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ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目で海外出張.その4
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ナッシュビルは南北戦争終了の頃には中西部でも結構な大都会だったようで、其の名残が町の中心部ブロードウエイ(と言ってもホンの500mしかない)に残っている。今は其の殆どがカントリーミュージック関連のお店とナッシュビル土産のお店になっている。
1975年当時は今よりはるかに開拓時代の面影が残る古い建物が多く、高いビル等ひとつも無くてナッシュビルに来る途中立ち寄ったミズーリ州のスプリングフィールドの中心部に良く似ていた。今は双方とも近代的な高層ビルが林立していて俯瞰で撮影するとそちらの新しい高層ビルの方が目立ってしまう感じだ。
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ネオンが点くころのブロードウエイは知らないが町並みは変わらないようだ。
Google画像 |
ネオンが点くころのブロードウエイは知らないが町並みは変わらないようだ。Google画像
このナッシュビルでの2日間、実は1日は此処まで同行してくれた成田さん、若林さんの弟さんとゴルフをやる事に成っていた。
しかし初日中心部で見つけたレコード屋に筆者の心は釘付け状態に成ってしまっていた。
で、後生だから1日このレコードショップでレコードを選ばせて欲しいと若林ヘッドに懇願した。
朝、レコード屋の店頭に車から落としてもらい、夕方ゴルフが終了後ピックアップしてもらう事にした。若林ヘッドからは「何ていう奴だお前は!お前みたいな変わり者、見た事無い!」と言われてしまったが、心は堅かった。
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40年前の記憶だと道路の反対側で平屋だったような気がするが、自分の過去の記憶が色々な部分で左右逆の事が多いので、この通りなのだろうと思う。
反対側に移転したのかもしれない。 |
40年前の記憶だと道路の反対側で平屋だったような気がするが、自分の過去の記憶が色々な部分で左右逆の事が多いので、この通りなのだろうと思う。反対側に移転したのかもしれない。
何故って、日本のレコードコレクターの間では当時でも1万円以上もする超貴重盤が沢山在って、何と1枚99セントなのだ。
当時の価値で米国1$は日本円で270円程度だったから、99セントといえば250円くらいって事?つまりは相場の40分の1で手に入ったという事。
しかもニューヨークやロサンゼルスのレコード店では探しても、新品はまず絶対に見つからない代物達。
ナッシュビルという田舎の大都会だったからこそ、同時にC&W音楽が主産業の一部だったからこそビニールを被った手付かずの新品在庫が残っていたのだ!
此れを神様のお導きといわずに何と言おう?
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| コレクターズアイテムの中でも特に女性ボーカルグループは特別のファンが多い。 |
正直、一日居座ったLawrence & Brothers Record Shopのオーナーや店員さんたちも筆者が選ぶレコードのアーティスト(C&W歌手ではなかった)を殆ど知らなかった様だ。
こちらが昼休みに一緒のランチのホットドッグをサービスされた際の会話で何故オールディズ・レコードを漁っているか説明したほどだった。
遠い東洋からやってきたウエスタンスタイルの格好をした若者が、終日店内でレコードを漁っているというのは彼等からしてみても、さぞ不気味な存在だったろうと思う。
立場を代えて考えれば判って頂けよう。片言の日本語を喋る金髪の若者が着物を着て下駄履いて、日本のレコード屋さんで演歌のレコードを片っ端から感激しながら選んでいるのと同じ、だから彼等からすればもう完全にビョーキに見えたのではないかと思う。
お昼のホットドッグは店のオーナーの驕りだった。
あまり根つめて選ぶものだから気の毒に思ったのかもしれない。
大きなマグカップに薄めのアメリカン・コーヒーと、どう考えても日本の倍の大きさはあろうという大きなホットドッグに、これまた大きめのサイコロ状のオニオンがボロボロこぼれんばかりに乗っかっていた。最初は食べきれまい?とタカをくくっていた彼らだったが、江戸へ戻れば筆者はアイスホッケーのフォワードだよ?
