまり思わない。


このヴァン ヂャケット販売促進時代の内見会にまつわる仕事の数々は、そういう訳で自分の今在る姿のもっとも基本に成っている事を再確認させてくれた訳だ。


参考出典サイト・ VAN SITE= http://vansite.net/vansitemap.htm


                            ・・・・・・・・・to be continued



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