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ヴァン ヂャケット社内でのエピソード その2。


ヴァン ヂャケット社内での数々のエピソードはKent営業の横田哲男氏の青春VAN日記に詳しいので、こちらは販売促進部内での事中心に幾つか拾ってみようと思う

入社して1年経つか経たない頃、人事部に配属された横国大同期の藤代君から石津社長のテレビ収録が山中湖のヴァンガローであるので参加するように連絡が来た。
どういうルートで行ったのか記憶は定かではない。

ひょっとすると往路は藤代氏の車に乗って行き、帰りは社長室秘書の戸沢さんのフェアレディに乗せられて戻ったのかもしれない。このフェアレディはマニュアル車で何度もエンストを起こし、何度もムチ打ちのようになったのを覚えている。それが車のせいなのか運転者のせいなのかは良く判らない。

石津社長の別荘でもあり、ヴァン ヂャケット社員が許可を得て利用できる保養施設のようにもなっているヴァンガローに到着してみると、既に石津社長ご夫妻が滞在されていた。
ご挨拶申し上げると、石津社長は既にVANMINIのキャンペーンの事をご存知で、最初の「妹のスミ子がお世話になっているらしいね?」と言って全てお見通しだよ?と到着早々プレッシャーを感じてしまった。
とにかく石津社長は細かい事を良く覚えていて、記憶力に関し彼以上の方を上げるとすると皇族様しか思い浮かばない。

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う゛ぁん雅楼とも書くらしいヴァンガロー  VAN SITEより

http://1.bp.blogspot.com/-9tO-FJxsxqE/VMLnpfHNSxI/AAAAAAAAKPg/m8XKA0ZtamQ/s1600/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%BF%EF%BC%90%EF%BC%91.jpg
う゛ぁん雅楼入口で、別名モビーディックとも呼ばれていた。人事の武宮さんと筆者。

私が知る限り皇族の方々は、お会いになった方の名前と顔、お会いになった理由を一瞬にして記憶する術を身に付けておいでだ。物凄い記憶力ですね?と故寛仁親王殿下にお話したら、事も無げに「これが私の仕事だから・・・」と仰ったのが昨日の事のように思い出される。石津社長は、ほぼ同レベルの記憶の持ち主だと思った。

その石津社長ご夫妻の一日だか別荘ライフだかを収録にテレビ局が来て居たのだと思うが、その仕事エリアには立ち入らないようにして、夜の食事とその後のベランダでの会話をご一緒させて頂いた。その様子も収録対象だったのか否かは、まったくを持って記憶に無い。

http://4.bp.blogspot.com/-AyVBtUCozpU/VMLoFgoZUfI/AAAAAAAAKPo/qOtxt0h-KdU/s1600/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%81%8C%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%BF%EF%BC%90%EF%BC%93.jpg
別の機会に販売促進部全員で訪れた際のリビング

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ダイニングでくつろぐ軽部CAP


石津社長がキッチンで玉葱を炒める所から収録があった。我々の居る居間にまで流れ込むその香ばしい匂いがまだ脳裏に残っている。
玉葱を何度も混ぜながら、本当は一晩置いたほうが良いんだ・・・。と解説をされたのを覚えている。
数時間経って完成したお手製のカレーをご馳走になった。未だにあのカレー以上のモノには出逢えていない。インドカレーのマハラジャ、だろうがデリー、だろうが、北海道のスープカレーだろうが味の奥行きが違うように感ずる、ナンではなく黄色いプラオライス(あるいはサフランライス)だったと思うが、お代わりした記憶がある。


カレーと言えば誰もが「自分はカレーに関してはちょっとうるさいよ?」とお思いだろう。
ラーメンとカレーに関しては日本人だもの、各人好みがはっきりとしていて、うんちくを喋らせたり、何処其処が美味い・・・と語らせたら話も尽きまい。
良く雑誌やテレビのワイド番組で行っているようだが、こういうものに順位付けをする程愚かな事は無いと思っている。


改めて、ラーメンとカレーに関してはページを割いて自分なりの論評を述べてみたいとは思っているが、此処では触れない。
此処では今迄で一番辛かったカレーの話をしよう。それは雑誌オリーブの取材で覚えたハワイ・オアフ島のキング通りの「インディアハウス」というカレー屋さんに行った時の話だった。
この時は雑誌の取材ではなく、ウインドサーフィンJAPANという会社の小冊子の撮影で行った時だったか、別の機会だったと思う。

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雑誌オリーブ創刊2号のハワイ・ウインドサーフィン特集号で取材したホノルルのインディアハウスの記事。このときが初めてだったが、その後8回ほど行っているが、今どうなっているか判らない。
                                    ※雑誌オリーブの記事より出典。

