PAGE1 PAGE2 PAGE3 PAGE4 PAGE5 PAGE6 PAGE7 PAGE8
PAGE9 PAGE10 PAGE11
PAGE12
PAGE13
PAGE14
PAGE15
PAGE16
PAGE17

ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、
              一社員から観た石津謙介社長.その3.


一部の人は既に良く知っているとは思うが、石津謙介社長は美味いものには目が無かった。しかし、グルメの魯山人がどうしただの、オテル・ド・ミクニがどうしただのメディアの騒ぐグルメ話題にはトンと関心が無く、ご自分で造る料理に熱中し、工夫と自信を持っていた本物の料理好きだった。
ましてや食事用の器が上に乗っかる料理以上に騒がれたり、高く評価されるのは本末転倒だと仰っている事を聞いたことがある。


よくある消費一方の、食べるだけグルメではなかった。もちろん味には非常にうるさく、絶対音感のごとく天性の絶対味覚を持っていたと思われる。
高い食材を近代的に完備された厨房で料理するのは「誰にでも出来る当たり前の事」と考えていたらしい。


使い慣れ年季の入った伝統的な調理道具で基本レシピの料理を作り、伝統の味を壊さずにホンの少しだけ自分流の工夫・演出をするのが「粋」というものだと教わったことがある。

これはたまたま石津社長が販促部の部屋に突然現れて色々打ち合わせをした後で雑談になったときに沢山教わった。


「大酒呑みに優れたシェフ・料理人は居ない・・・」と言うのも石津社長の経験値から来る格言らしい。料理人は己の味覚の衰えを一番怖がるので、酔うなど考えられないという事、更には病気に成れば薬を飲むなどして、副作用で5感も鈍り味の微妙さを判断できないという事らしい。


何度もこれらの教えを頂いたものだが、ある時ラーメンの話になり、「何処か美味しいラーメン屋は無いか?」という事に成った。東京ではあまり良く判らないが九州の熊本市に美味しいラーメン屋があると話をした。

それを聴いた途端「熊本か!松野さんの所だな?」地方都市の名を聞くとまずそのエリアのお得意様の名前が堰を切ったように出てくる感じだった。
販売促進部の安達さんと同じくらい全国の得意先の名前と場所を理解されていたようだ。

で、この時は熊本交通センター(巨大なバスターミナル)地下街にある「こむらさき」というラーメン屋を紹介したのだった。
「こむらさき」は同じ名前のお店が鹿児島の中心街天文館の商店街にもあるが、別もので熊本のほうがはるかに美味しい。
鹿児島の「こむらさき」も豚骨ラーメンだが酒飲みが飲んだ後に締めで食べるような感じだった。

 http://1.bp.blogspot.com/-fbK0FE7Dn00/VRXxA8bZj8I/AAAAAAAALkc/ky_ks78rg4o/s1600/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E3%81%93%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D.jpg

http://www.komurasaki.com/ 


焦がしニンニクの香りの良さコクの濃さは熊本駅傍の「黒亭」と良い勝負。この熊本駅から近い「黒亭(こくてい)」は2001年全国高校総体くまもとを仕事で視察に行ったときに初めて食べて感激した。実は筆者はこれまでも現在も熊本ラーメンは1969年に新宿駅前に桂花ラーメンがオープンした時からのファンで変わらないが、実際熊本に行けば群雄割拠で美味しいラーメン店が山と在る・・・・って、此処で筆者がラーメン談義を始めてどうする?

 ramen_ten_1.jpg

  熊本駅近く「黒亭」の今昔 左2001年当時、右現在 Google 画像より


http://3.bp.blogspot.com/-o9PC_QqxxPo/VRXm8del2aI/AAAAAAAALkM/dPz9xCTb-CE/s1600/%E6%A1%82%E8%8A%B1%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3.jpg 

  新宿の桂花ラーメンは45年以上贔屓にしている。スープも熊本の本店より美味い。


それから1ヶ月ほど下ある日の昼下がり、突然デスクの女性が「新庄さん電話よ!」「誰から?」「ケンちゃん!」「えっ?ケンちゃんって誰?」「ばかねぇ社長よ、石津社長、早く出て!」