アッと言う間に平らげ、更に勧められた半分もペロリと食べてしまった。
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パンも美味しかったが、実は中に入っていたでかいソーセージのなんと言う美味しさよ!
此れじゃ日本が戦争に負ける訳だ・・・と思わざるを得なかった。 |
半分冗談だが今回の米国ツアーで「日本が米国相手の戦争に負けた訳」が判ったように思える事が幾度も在った・・というより、米国という国をもっとよく知っていたら絶対に戦おうなどとは思わなかっただろうにと思った。
それほど色々な文化や常識が違う国だったのだ、たかだか建国200年のアメリカ合衆国なのに。
しかしアメリカのコーヒーはあまり美味しいとは思わなかった。最初にセントルイスでコーヒーを飲んだ時に思わず「何だ此れ?薄くて味がしない」といった途端、若林ヘッドの顔色が変わったのを見逃さなかった。
自分の大好きなアメリカを馬鹿にされたと思ったのだろうか?でも人間の味覚は千差万別だ、好みというものは皆異なる。
あのローマの空港で生まれて初めて飲んだエスプレッソの感激とは全然違う只のお湯のようなコーヒーに思えてしまったのだから仕方ないだろう?
若林ヘッドは暫く口をきいてくれなかった。
結局、Lawrence & Brothers Record Shopには1日半居座って、結局100枚以上のレコードを購入した。
船便で我が家に送る段取りをしたら、後20枚おまけで好きなのを選んで良いから・・・と言う。もう大喜びで泣く泣く捨てた30枚の中から20枚を復活させ同梱した。
計120枚のコレクターズ・アイテムのレコードは1ヵ月後に東京の三鷹の我が家に届いたのだった。
あれから40年!綾小路きみまろじゃないが、ネット上、YouTubeにLawrence & Brothers Record Shopを見つけたときの驚きと感動は半端ではなかった。
「&Brothersが消えてはいるが、当時のままの店内、雰囲気。インターネットのおかげでお金では買えない悦びを得ることが出来た。 https://www.youtube.com/watch?v=k8Z0Q-ZmIhM
この親切なお店に少しでも恩返しをしようと日本のレコード屋さんにこの貴重なお店を紹介した事があった。
静岡が本社のレコードショップ・チェーン「すみや」が渋谷に出先の事務所を持っていた。
当時ちょうど其処の1フロア上に在った歯医者に通っていたので、時々其の事務所に顔を出し、レコードバーゲンの手伝いを行っていた。
横浜の岡田屋(現モアーズ)のお店などでバーゲンを行う前日に、品揃えや値札マークを付ける手伝いをする事で、珍しいレコード取り置きリーチをさせてもらっていたのだった。
値付けに関してもあまりに安すぎたり高すぎたりするモノは変更のアドバイスをしていた。
で、其処の社長にこのナッシュビルの宝の山を紹介したら、なんと暫くして現地に出張し、お店の裏の倉庫の在庫を殆ど買ってしまったらしい。
2000年以降会社の事業体が変わり一時はナスダックに上場していたけれどいつの間にか廃業したようだ。この「すみや」とのお話はまたいずれ詳しくしよう。
半年して御礼なのだろう、Lawrence & Brothers Record Shopからレコードが沢山届いたが全てC&Wのレコードだったので全て感謝をこめて若林ヘッドに進呈してしまった。あの時無理やりゴルフに付き合わされていたら、正直人生少し変わってしまっていたと思う。
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コレクターズ・アイテムの中でも結構高値になっているフィル・スペクター系、
500ドル以上。 |
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同じ頃の女子ボーカルグループ系、此れもマイナーレーベルで貴重盤 |
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真ん中のシフォンズ、「He's So Fine」は後にBeatlesのGeorge Harrisonが「My Sweet road」で殆ど同じメロディを使用した為裁判になった原曲。
このブログを書くので調べたら右端のシフォンズ現在何と1枚400ドルもしていて驚いた。
以上全て現存コレクション。 |
このナッシュビルで購入したレコードの中で一番の成果はフィル・スペクター・レーベルのThe Ronnetes, The Crystals, その他女性ボーカルグループDixy
Cups,The Chiffons,その他The Four Seasons,
Peter&Gordon,Lesly Gore など日本ではオリジナルはなかなか手に入らないものばかりだった。

ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目で海外出張.その5.
