ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その4。
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山中湖のヴァン ヂャケット保養施設う゛ぁん雅楼・別名モビーディックで、石津社長との夜更けのベランダ会話サロンは更に先へ進んだ。
色彩学の話から絵画と写真の話に進んでいった。
具象画と抽象画の好き嫌いの話から、ピカソの話まで。
石津社長の博識は想像をはるかに超えたエリアまで及んでいて、驚愕した事を覚えている。
ピカソの青の時代から晩年の時代まで、更に若い頃はお金を稼ぐためタロットカードの絵やレストランのメニュー等まで描いていたらしいとの話題など、筆者が知らない事まで良く知っておられた。
これは2005年に英国にエデンプロジェクトを訪れた際、帰りにパリに寄りピカソ美術館を訪れた際、これら本物を観る事が出来て、30年以上前の石津社長の話を実際に確認できた。
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2005年に訪れたパリのピカソ美術館、非常にシンプルな造りだった。 |
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割りに大きな絵が沢山あった。写真撮影可(一部不可) |
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ピカソが若い頃作ったレストランのメニュー |
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まだ長い改修に入る前のピカソ美術館 |
更には筆者が写真撮影好きで何故油絵を描かないかなどの理由等も質問された。
そこで大学時代の話をしてみた。国立大学の教育学部の美術専攻科はデザインだけとか油絵だけとかをやるわけには行かない。
一応美術の先生を育成するので、デッサン・水彩から始まって、油絵、工芸、彫塑、美術史、色彩学など多岐に渡る領域を浅く広く学ばねば成らなかった。
美術専門大学のように、得意ジャンルだけを深く集中して学んだり追求出来ないようになっていた・・・が、写真撮影に関してだけは教師も居ないし授業もまったく無かった。
筆者は1年ほど前のブログでも延べたが、油絵が大嫌いで生涯10枚も描いていない。特に人物に関しては一枚も描いていない。理由ははっきりとしている。人を描写する事が嫌いなのと二日間以上に渡って同じ絵を描き続けられないのだ。
緊張感と言うかモチベーションが長く続かないのだ。ひどい実話が残っている。
ある日油絵の授業の時、絵画室でモチーフを正面においてイーゼルを立て、自分で張ったキャンバスを置き、下描きから制作を進めていった・・・。
そうして3時間ほど描いて油を乾かしたり、昼食に行ったり、腰を伸ばしたりする。
そうして制作を続け日が暮れ、光が変わるころ横浜の丘の上から2時間半掛けて東京の自宅に戻る。
で、翌日再び絵画室に行って自分の絵を探すのだが、18時間前そのままの状態で置いて帰った「自分の絵」が自分で判らなかったのだ。
二日目絵画室に入ってもなかなか自分の席を見つけられず、クラスの仲間に指摘されて自分の席に着いた事があった。
しかしキャンバスの絵がとても自分のものとは思えなく、混乱した事があった。
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横国の絵画室はプレハブながら広くて明るかった。 |
つまり、モチーフを視てその時浮かんだインスピレーションが18時間経つと全然別のものに変わってしまう、前日のイメージが持たないって事だろう。
超刹那的・・というより物事に飽きっぽいのだ、それも恐ろしい程。
油絵の具は直ぐには簡単に乾かない。
こってりと絵の具を盛って描く人も居るが、元々非常にケチな性格の筆者は出来るだけオイルで油絵の具を薄く延ばして描くのが好きだった。
どちらが上だか判らない様な抽象画や人物画は大嫌いだったし、自分でも水彩画のような写実的な絵しか描かず、画家で言えば浅井忠やアンドリュー・ワイエスが大好きだった。
したがって、途中で作業を止めて油が乾くのを待つなどというのんびりした事はまず出来ない相談だった。その上、落ち着きが無い、直ぐに気が変わる、同じ事をやり続けることが出来ない性格はもう完全にビョーキの世界に近かった。
これは4箇所通った小学校の通信簿を見ればすぐに判る。
全ての担任が生活欄・性格欄に同じような内容を記入している。
反論する気も弁解する気もない。しかし短所は上手く活用すれば長所になる。
今までの人生それで突き進んできて失敗は無かったと思っている。
したがって、油絵は殆ど描けず、大学在学中は水彩中心に沢山風景画を描いた。
こういう性格のまま4年経って卒業近くになった頃、あの絵画の国領先生と小関先生が「シンジョウは油を描かない上、人物を一枚も描いていない、このまま卒業させて良いのだろうか?」と思ったらしい。