こんな会話の後受話器を取って「新庄ですが、」と言ったら、「美味いぞ!こむらさき、今松野さんと食べ終わった所だ!東京でこういう店があったら教えてくれ。」と言うではないか。筆者の話を聞いて熊本に行った際に想い出して交通センター地下まで行ったとみえる。まさかそのラーメン屋が第一の理由ではないと思うが・・・。


しかし今と違って携帯電話など影も形も無い時代、わざわざ美味しいからと食べた直後その店頭から電話を頂く等考えられない事だ。非常に義理堅い一面をお持ちの社長だった。一社員としては驚くと共に、たかが美味しいラーメン屋情報にも拘らずそれを信じて貰えた、実際に九州まで行ったと言う事自体に感激感動するばかりだった。

山中湖のヴァン雅楼で作っていただいたカレーには敵わないが、自分の社長に少しでも喜んで頂ければ一社員としてこんなに嬉しい事は無い。ヴァン ヂャケット倒産後数年経って世に出た浜崎伝助と社長のスーさんとの話「釣りバカ日誌」じゃないが、社長と一ヒラ社員とのコミュニケーションがまだ厳然と在った時代の話だ。

ちなみにその後、1984年に博報堂に入り、2003年頃から熊本県の仕事を幾つかするようになって、この交通センター地下のこむらさきへ数回行ってみたが、昔の美味さは既に無かった。熊本では味仙などチェーン店レベルでも結構な味を出すお店が在って、全国的に見てもラーメン文化は断然トップだろうと思う。(※なんと、そのセンター店もこの3月末で閉店となってしまうらしい。)

ラーメンの歴史と言えば1960年代末に新宿に桂花ラーメンがオープンしてから、それまで北海道ラーメン(ラーメン屋のメニューとしてより『札幌一番』などのインスタントラーメンが多かった)が主流だった東京で、豚骨スープの熊本ラーメン、博多の長浜ラーメン風が徐々に人気を博し始めた、筆者がヴァン ヂャケットにいた頃はちょうどそんな時期だった。

青山のヴァン ヂャケット本社界隈ではランチといえば夜は飲み屋になるお店の昼定食、あるいは青山ユアーズのカウンターで中学時代のクラスメートが作るスパゲッティ・カルボナーラ等が多かった。

お金が在る時は奮発して「鉄板焼肉のよしはし」などにも行ったが、それはごく稀な事だった。青山通りの裏手、アルファキュービック(今はもう移転して無いらしい)の道沿いに「とんかつ井泉」というお店が在って年中賑わっていた。

いつの間にか「まい泉」と言う屋号に変わっているが母体は同じか?
青山3丁目のヴァン ヂャケット本館対面にベルコモンズが出来て最上階のレストランにも度々行ったが、あまり長続きしなかった。
一方でキラー通りと呼ばれた外苑東通り沿いのスキーショップ・ジロー手前にクラシック調の喫茶店風レストランがあったがあまり美味しかったと言う印象は無い。

しかし少なくともヴァン ヂャケット社員は立ち食い蕎麦屋さんには行かなかったと思う。
「フーミン」とかいうぐちゃぐちゃに成った水餃子を出すお店も在ったがあまり好きではなかった。

こうした青山界隈でのヴァン ヂャケット社員の食事事情はこんなもんだったが、今一体どれだけ残って営業しているだろう。今度一度視て回ってレポートしたいと思う。全部無かったりして・・。




ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、
             一社員から観た石津謙介社長.その4.


石津謙介社長個人に関しては、倒産後筆者よりはるかに身近に居て、その人と成りを良く知っているミスターKent横田哲男氏が青春VAN日記に詳しく述べているので、筆者は数回で石津謙介社長個人とのコミュニケーション話は終わりたいと思う。

何度も繰り返すが石津謙介社長は大勢の前での立場と、相手が誰であれ1対1の場合では人が変わったように、そのポジションを明快に分けていた。

On dutyOff dutyとも少し違う。企業組織の長としての立場と服飾デザイナーとしての立場、公の社長としての立場と趣味人個人としての立場の使い分けとでも言おうか、非常にT・P・Oをわきまえたきめ細かい器用な方だった。

 http://2.bp.blogspot.com/-6FnzTxYpV0o/VRa73WPSl5I/AAAAAAAALkw/oF-LnGdfmbg/s1600/VAN%E6%9C%AC%E9%A4%A8%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD.jpg

