青春VAN日記84
本社営業の巻 その27(1976年秋)
<76秋冬期・悪夢の社内状況>
私達営業部・販売部の現場社員達は、日夜業務に励んでおりました。
我Kent部などにおいては、その営業数字は例年に比べても、けっして遜色ないものだったのです。
しかしながら、他のチョップにおいては、高価なシルバー製品に不良品が多発して失敗したり、
新部門を作ったものの採算が採れていなかったり、
商品を作ったものの納品する事も無く倉庫に眠らせているようなブランドもあったのです。
そしてこの頃は、文化・風俗を創る我社においては、現場での利益を作り出さない非・利益生産部門の内勤社員数の比率が少々高くなり過ぎていたようでした。
また、利益を生み出す肝心の最前線マーケットにおいては、VAN製品の取扱店は日本中に広がりきり、果ては長崎屋・ダイエー等のスーパーにまで至り、その店数はまさに飽和状態を迎えていました。
当然、現場ではより多数の練度ある販売社員を必要とするにも拘らず、経営悪化で新規社員採用のストップしてしまった我社では、肝心の販売社員の数が不足し始めていました。(・・・販売社員不足は、即、売上低下・返品増加につながるのです)
私達営業社員は、日曜・祭日と連日店頭での販売応援でがんばっておりましたが、やはり販売員不足は否めませんでした。
このことは、日本独自の委託取引方式で“商品・人員リスク”を取引先に依存して利益を貪る百貨店・月販店にとっても、直接売上に直結する大問題です。
万一売上の低下でも招けば、その責任は取引先メーカーに問われる事になり、取引(掛け率、規模、返品率等)において、即、メーカーに不利な結果をもたらすことになるのです。
( まさに我社は、太平洋戦争において戦線を拡大し過ぎて身動きがとれなくなってしまった帝国海軍のような、ジリ貧状態に陥ったのであります。)
そして、内勤業務の社員達にも販売召集令状が届く事になったのです。
内勤社員にとってはまさに青天の霹靂でありました。
専門の技術を持って内勤に励む社員達にも、生活やプライドがあります。
慣れた内勤業務から、出先店で取引先社員から命令される毎日への生活の変化。立ち仕事、見知らぬ店への通勤、土日出勤など、突然の販売業務への不安感。
苦悩する社内では、配置転換がひんぱんに行われるようになっていきました。
突然の移動指示に対して、当然社内では混乱が発生する事になりました。
苦しむ内勤社員達の悩みを受け止めたのは、労働組合でした。
そして、総評系・同盟系、2つの労働組合が、それらの問題の対処について会社との激しい対立を繰り返すのでした。
創業以来、ヴァン・ファミリーと言われるほど仲の良かった社内は一変してしまい、あちらこちらで対立やいざこざが見られるようになっていきました。
2千名以上の大企業になってしまったVAN社内では、仕事への価値観も多様化してしまい、すでにいろんなタイプの社員が増えていました。
各自の思いや考え方が噴出し始めました。
「給料はいらないから仕事させてくれ」・古典的VAN“命”型社員。
「信じるものは救われる」・VAN“信者”型社員。
「このようなVANはぶっ壊す」という不満型過激社員。
会社の業績より、趣味豊かな個人生活を指向するしらけ社員。
自由な社風の中で遊んでいるお気楽社員。
コンフォーミティな内股膏薬型社員。・・・etc.
今まではすべての社員達が、どんな時でも石津社長の一声で一丸となれたのに、大商社の経営介入が始まり、社長がすっかり元気を失ってしまった現状の中で社内の統率は収拾がつかない状態となってしまいました。
会社の指示系統にも混乱が生じてきたように感じられました。
体制支持派、大商社派、第一組合派、第二組合派、ノンポリ派、・・・。
ああ、社内がバラバラになってゆく。
全社員の願いは、“会社再生”ただ一つのはずなのに、なぜそのやり方がまとめられないのだ。
この混乱をいったいどうしたらいいのだ!?
私は、どう動いたらよいのだ?
私の心に決めた事は唯一つ、
「私はVANだけに属している。いかなる派閥にも属さない。」
宮部ヘッド〜、COME BACK TO VAN〜!
「 自分ら子雀達は、皆腹をすかせて、
チュンチュンと鳴いて待っております・・・。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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