青春VAN日記96
本社営業の巻 その39(1977年 秋)
北海道ツアーで自己の再確認を済ませ、VANイズムを取り戻した私達は暗雲たなびく青山本社へと戻った。(もう何事が起きても動じはしない。)
社内では、新たな組織編制の下、社員達がかいがいしく動き回っている。
人数こそ減少したが、社員達の眼には、あきらめの表情は全く無かった。
全員が復活を目指してもがいていた。
本社営業の価値観・業務内容は、ようやくここに至り変化した。
各部門、各課、各担当の独立採算制が重視されるようになった。
相手を選ばない闇雲な新規取引開拓や納品よりも、従来店の取引内容の改善、見直しがされるようになった。
つまりは見かけの納品金額の大小より、最終純利益額の大小が評価基準になり、改めて在庫商品の処理・売掛金回収後の純利益確保が最重要業務となった。
個々の営業社員の損益計算書・バランスシート感覚が圧倒的に必要になってきた。
社内ではチョップ別の所属意識や取引先店の担当意識などのセクショナリズムは次第に消えていった。
何でもやり、何でも出来ることが必要になった。
私なども、丸井では、担当外のコルシーニやVANやAGの商談もした。
物流倉庫作業、宣伝販促業務、販売、集金業務、何でもやった。
あるときは他課のテリトリーの仕事もした。
藤島課長と地方店浜松COXまで売掛金回収に営業車を飛ばしたり、
石川課長と三越バーゲンの商談・搬入作業をしたり、
竹野課長の代わりに緑屋の集金に行って掛け合ったり、
・・・と何でもありになった。
役職者や管理職達の動きも変化した。
以前に比べ、人数こそ減ってしまった営業部であるが、役職者・管理職達は、かつてに比べ、ひんぱんに営業社員とのコミュニケーションを計る様になった。
管理職の机にすわりっぱなしの人がいなくなった。
以前は雲上人でお目にかかることがほとんど無かった牧尾祐輔東京支社長が、率先して圧倒的に現場営業の席に顔を出すようになった。
支社長は、前・VK(九州営業所)所長である。
岡山県津山市出身の“古武士”の風情を残す、大阪本社時代からの栄えぬきの“闘将”である。
・・・今日も、そのお姿は356別館3Fの営業部に在った。
必ず私達営業社員に一声を掛けて廻る。
体格は小柄でも、その声の大きさと迫力は驚くべきものがある。
私達平社員は、おもわず背筋が伸びるのであった。
( そして、支社長は営業社員との話が一段落すると、必ずミス営業1課の美人、渡辺まさ子嬢の席に座り、お茶を所望するのであった・・・。)
鬼神のように怖そうに見えた支社長に意外なお茶目さを発見した私達は、お浜姉さん、広瀬さん、ター子さん(VAN三人娘)と大声で笑い合う支社長を見て、ひと安心するのであった。
東京営業部は、確実に昨年よりもまとまりがよくなった。
二つの組合の幹部達も専従となり、職場ではあまりお見かけしなくなった。
そして私の所属長の伊部営業3部長と田中部長代行も、以前とは違い、営業社員のデスクに常時同席している。こまめに指示が飛ぶ。
夜も頻繁に飲みに連れて行って頂いた。
会社はようやくこの期に及んで、「商いの原点は現場に有り、我社の原点は店頭に有り」になったようだ。
現場の営業・販売社員達に対する、会社の姿勢は明らかに変化した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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