  一度ビルの外装を綺麗にしたので末期の本館は真っ白いビルになっていた。


飲食・料理の話になると止まらなかったという事は前回述べたとおりだが、勿論ファッション・風俗に関しては徹夜もいとわぬ議論好きだった。

これはご本人から直接聴いた話だから間違いないが、表参道と青山通り国道246がぶつかる交差点、今は表参道交差点と呼ばれ、真下には地下鉄が3本交差する表参道駅が在る交通の要所だ。

その角のビルの屋上に当時大きな看板が立っていてDESCENTE(=スポーツウエア・デサント)のロゴ広告が出ていた。

 デサント看板.jpg
屋上の看板は本当はカタカナのデサントだったような気がする。これは合成画像。 


ヴァン ヂャケットの社員は、自分達は日本有数ファッション企業の社員だとの誇りと自負の念が在ったから、このデサントの看板はあまり気にしていなかった。
せいぜいスキーウエアだとかトレーニングの上下を造る会社程度の認識で通勤の途中このロゴ看板を見ていたものと思う。

しかし石津社長はその時周りに居た我々数名に向かってこう言われた。

「もう直ぐ男の子達はブレザーにネクタイ、あるいはセーターにダッフルコートでデートなんかしなくなるよ。あのデサントじゃないけれど、スポーツウエアにスニーカーでデートする様になるな。

皆も良くリサーチしておかないと大変な事になるぞ。」 

衝撃的だった。まじまじと石津社長の顔を見てしまったが、決して眼は笑っていなかった。


1977年4月に日本の若者達を変えたあの「雑誌ポパイ」が当時の平凡出版社から発売された。
1976年に数タイプの違う大きさ装丁で準備号が出された後、1977年4月10日付けの号から定期出版物になり、今までの常識を破ったアンアンと同じで月二回の発行だった。

雑誌としては週刊誌に次ぐサイクルで発行されるスピーディな情報アイテムになった。
それによりアメリカ西海岸のファッション・風俗・文化・生活ポリシーが、それまでの月刊誌の倍のスピードで一気に日本に入って来た。
その結果気が付いたらアッと言う間に西海岸のブランド、音楽、ライフスタイルがこの新しい雑誌ポパイと共に東京の街に満ち溢れていった。
ある意味ヴァン ヂャケットを倒産させた要因を挙げよ、と言われたら筆者はまず筆頭格にこの雑誌ポパイを上げる。しかし別に怨んでいないし悪いことだとも思わない。
当時は色々な要素が絡み合って、ちょうど世の中が変わる瞬間だったのだろうと思っている。

http://4.bp.blogspot.com/-lQGZDoGKC88/VRa8VivFfSI/AAAAAAAALlA/USrublAF7wo/s1600/POPEYE%E5%89%B5%E5%88%8A%E5%8F%B7.jpg 
1976年に数種類の違うポパイ創刊準備号が出たが
これは正真正銘最初のバージョン。
 


http://3.bp.blogspot.com/-E1BPXetwS3Y/VRa8ZIyRUPI/AAAAAAAALlI/8j54OADxU1o/s1600/anan%E5%89%B5%E5%88%8A%E5%8F%B7.jpg 
1970年大阪万博の時に創刊されたアンアン。ロンドン動物園のパンダの名前だった。
この本は倒産時の混乱でオレンジハウスのゴミ箱に捨ててあったものを
大切に持ち帰ったもの。



まさか倒産に至る程の自社の行く末を予測していた訳では無いだろうが、世の中の変化に敏感に気が付いていた石津社長の先を視る目はやはり鋭かった。
好むと好まざるに関わらず、この文化・風俗、そしてファッション界への新しい流れがヴァン ヂャケットを包み込むのに、そう長い時間は掛からなかった。


1977年4月10日号。事実上のレギュラー創刊号だ。

今表紙のイラストを描いた本森隆史氏は当時ヴァン ヂャケットの意匠室に所属していた。彼がアイスホッケーの社内大会用に描いた手描きの告知ポスターは奪い合いになるほどの人気を博していた。結果としてヴァン ヂャケット倒産のきっかけの1つ雑誌ポパイの表紙を描いたのが、他でもないヴァン ヂャケットの社員と言うのも因縁深い話だ。



