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青春VAN日記78

本社営業の巻・その21

<遠い夏の日の思い出>

昭和30年代の子供の頃、私の夏休みは、東京にある親戚の家で過ごすのが、例年の事でした。

当時は渋谷の笹塚に祖母が住んでおりました。中野通り沿いの木造平屋・都営文化住宅でした。

この頃、近所には、空き地や原っぱがたくさん有り、都営住宅や商店街の子供達と毎日元気に遊んでいました。

“風呂敷”マントの月光仮面。頭に巻けばハリマオ。顔を隠せば怪傑黒頭巾。原っぱの草むらの中に廃材で作った“秘密基地”。

銀玉ピストルを撃ちながら、みんなで叫んだ“ウーヤーターッ”笹塚小学校の校庭での、夕涼み子供映画大会。 幡ヶ谷の祇園祭の子供御輿。

映画館「ロマン座」の前を鼻の頭に白粉つけて山車を引いた子供行列。遊びつかれて夕方になると、広い原っぱの向こうに続く“水道道路”の先には、夕日に輝く新宿の大きな“ガスタンク”が見えていたものでした。

そしてお腹がすいて家に帰ると、お婆ちゃんが連れて行ってくれたのが、十号通り坂下の、中華そば“福寿”。

10人も入れば満席の小さなお店の中では、カウンターの向こうに巨大なお釜があり、立ちのぼる湯気の向こうには、禿げ頭にねじり鉢巻、前掛け姿のおじさんが一人で働いていた。お婆ちゃんと食べた “中華そば”は、とても美味しかった。

笹塚3丁目、福寿の中華そば

昭和30年代の笹塚の“ごちそう”だった。

また、お婆ちゃんはいつも“都電”に乗って、東京のいろいろな所へ連れて行ってくれた。渋谷東横デパート屋上遊園地、大食堂のお子様ランチ。

東急プラネタリウムの星空、西村のフルーツアイス、三平食堂のうな丼。

新宿コマ劇場の“雲の上団子郎一座”・夏の踊りレビュー。

浅草寺、花やしき遊園地、大黒屋の天ぷら。

二子玉川遊園地、上野動物園、そして広尾、青山、池袋の親戚の家・・・。

いつも交通の足はほとんどが、“都電”だった。

私の子供時代の東京原風景は、都電の窓から見た風景なのである。

1968年ころの渋谷駅周辺、高架は地下鉄銀座線。
右側に見えるのは東急文化会館、この屋上に日本で二番目に出来たプラネタリューム(五島プラネタリュームと言っていた)が有った。

写真では見えないが、左側に国電・渋谷駅と東横線・渋谷駅が有り、そこに至る建物・通路のレイアウトは現在とほぼ同じ状態で東急・東横店が有る、一階にある東横名店街はじめ文化会館には、管理人にも幼・小・中学生のころのなつかしい思い出が・・・・・。(写真出典:インターネット、都電紹介サイトより)
1969年頃の北青山1丁目近辺
(写真出典:インターネット、都電紹介サイトより)

やがて数年後、地上にあったバラック風の京王線新宿駅が地下駅となり、初台、幡ヶ谷、京王線路沿いの多摩川上水に蓋がされ、京王デパートや小田急デパート、ハルクにスバルビルが林立すると、西口近辺は突然、超近代都市に変化してしまった。

そこに出現した“フーテン族”に“新宿駅地下広場フォーク・ゲリラ”。

そんな頃、私は大学生になった。

私は上京し、お婆ちゃんの家に下宿生活することになった。

懐かしい“笹塚十号通り” の素敵な商店街はちっとも変わっていなかった。“福寿”には若いお兄さん店員が増えて、出前もしてくれるようになっていた。笹塚にもいろんなラーメン店が出来たが、やっぱり“福寿”が一番うまかった。

それにもましてお兄さんがとても面白い人だった。いろんな話をしてくれた。貧乏学生の私にとって、最高にありがたい店だった。


そして1976年。VAN営業部内では、ひょんな事から、どこの店が美味いかと、ラーメン談議に花を咲かせていたら、突然ヴァンガーズの福ちゃんが言った。

「俺は、ぜったい笹塚の“福寿”だな!」

今流行の、北海道札幌ラーメン系、九州博多長浜系、熊本桂花系、
・・・鹿児島こむらさき系、東北喜多方系、京風らーめん系、千駄ヶ谷ホープ軒・・・と、都内には星の数程あるラーメン店の中で、よくぞ、その名を出してくれた!

新宿東口に有った『桂花ラーメン』の“ターロー麺”はいわゆる“中華そば”が好きな管理人にも美味かった。今でも有るのだろうか。

「気に入ったねえ!兄さん、どこの生まれだい?」

「日大アメフット部の生まれよ!」

・・・どうやら学生時代の練習帰りに毎日食べていたらしい。

無性に“福寿のチャーシューワンタンメン”が食べたくなってしまった私達は、当然、丸井本部商談の帰り道には皆で立ち寄るのであった。

大きなお釜の前でラーメンを作っていたのは、あの時のお兄さんであった。

「こんちわー、お元気ですか?」

「おお、あんちゃん!VANに就職したんかい。勉強のかいがあったね!」

「ここの親父さんは数年前に亡くなったんだよ。今は俺が店を継いでいるのさ。」

昔と少しも変わらない懐かしい美味しさであった。誰もがスープ一滴残さなかった。まさしく僕らにとっての“日本一”のラーメンであった。

・・・懐かしい笹塚ラーメン“福寿”は、2008年の今も現存する。

しかも、50年前のそのままの姿で。

あの時の“お兄さん”は、すっかり白髪頭の小父さんになってしまったが、50年前の、その昭和の青春の味は、すこしも変わってはいない。一杯のラーメンをすすりあっていた若者達は、今は各業界の実力者となり、お店は、昭和の若者達の憩いのサロンである。

・・・人間の社会って、おもしろいもんだなあ・・・。

笹塚3丁目の“福寿”は“日本一”トラッドな1型東京ラーメン店である・・・。



  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく








“VAN SITE”SEISHUN VAN NIKKI 78
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