其処で、ある時「シンジョー君、油で人物を描かなければ単位を上げるわけには行かない。人物を描かないよっぽどの理由があるなら聞こうじゃないか?」と言われてしまった。
其処で、考えた。要は上野の美術学校を卒業した教授二人を説得できれば人物油絵を描かないでも卒業単位を貰える訳だ。筆者は迷わず無理して嫌いな事をするより、教授に名説得のほうを選んだ。
帰りの中央線快速電車の中でも考えた、考えすぎて3つ先の武蔵小金井まで行ってしまったほどだった。
翌日、絵画室に集まった2年生と3年生を入れて50名以上に膨れ上がった定期集会で、2人の教授を前に「シンジョーは何故油絵で人物を描かないのか?」プレゼンテーションをする事になった。
要は悪く言えば晒し者だ、しかし幾つもの小学校を転校して場数を踏んだ4年生シンジョー君は怯まなかった。前の日考えた自分なりの論理をご披露したのだった。
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無事卒業出来たようだ、しかし卒業式に来たのは同期の半分も居なかった。筆者左端。 |
約50名が注目する中、こう言った。
「人間を描くという事は被写体を作家のインスピレーションのフィルターを通して思うがまま現・再現するものと心得ます。
では、その人間という被写体が一番素晴らしいのはどういう時でしょうか?
私は人間が美しいのは大きな口を開けて馬鹿笑いをしている時、眼から涙をこぼしながら泣いている時、怒髪天を突くような怒りの時、つまり心の中から吹き出てくる己の感情を体をよじって表現している時だと思うのです。
しかし・・・・歴代の名画にそう云う絵が在るでしょうか?
せいぜい微かに微笑んで見えるモナリザくらいなものではないでしょうか?
これは、そのように人間が美しい瞬間!つまり感情をほとばしらせている瞬間を油絵では表現できないので、過去の名画には無いのだと思います。
モデルに笑い続けろだの、泣き続けろというのは不可能ですよね?
だから私はそういう瞬間を表現するには写真が一番適していると思うのです。
だからシンジョーは油で人物を描けないのです。」
此処まで一気に喋ったら、絵画室の殆どの学生が「そうだよな?」とどよめきながら拍手を始めてしまった。教授二人は「しょうがないなー」と言う顔で反論もしなかった。
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中学1級、高校2級の教師免許 |
・・・・この話を聞いた石津社長は大きくうなづきながらも「う~ん」と呻ってしまった。
で、出てきた言葉は「人物の場合は誰でも一緒じゃないだろう?描く相手に依りけりだよなー。ダ・ヴィンチだって美人のリザ・ジョコンド夫人が被写体じゃなかったら、あの傑作は生まれていなかったと思うよ。」
・・・・遠い夏の日の山中湖には、最後にとうとうモナリザまでが登場するのだった。
ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その5。
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この山中湖の夏の夜は長かったが、そろそろ東の空が白む午前3時には皆寝に入った。我々が翌朝起きた頃には既に石津社長は東京に向かって発った後だった。
しかし、生涯二度とない貴重な時間として今でも鮮明に記憶している。
これから暫くは山中湖のような特殊な場ではなく、ヴァン ヂャケット本社内での色々なエピソードを幾つか上げていこうと思う。青山三丁目の角、ヴァン ヂャケット本館の3階から7階に販売促進が引越しした後は6階社長室や宣伝部の部屋とは非常に近くなり、今まで以上に同じ7階にあった意匠室への出入りは頻繁になった。
この7階に上がった時、まだ隣に鈴屋ベルコモンズは出来ておらず、空き地になっていた。3階からでは出来なかった遊びに紙飛行機を飛ばして鈴屋ベルコモンズ予定地の空き地まで飛ばそうと競争したことがある。
それぞれが思い思いの形の紙飛行機を造って飛ばすわけだ。
7階の販促部の部屋から掛け声をかけながら一人ひとり道路の向こうまで届けとばかりに紙飛行機を飛ばしたのだが・・・・、外苑西通り、いわゆるキラー通りは意外に広かった。
一番効率の良い紙飛行機ですら向こう側の歩道にすら届かない有様だった。
そのうち赤い回転灯を回したパトカーが1階の喫茶店アゼリアの前に停まった。
窓から身を乗り出して下の様子を覗いていた池田裕氏が一言「やべ、上視てんぞ。」この一言で全員雲の子を散らすように部屋から出て行くのだった。
近所の誰か(まさか我社員じゃないとは思うが)が通報したと見えて、様子を見に来たらしかった。
その時は何処からも何事もお咎めはなかったが、もし部屋に軽部CAPや若林ヘッドが居たら只ではすまなかったろうと思う。いや先頭に立ってやっていたか?