こちらはレギュラー定期出版になった実質最初の号のポパイ。
これはちゃんと本屋さんで購入。
同期の内坂君が編集部員として活躍した大切な実質創刊号。
その後内坂君のおかげで幾度か編集に参加させていただき、雑誌編集のウラ舞台を勉強出来たのは非常に大きな経験だった。


ポパイという雑誌は発刊当初からアメリカ西海岸に限らず東海岸でのラルフ・ローレン、ポール・スチュアートなどの新しい都会型トラッド系ブランドの紹介を毎号繰り返し始めていた。

一方でそれに呼応してだろうか、原宿を中心にBeamsやShipsなどの高額少量多品種販売店が急速に人気を集め始めていた。
この文化・風俗、そしてファッション界への新しい流れがヴァン ヂャケットをも包み込むのに、そう長い時間は掛からなかった。


ヒタヒタと新しい潮が満ち始めて来ているのを、情報アンテナを沢山張ったヴァン ヂャケットの社員達は見逃さなかった。

特に企画から商品が完成するまで10ヶ月以上掛かるヴァン ヂャケットの従来型の生産システムで、これら早いサイクルで届く海外ファッション情報に付いて行くのは既に物理的に無理だった。
そういう事は特に社内のモノ造り・製作関連の部署の人間は当時痛いほど判っていたと思う。

既に石津社長自身も、各方面からの情報と独特の嗅覚でヴァン ヂャケットの行く末を悟っていたのではないだろうかと最近思う事が多い。



ヴァン ヂャケット倒産後、2ヶ月も経たない内にいち早く倒産を惜しむ追悼号とも言える特集を組んだのが雑誌ポパイだったのも非常に因縁深い。当時は非常に驚かされ大変複雑な気持ちになった。同時にメディアの変わり身の早さにも驚かされた。

 http://1.bp.blogspot.com/-Xk4lMnxrGu0/VRa8lxc4udI/AAAAAAAALlY/7Fim1wwoFpE/s1600/%E3%83%9D%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%BB%EF%BC%B6%EF%BC%A1%EF%BC%AE%E3%81%8C%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82.jpg
この号が出た時は「何でこんなに早く!」と、
まるで倒産するのを待っていたかのような早い特集に
正直少しムカついたのを覚えている。



話は少し外れるが、昔ヴァン ヂャケットの得意先で山口県の宇部市の繁華街にVAN取り扱いショップ「メンズショップOS」というお店が在った。
このお店にいたのが今のユニクロの柳井社長だ。彼も筆者と同じ1948年生まれの団塊世代のど真ん中の人間だ。早稲田大学卒と言うのもたった10日間ほどの在籍だったが筆者と同じでちょっと不気味。

この柳井正氏を博報堂に在職中2006年頃渋谷のマークシティに在った当時の本社に訪問し2時間ほど話しをした事があった。

社長室だろうと思われる部屋に通されて、同行者と共にファッションや団塊世代のこれからについて話しをしたが、決して自分からモノを言わない人だった。

色々な話、考えを相手に喋らせて、聴いていく中から情報を吸収し、自分なりの方向性を選ぶと言った感じで、会話の中にオリジナリティを感じることは無かった。きっと初めての人とは本気で話しをしないのだろう。

そういう意味では、常に独自性・ユニークさを追及したサービス精神の塊のような石津謙介社長とは真反対側の人間だと思った。

社長室・それに繋がる応接室自体も無味乾燥、よく言えばクール(決してカッコ良いという意味のCoolではなく)でモノクロのニューヨークらしい写真が幾つか飾ってあり、ごく初期のスターバックス・コーヒーショップ店内のようだった。

メキシコの大きな帽子ソンブレロからイタリア関係の数々の小物、木枠の額に入った英国のタータンマップ等が所狭しと飾られていた石津社長の社長室とはいささか・・・というより月とスッポンのような雰囲気だった。
同じアパレル業界の社長像としてもプロデューサー・デザイナーと完全ビジネスマンとの違いが如実に感じられた。

今後はVAN倒産へ向かって進む色々なエピソードを予定している。



                            ・・・・・・・・・to be continued



“VAN SITE” SALES PROMOTION DEPT STORY 12
Copyright IDEAKONA. All Rights Reserved.