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このレコード屋に張り付いて頑張った夜は、それまでのナッシュビル中心部のライマン教会に代わり1年前新しく出来た会場(=グランド・オール・オプリー・ハウス)であの有名なC&Wミュージック・ライブショウ「グランド・オール・オプリー(=The Grand Ole Opry)」を観に行った・・・というより参加しに行った。」
この模様はメンズクラブ#171号(1975年10月号)に筆者がレポートを5ページに渡り掲載したので「団塊世代」の方であればご覧になった方も居るかもしれない。
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| 生まれて初めて雑誌に寄稿した、メンズクラブ171号。1975年10月号。 |
このグランド・オール・オプリーは1925年11月28日からナッシュビルのAMラジオ局WSMで放送開始され、現在でも続いているアメリカ最古のC&Wソングのライブ番組。
この出張時は前・後半のステージの前半、なんとバックステージから観る事が出来たのだ。
CMAの計らいで関係者指定席を頂いたものの、もっとC&Wミュージックを知ってほしいとバックステージに上げられたのだった。
有名だろう歌手の子供さん等もステージ上のセットの椅子に座って親が歌っているのを聴いていた。
其のうちの一人が手にソフトクリームを持ったままステージ上を走り回った挙句、ビッターン!と派手に転んで満員の観客が大喜びしたのを目の前で観る事が出来た。
要はC&Wミュージックはアットホームで和気合い合いなのだ。
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Grand ole opryのバックステージから名物。
ロイ・エイカフのフィドロ(=バイオリン)を顎に乗せる妙技を撮影。向こう側は観客席。
生涯の思い出になった。 |
このバックステージに居る時に、司会者が満員の観客席に向かって「ニュージャージー州から来た人居るぅ?」と訊くと、ワーッと其の一団が総立ちで騒ぐ。
また「オレゴン州から来た人は?」と訊くと其の一団がワーッと騒ぐ。
で、UK(英国)は?フランスは?と訊いた後、「JAPAN?」と訊くので若林ヘッドと2名でバックステージから「ハーイ!」とやったらステージ上の皆が前に出ろ出ろ!といって2人ともステージのど真ん中に押し出されてしまった。
司会者が日本の何処から?と訊くので若林ヘッドが「東京からこの素晴らしいグランド・オール・オプリーを日本人に紹介する為に来た!」と流暢な英語で話し、満場の大拍手を貰ったのだった。
つまり立派に今回の出張は日米国際親善を達したわけだ。
其の事を石津社長に報告したか否かは定かでない。
返す返すも其の時VANのロゴを観客席に向かって掲げなかったのが失敗だった・・・・てそりゃ無理か?