飯塚君というスポーツ万能の若手ウインドサーファーと、英国で立身出世した中嶋君と言うウインドサーフィンJAPAN社のプロデューサーと他に、そもそもそのインディアハウスを教えてくれた雑誌ポパイの内坂氏と計4名で行ったと記憶している。
そこでこの冒険者4名は「とにかく辛いカレーを食べてみたい」とお店のマスターにリクエストしたのだった。このマスターはその昔佐藤栄作首相のお抱えカレー専門コックで、首相邸でのガーデンパーティ等では必ず呼ばれて腕を振るったと言う事らしい。
ハワイに来るたびに既に幾度も訪れていたので数年前から顔なじみになっていた。
勿論普通に頼んでも、美味しさは抜群で未だに自分の好みのベスト3に入るお店だ。

このマスターに「超辛いカレーを!是非」とお願いして食べた様子は二度と忘れられない。
皆、一口食べた瞬間「アッ、美味しいじゃん?余り辛く・・・・・」までしかモノを言えなかった。

次の瞬間全員無口になり、飯塚君はトイレ直行、残りの3名も最初の一口を飲み込むのに数分掛かった記憶がある。暫くして、マスターが「大丈夫か?充分辛いか?」と訊いて来た。頼んだ以上見得があるのだろう、全員親指を立てながらGOOD!の合図を送ったが実態はそんなものではなかった。

その辛さはいつもの5倍ほどの水を飲みながらやっとの事で胃袋に流し込むのがやっとだった。後で訊いたら、昔からあるインド伝統のレシピで、上から3番目の辛さだと言う。本人は辛すぎて一度も食べた事が無いと言う物凄い代物だった。



話を戻そう。

ダイニングに皆が揃って食事をしたと思うのだが、その場には石津社長は参加せず別室でテレビ収録をされていたのだと思う。しかしその番組自体を観た記憶が無いので雑誌だったのかもしれない。撮影取材が終わって、ベランダに出てデッキチェアーに腰を掛けながらの食後の話が長かった。この夜話で得た事は今日に至るまで自分にとっての非常に大きな宝となっている。もう話題性ナンバーワン企業の社長と新入社員という立場は何処にも無く、凝り性人間達の会話サロンと化していた。

まず口火を切ったのは石津社長だった。

「今、君達若者は何に一番興味を持っているの?ヴァン ヂャケットに入社して早く一人前に成るとか、そういうんじゃなくて、下世話な事でも良いんだが・・。」
人事の藤代氏、武宮氏も居た筈だが、利口な彼らは直ぐには口を開かなかったと思う。

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VAN SITE主宰者、横国大同期の藤代氏と。大きな籐製のハンギングチェアで。

こちらは、直ぐに反応してしまい、あの最初の会社訪問の時の話の続きをした。
「実は卒論制作のため英国で調査をしたら青・ブルーに色々な種類が存在し名前が付いているのに対し、日本には茶系に色々なバリエーションが在って色んな名前が付いている、これが不思議で・・。」と一気に色に関するテーマを話してみた。

石津社長はそれを聞くとデッキチェアーから身を起こし、「それは面白いね!実に面白い」とニコニコ顔で座りなおすのだった。その夜はそれからが長かった。





ヴァン ヂャケット社内でのエピソード その3。


石津社長の話の要旨は、日本と英国のバックボーンが歴史の長さ、島国、皇族の存在等で似てはいるものの、第2次世界大戦の戦勝国と敗戦国の差、アルファベット文化と漢字ひらがな文化の違いなどを説明してくださった。

しかし色の種類の差の究極は英国人が海洋・肉食・狩猟民族であるのに対し、日本人が農耕・草食民族である事の差ではないかと熱心に論じられていた。

考えてみれば納得尽くめだった、海老茶など100種以上の色和名があるのに対して、青系は50色ほどだ、一方英名の色名は逆転しブルー系に非常の多くの名前が存在する。しかし伝統色そのもののネーミングは日本のほうが英国の倍以上あり、如何に日本人が繊細な民俗化が良く判る。これはGoogle検索などで日本の伝統色一覧、英国の伝統色一覧を見比べると一目瞭然だ。

その後、引き続いて会社訪問の自己紹介の際に述べた大学の卒論テーマを覚えていたと見え、「生活環境の相違による色彩感覚の相違について」という内容に関して説明するように求められた。
これには感激してしまい、調子に乗ってそうとう夜が更けるまでこの話をさせていただいた。

筆者は、横浜国立大学教育学部・中学校教員養成課程・美術専攻科を卒業するに当って皆が卒論代わりに制作提出する「卒業制作作品」ではなく卒業論文を提出し合格して卒業した。
73年当時まで美術専攻科において卒論提出で出た者は誰も居なかったので、初めてのケースだったはず。その後も皆が卒業制作で出たのであれば、未だに教務課にはたった1冊だけ40年前の筆者の卒論がポツンと保存されているはずだ。


