青春VAN日記61
本社営業の巻 その4(1976年3月)
<本社出勤>
地下鉄表参道駅の長い階段をのぼりきると、そこはVANの聖地、青山であった。
大きな石灯籠の前で交番のおまわりさんに目礼し、週刊新潮の谷内六郎作のモザイク絵を見ながら、左にまがると青山通りである。
・・・・私が子供の頃は渋谷から銀座築地まで都電が走っていた。
当時、私の祖母が渋谷に住んでいた。祖母は好物のうなぎを食べるために、よく私の手を引いて築地まで都電で連れて行ってくれたのだった。
往復の都電の窓から見える風景は、まだ青山練兵場の頃の風情を残していた。
高いビルは数える程で、立ち並ぶ木造建物の向こうには、建築中の東京タワーが見えたものだった。まさしく“青山三丁目の夕日”であった。
やがて東京オリンピックが開かれる頃になると、広大な米軍代々木ハイツに立ち並んでいた多数のかまぼこハウスはいつしか無くなり、都電もトロリーバスも消え去ってゆき、青山通りは6車線もある見事な道路に変身した。
そして青山三丁目の交差点AYビルに、VANヂャケットが登場した。
・・・・VANタウン青山の始まりであった・・・・。
「おはようございます!」
青山通りに面した356別館は、若い活気に満ちていた。
営業部の始業前の朝はラジオ体操で始まった。
勢ぞろいした全営業社員およそ200名を前に、照れながら模範体操をしているのは、なんと同期の佐野雅男君であった。
もと明学少林寺拳法部主将、関東学生チャンピオンである。
・・・見渡せば、3年前に出会った懐かしい顔があちらにも、こちらにも。
「おう!元気か!」 「お前も元気そうだな!」
「よろしく頼む!」・・・
挨拶もそこそこに、体操は終了し、それぞれの所属課へと散会した。
356別館3階の中ほどで、机をドンと構えているのは、VT三人娘の御一人の浜田早苗さん(お浜姉さん)である。
3階に展開する営業各部各課の社員の経費や交通費などを支払うべく、机の上には手提げ金庫があり、立ち寄る社員達に、観音様のように優しい微笑を降り注いでいました。
我らが営業2部・新Kent部長は杉山今朝弥氏その人でありました。
季節は春。
明るい若草色のスーツを長身痩躯の身体に着こなし、セミロングの長髪には自然なウェーブ。そのスタイルは、あたかも映画「華麗なるギャッツビー」のように颯爽としたものでありました。うーん格好良い。さすが!
さあ!集合したKent営業20名を前に新部長の朝礼です。
「皆さん、おはようございます。22期を迎えるにあたって我々は・」
と、口を開いたその瞬間!
あれ?・・・部長の前歯が一本無い・・・ウッぷ!(歯の修理中だったようです)
ワハハ!・・・これで部長は部下全員の気持ちを、一気に引き付けてしまいました。
私の直接の上司は、Kent営業は宇野主任、月販店営業は石川昇主任でした。
(私は、Kentの、そして月販店担当の、営業なのです。)
石川さんは、私が入社前の見習いアルバイトで丸井ヤング新宿店にお世話になった時の、あの丸井のエディ・マーフィーことエクストリームな昇さんでした。
盛り上がる丸井での思い出話もそこそこに、二人でお世話になった宮部課長に挨拶に行きました。
移動直前で御忙しい体なのに、宮部さんはいろいろと御指導下さいました。
宮部さんこそが、あの丸井において、松下電器・SONYを抜いてVAN社を取引金額1位に躍進させた、立役者の御本人なのであります。
そしてこの時に宮部さんは、私が以前から欲しかったKentの“ノべルティ腕時計”を、なんと餞別にとプレゼントしてくださり、「おまえら、たのむぞ!」と一言。
・・・これから丸井様を相手に、私一人のKentで扱う営業予算は、年間10数億円!
私は自分の業務の重大さをヒシヒシと感じ、宮部ヘッドを前に、実に全身に鳥肌が立つ思いをしたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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