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帰国後メンズクラブ171号に執筆・レポートした記事にも載せたステージの様子。
ブルーのスーツでフィドロを弾きながら唄っているのがロイ・エイカフ |
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これらの模様はメンズクラブ#171号(1975年10月号)に掲載したとおりだがこのブログ上でも其の一部を画像紹介しよう。
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雑誌メンズクラブのナッシュビル特集・扉ページ実際の行程と矢印は違っているがこの方が判り易かったのだろう。
まるで雑誌に後で執筆するのを予測していたかのように看板等を撮影していた。 |
このナッシュビルからネバダ州のフェニックス・スコッツディール、ラスベガスに飛んで更に色々な体験をした。
まず砂漠の真ん中のスコッツディールではあまりの暑さに商店街の通路の上に庇のある場所から一歩も出られなかったことを想い出す。こういう場所でのテンガロンハットやソンブレロ等のツバの広い帽子の必要意味が非常に良く判った。
ピナクルピークという場所に有名なステーキ屋があり、其の天井に世界中から来たお客のネクタイが切り取られてぶら下がっている。
お客は皆其の事を知っていてわざわざネクタイ着用でお店に来て切って貰うのを誇りにしている。名刺をつけて天井から下げるのだが果たして我々2名のネクタイがまだ在るか否かは判らない。
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| 遠くにフェニックスの都会の灯を望みながらの夕焼け。サボテンがいかにも西部だった。 |
次の晩はフェニックスの有名なローストビーフ(プライメア・リブとも称する)屋に連れて行ったもらったが、回転灯を回したパトカーが数台止まっていてお店は数分前に閉店になったらしい。
何でも店で客の一人が銃で撃たれて病院に担ぎ込まれたらしい。
其の直後だったのだ。まるでアメリカのTV番組そのままのような現場に遭遇してしまった訳だ。正直この時ばかりはちょっと驚いた。
ラスベガスに移動した後はホテルのディナーショウを観る事になっていた。
此処で知ったのが、いわゆるミュージシャンには踊って会話で笑わせて唄も上手いというお客を楽しませ飽きさせないエンターテイナーというタイプと、あくまでレコードの売り上げと少しのライブ演奏がメインというレコーディング・アーティストという2種類のタイプに分けられていて、アメリカでは前者のエンターテイナーが尊敬されているという事だった。
芸能人としてもエンターテイオナーの方が地位が高かったらしい。
前者の筆頭がサミー・デイビス・ジュニア、ジーン・ケリーなどで後者の筆頭がエルビス・プレスリーだろう。
マイケル・ジャクソンがヒット曲以上に評価されているのもこの点がポイントかもしれない。
この時のディナーショウは前座がオリビア・ニュートン・ジョン、メイン(トリ)がSmothers
Brothers(=スモーザース・ブラザース(窒息兄弟)という全然知らないコメディアン音楽師だった。
何でも「Colorfull
Black」などという日本語でも判りそうな冗談・ギャグを持っているらしい。「色彩豊かな真っ黒?」って事なのだろう。確かレコードも出ていたような気がする。
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| カントリー・ソングで出てきたオリビア・ニュートン・ジョンだった。 |
このラスベガスでは生まれて初めてルーレットをお金を掛けてやってみた。
ラスベガスの空港へ行く直前、バス待ちの20分を使ってやったのだが、細かい数字には賭けず黒か赤か、上半分か下半分かという大雑把な賭け方だった。
事前に見物していた時の確率を覚えていて賭けたのだが、何と15分間に200ドルも儲かってしまった。
驚いたのはチップがプラスティックのカラフルなチップではなくアイゼンハワーの横顔が描かれたあの重たい1ドル銀貨だった。あんなものポケットに入れて歩いたら直ぐに穴があくだろう?
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| だから全米の1ドル銀貨は殆どがラスベガスに集まっているらしい。換金してバス停で待ち合わせた若林ヘッドと集合した際この話をしたらムスッとしてしまった。スッたらしい。 |
確か其の次のロサンゼルスの夕食代をご馳走したような覚えがあるが定かではない。
LAでは星条旗がデザインされたアルミの大きなトランクを買い入れ荷物を1つにまとめたが空港でオーバーチャージを徴収された記憶がある。
このLAで初めてタワーレコードというレコード屋さんに入った。
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LAのタワーレコード。まだ日本には進出していなかった。 |
サンセット大通りの丘の中腹にあってさほど大きなお店ではなかったが黄色に赤のロゴは印象深かった。近所にジョニー・リヴァースで超有名になったWhisky A GO GOが在ったのを覚えている。
オーガニック、つまり菜食主義専門のお店があちこちに出来始めていて印象的だった。
・・・・・・・・・to be continued
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