卒業制作作品として写真作品を提出しても良かったのだが、まだまだ油絵など「絵画」中心の美術専攻科だったし、写真関係の専門家の先生が一人も居なかったのでお話にならなかった。

卒論で出た理由は、当時の教授陣が誰一人卒論を評価したことがなかったのを狙ったという理由もあった。それと、やはり団塊世代の特徴として「人と同じ事をしていてはダメだ。人とは違う道を進むべき・・。」との戦略に忠実に則った訳だ。

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一応卒業制作展には3点出展したが、全て請われて他人の手に渡ってしまった。なんと1枚は教授の一人に欲しいと言われ差し上げてしまった。


本筋に入ろう。


卒論のテーマは前にも出たが「生活環境の相違による色彩感覚の相違について」という一見まじめで難しい内容だが、非常に単純な誰もが抱くであろう外国人と日本人の色彩感覚の違いについての実験的比較なのだ。

論文にはいわゆる「起承転結」があって、①テーマの動機、②事実の羅列、③自分の分析、④結論 などの展開で構成されるが、その最初の「テーマを選んだ動機」という所からしてふざけているとしか取られかねない内容だった。

その動機とは「外人の婆さんは何故あんなに派手なのに、日本人の婆さんは地味なのだろう?」という事なのだ勿論最初にこれを見た色彩学の三浦教授はジーッと私の目を見てこういった。「これは一体どういう冗談なのかね?」

上野の美術学校、つまり今の東京芸大卒でないと一人前に扱ってもらえないという、古い体質の美術界の生き残りの教授なので、どこと無く「お前ごときが色彩学などに首を突っ込む等とんでもない、100年早いんだよ!」と言われているような気がしてならなかった。



実際、この卒論はこの三浦教授だけの審査・判断であれば通らなかったろうと思う。
しかし、桑沢デザイン専門学校の講師も兼ねているデザイン担当の真鍋一男教授や油の国領教授、ジョン・レノンに会わせてくれた彫塑の安田正三郎教授が応援してくれたらしい。
中味の出来不出来など評価より、卒業制作さえ書けば簡単に通るところ、ワザワザ英国まで行って色々調査し研究して面倒くさい卒業論文にチャレンジした初めての美術専攻科の学生だから尊重してやろう・・・のノリだったのではないだろうか?

いわば、最近MBLから表彰された野茂英雄投手のような状態だったのではないかと思っている。

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外国のおばあさん達、ファッショナブルで色も派手。
伝統的な民族衣装はこの際考えない。

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日本のおばあさんたちは目立たないように地味な色が圧倒的。
これが不思議だった。



実際その後、学生が沢山居るところでその「外人の婆さんが何故派手で、日本人の婆さんが何故地味なのか?」というテーマの解説をしなければ成らなかった。石津謙介社長もまったく同じ感じで解説・説明を求めてきた訳だ。


結論を先に言ってしまうと、その答えは「眼の色が違うから」という一見ふざけたような信じられない理由だったのだ。要はメラニン色素の多い少ないという事だった。



このブログで余り深くこの部分を解説する気はないが、各国の国旗を想像していただくと、大体筆者が言わんとする所が判って頂けると思う。

北国スウェーデン、あるいは南半球のアルゼンチン等は太陽が低く季節による太陽光の照射時間も少ない。一方で南北回帰線に挟まれたエリア赤道直下のエクアドル、コロンビア、ケニア、ジャマイカ等は真上からの太陽で光も非常に強い。

白砂の海岸等では更の事。で、スウェーデンとジャマイカの国旗を比べて欲しい。
パステル調のスウェーデン、アルゼンチンなどの国旗と原色のコロンビア、一見冴えないジャマイカの国旗。これをそれぞれ薄暗い北欧や熱帯直下の砂浜など屋外でかざしてみて見ると良く判るはずだ。要は彩度とコントラストの関係でそれぞれの地域でそれぞれの国旗が判りやすくデザインされ色が決められていると思って良いだろう。

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左:スウェーデンとアルゼンチン 右:ケニヤとベネズエラ、国旗


もっと判りやすいのは北欧・西洋人は赤道エリア、あるいは中緯度エリアに行けばサングラスをかけなければハレーションを起こし景色が見えにくくなると言う。
逆に熱帯エリアの人々は北欧等に行ってもサングラス等は掛けない。

これら全て人種的、先天的なメラニン色素の量で色に対する認識の差が生まれていると言う事なのだ。もうこれは美術の領域ではなく人間生理学の領域になるだろう。


石津社長の反応は相当真剣なものだった。

訊きながら既に頭の中で自社製品とマーケティングに関する何かが動き出していたのかもしれない。



                            ・・・・・・・・・to be continued



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