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青山3丁目のもう一つのランドマークだったが取り壊される。 |
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紙飛行機は色々なタイプがある。 |
しかし、この本館7階での時期は非常に短く、販売促進部が大きくなりSP課、つまりセールスプロモーション課とSD課=スペースデザイン課に分かれる事になりスペースが手狭に成った結果、356別館の中二階の広々とした部屋に引っ越す事に成った。此処でのエピソードは数限りない。
最初のエピソード、ある雨の日10月も末の頃だったろうか、雨にも拘わらず殆ど部員は出払っていたが軽部キャップ他デスクの女子含めて数名が部屋で仕事をしていた。
読書家の軽部さんは何か難しい読み物をしていたか、ブレーンのような広告宣伝関係の雑誌を調べていたのだと思う。
隣のブロックに来て居た関連会社ラングラーの顔見知りのZ氏が新聞を広げて読んでいた。この時のやり取りは忘れようにも忘れられない。
その顔見知りZ氏が新聞の見出し「今年の稲作は空前の大豊作」を読んでこう言った。「ほう?今年はクウマエの大豊作・・・か。」
外の雨音も聴こえない静かな室内に一瞬の間が空いて、軽部さんが小さくつぶやいた。「馬鹿が、ウケようと思って・・・。」と、その次の瞬間だった。
新聞をバサッと閉じる音がすると同時にZ氏の「何が・・?」と言う声が少し大きく聴こえた。
それを聞いたこちらの回りの3人が思わず同時に「ひぇーっ?」と腰を上げてしまった。
「Zさん、それを言うならクウゼンでしょうが?」と言ったらZ氏本気で怒り始めてしまった。「クウゼン?何だそれは、クウマエだろう?どこが可笑しい?」と眼が据わっていた。
其処で、誰かが厚い広辞苑を開いて「空前」のページを開いてZ氏に見せた所、彼曰く「えーッ?本当だ!いつ変ったんだろ?」
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昔の新聞には「空前の~」という表現が多用されていた。 |
またまた或る時再びこのZ氏の話だが、これは人から聞いた話。
人は他人の言葉にどこまで惑わされるかと言う実験に近かったらしい。
これは現場に居たわけではないのでその醍醐味は直接感じられた訳ではないが、相当なものだったろうと思う。
その中味はこうだ。朝出社した時、最初にZ氏に出会った誰かがこう言うのだ。
「どうしたのZさん?調子悪いんだね、顔色真っ青だよ?」本人は至って元気で問題ないので「えー?そんな事無いよ、絶好調だよ!」と言ったものの内心少し気にする。
で、次に出逢った社員(勿論最初の人と示し合わせている)もこういう、
「どうしたの?徹夜?凄くやつれているよ、帰ったら?」これで本人は完全に動揺する。
最後のとどめは示し合わせた3人目がこう言う、「Zさん?どうしたの顔色真っ青だよ?無理しないで・・・・誰か呼ぶかい?」
連続して関係ない(本人はそう思っている)別々の3人に別々の場所で「顔色がおかしい」と言われると本当にそうなのかと思い始めてしまうらしい。
結局Z氏は一旦出社したものの、気になったのだろうか、気分が優れないと言ってその日の午後本当に早退してしまったそうだ。ちょっと残酷な話ではある。
こんな事もある。ある時ミニ・ボーイズ営業の仲の良い同期がデスクから余り動かない、外回りにも行こうとしない。
で、何でか訊いたら今日は同じ柄・同じ色のジャケットを着ている先輩が2人も居るから嫌だと言う。
出会うと後輩の自分がジャケットを脱がなければいけないので、仕事にならないという。
ヴァン ヂャケットの社内で全員が何らかの限られたヴァン ヂャケット製品のどれかを着ているのだから、鉢合わせくらいは在って当たり前だろう。
しかしこういうことはアパレル業界では日常茶飯事かもしれない。
・・・・・・・・・to be continued
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