PAGE1 PAGE2 PAGE3 PAGE4 PAGE5 PAGE6 PAGE7 PAGE8 PAGE9 PAGE10
PAGE11 PAGE12 PAGE13 PAGE14 PAGE15 PAGE16 PAGE17 PAGE18 PAGE19 PAGE20
PAGE21 PAGE22 PAGE23 PAGE24 PAGE25
PAGE26
PAGE27
PAGE28
PAGE29
PAGE30
PAGE31
PAGE32
PAGE33
PAGE34
PAGE35
PAGE36
PAGE37
PAGE38
PAGE39
PAGE40
PAGE41
PAGE42
PAGE43
PAGE44
PAGE45
PAGE46
PAGE47
PAGE48
PAGE49
PAGE50
PAGE51
PAGE52
PAGE53
PAGE54
PAGE55
PAGE56
PAGE57
PAGE58
PAGE59
PAGE60
PAGE61
PAGE62
PAGE63
PAGE64
PAGE65
PAGE66
PAGE67
PAGE68
PAGE69
PAGE70
PAGE71
PAGE72
PAGE73
PAGE74
PAGE75
PAGE76
PAGE77
PAGE78
PAGE79
PAGE80
PAGE81
PAGE82
PAGE83
PAGE84
PAGE85
PAGE86
PAGE87
PAGE88
PAGE89
PAGE90
PAGE91
PAGE92
PAGE93
PAGE94
PAGE95
PAGE96
PAGE97
PAGE98
PAGE99
PAGE100


青春VAN日記49

新宿三越の巻 その11 <VAN外篇>  

 前号で旧制高校の話を書いていたら、自分でも無性に青春時代を思い出し、甘酸っぱい記憶が蘇って来てしまいました。話が横道にそれる事をおゆるしください。

「青春とは、明るい、華やかな、生気に満ちたものであろうか。それとも、もっとうらぶれて、陰鬱な、仰圧されたものであろうか。」

これは、私が学生時代に愛読していた北杜夫氏の「どくとるマンボウ青春記」の書き出しである。
・・・むろん、さまざまな青春があろう、ひとそれぞれ、時代に応じ、いろんな環境によって。 ともあれ、今こうしてパソコンに向かっている私は、もうじき60歳になる、60歳、かつてその響きをいかほど軽蔑したことであろう。60歳、そんなものは大半は腹のでっぱった動脈硬化症で、この世にとって無益な邪魔者で、よく臆面もなく生きていやがるな、と思ったものである。まさか、自分がそんな年齢になるとは考えてもみなかった。」

・・・だのに、もうすぐ60歳である。嗚呼一睡の夢!

今はもはや若からぬ私が、管理人から当H・Pの「青春VAN日記」の連載を依頼されたとき、“青春”と聞いてすぐさま連想したのは、母校の校庭にある“稲荷山”に寝転んで、青空に浮かぶ白い雲を眺めていた、高校時代の自分の姿である。

私が通っていたのは、群馬県立太田高校。

関東平野の北辺に位置し、明治の学制で設立された、元・旧制中学である。
明治の歌人、土井晩翠の校歌を戴き、質実剛健・文武両道を唱える、明治の気風をいまに伝える、昨今珍しい、野郎ばかりの“バンカラ”高校でした。

(蛮カラ=ハイカラをもじった語、みなりや言動が粗野なこと。)

先輩の卒業生には、現群馬県知事の大沢氏、太田市長の清水氏。同級生には現大泉町長の長谷川洋氏、(前号の写真に写っています。)三洋電機再建の田端氏(東大)がいます。

当時、神戸の灘高の校長が本校OBで、兄弟校でありました。

今でも思い出すのは、古い木造校舎のトイレの壁に書いてあった“落書き”。

「朝顔の 淵に漏らすな 芋の露  ・・・詠み人知らず」

「雪隠にて 神に見放された者は 自らの手で 運をつかめ 
        ・・キンタマ・シッタルダ」
・・・わかるかなあ!

うーん、さすがは太高生、と当時納得しきりだったものです。

先生達も素晴らしかった。

当時、万葉集の吾妻歌で日本の権威だった、細谷先生の授業中のこと、

(先生は、目が御不自由だった。)

私は、放送部員で古文を読むのが上手かったので、いつも授業で教科書を読まされていた。

あるとき突然授業中に、震度5ぐらいの大きな地震があった。悪ガキの生徒たちは「ぎゃ−、助けてくれ、死ぬー、」と大騒ぎ。
細谷先生は驚いて、「横田!いったいどうしたのだ!何があったのだ!」「先生!大変です。天井から物が落ちてきたり、壁が崩れたり、大変なことになっています。けが人もいるようです。」

「それは大変だ! 即刻、授業は中止とする。 解散!」と職員室に戻られてしまった。

「やったー! 自習だ!」

(実は、大したことはなく、被害など無かったのです。)

その後先生からは、なんのおとがめもなく、単位を落とす事もありませんでしたが、先生、本当に申し訳ありませんでした。

学校の近所で、飼い猫や犬がいなくなり、騒ぎになったことがありました。

すいません。生物部の桑原君が解剖実験で使ってしまいました。

水泳の時間に“いんきん”にかかるものが続出した。原因は水泳部から借りた競泳パンツだった。すいません。森下水泳部長が、洗濯をサボっておりました。

おまえ、最近食生活がイイらしいなあ。すいません、購買部部長の私は、丸山堂パン屋さんから、ただでパンを貰っていました。

すいません。私と長谷川洋君(現町長)は、天文科学部の望遠鏡で、屋上から太田女子高を観測しておりました。

それでも文化祭などには、OB稲門会が“ハイソサエティ・オーケストラ”を呼んでくれて、放送部員だった私は、講堂の舞台の袖でミキサーをやり、その素晴らしいJAZZ生演奏をまるまる聞く事が出来、JAZZに憑かれるきっかけとなるのでした。   

(現在でも、太高OBの清水太田市長は、毎年太田市“大学対抗バンド合戦”を主催しておられます。)
・・・
嗚呼、わずか3年間の出来事なのに、恥ずかしくも懐かしい青春時代。

昨今の男女共学ブームや私立高校の台頭の流れにもかかわらず、
太田高校は、全国に珍しい県立普通科男子高校として現存します。(息子も通わせました。)

嗚呼、母校よ、永遠なれ!

(今回は、手前味噌ですいませんでした。次回は新宿に戻ります。 
                            敬具)  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく



・・・・・・・・・ホント手前味噌!!!!!!・・・・・・・・・


太田駅前広場にて

太田高校文化祭かな?? フォークバンドでしょうか。

因みに管理人も高校時代、あの布施明氏のロックバンドと予餞会でハワイアンバンドとして張り合いました。
だが女子の興味は圧倒的にロックだったのです。
しかしその後、氏は芸能生活の為他校へ転校し、われわれは、ハワイアン黄金時代を築いたのでした?????。

さらに同高校には今をトキメク???高田純次氏がいた事になっていますが、ただ純次氏にはついぞお目にかかった記憶が有りません。
あれだけ賑やかで有れば、きっと何処かで覚えている筈、
それとも今のキャラは“東京乾電池”時代に培ったのか??
学年が違ったせいも有るかも!!
とまれ、私の記憶には全くございません。
追伸、布施氏は何とハードルの選手でした、実力は解りませんが・・・。




“VAN SITE”SEISHUN VAN NIKKI 49
Copyright(C) IDEAKONA. All Rights Reserved.