PAGE1 PAGE2 PAGE3 PAGE4 PAGE5 PAGE6 PAGE7 PAGE8 PAGE9 PAGE10
PAGE11 PAGE12 PAGE13 PAGE14 PAGE15 PAGE16 PAGE17 PAGE18 PAGE19 PAGE20
PAGE21 PAGE22 PAGE23 PAGE24 PAGE25
PAGE26
PAGE27
PAGE28
PAGE29
PAGE30
PAGE31
PAGE32
PAGE33
PAGE34
PAGE35
PAGE36
PAGE37
PAGE38
PAGE39
PAGE40
PAGE41
PAGE42
PAGE43
PAGE44
PAGE45
PAGE46
PAGE47
PAGE48
PAGE49
PAGE50
PAGE51
PAGE52
PAGE53
PAGE54
PAGE55
PAGE56
PAGE57
PAGE58
PAGE59
PAGE60
PAGE61
PAGE62
PAGE63
PAGE64
PAGE65
PAGE66
PAGE67
PAGE68
PAGE69
PAGE70
PAGE71
PAGE72
PAGE73
PAGE74
PAGE75
PAGE76
PAGE77
PAGE78
PAGE79
PAGE80
PAGE81
PAGE82
PAGE83
PAGE84
PAGE85
PAGE86
PAGE87
PAGE88
PAGE89
PAGE90
PAGE91
PAGE92
PAGE93
PAGE94
PAGE95
PAGE96
PAGE97
PAGE98
PAGE99
PAGE100

続・青春VAN日記へ・・・・・・

青春VAN日記100

本社営業の巻 その43

<終 焉> (1978年4月6日)


私達現場の社員には、会社中枢の出来事は全く分からなかったが、
佐脇社長はヴァンヂャケットの管理体制建て直しに努める一方、悪化する資金繰りを解決しようと、商社支援、特に出向母体である丸紅からの支援強化に奔走したらしい。


しかしVAN支援の丸紅・三菱商事・伊藤忠の3商社間の足並みはそろわなかった。3すくみ状態であったらしい。


そして丸紅は非情にも「これ以上の単独支援強化は不可能」と決定した。
決定を告げられた佐脇社長は役員会において会社更生法申請を決意し、東京地裁民事18部に申し立てを行ったという・・・。


この夜行われたTVの記者会見では、
石津会長は「敗残の将、兵を語らず」と述べ、佐脇社長は「無念」のあまり、男泣きに泣いていた。

私達の目前のすぐそこに、大トラッド・ブームが見えてきたというのに、

いったい“倒産”とはどういうことだ・・・?

丸紅、三菱商事、伊藤忠などの大バック・ボーンは、何を考えていたのだ?

いままで、さんざん利益を吸い取っておきながら、都合が悪くなるとサッと手を引く。多数の社員や下請け関係者の生活のことなど考えていない。

これが資本主義の論理なのか?

勤務中に、放送や取引先から初めて倒産を知らされた社員達のその時のショックはいかばかりであったことか!

情報を聞いて、それぞれの出先から雲を踏むような足取りで本社に駆け戻った社員の青ざめた顔と顔。


牧尾東京支社長は、夕日の差し込むオフィスに一同を集め、苦汁の説明を行なった。

「残念ながら、我社は、諸君達の努力にもかかわらず、本日、やむをえず会社更生法の申請を行なうに至った。 

倒産は事実であります。

しかしながら、当社の命運は、まだ完全に尽きた訳ではありません。
会社更生・再建の道は残っております。


・・・明朝、全体朝礼において、所属各部の対処・対応策を発表します。どうか、全社員の冷静な行動を願います。・・・」


4月7日(金)、営業部決定・連絡事項

いかなる状況になろうとも、当面運転資金が必要である。
回収なくして再建無し。

<営業社内業務について>

1、  営業車両使用不可。交通費等の出金は可

2、  重要書類・伝票類の保管

3、  従来商談活動の継続

4、  集金の徹底、得意先の反応・質問のレポート提出

<対得意先注意事項>

1、  倒産後の商品供給についての説明 

一両日中に財産保全命令が出るので通常のオーダー出庫が可能。
保全管理人が来るまでは、出庫も返品も不可。

2、  再建支援のお願い

返品の一時中止、集金・支払いの更なるお願い。

3、  従来銀行口座の凍結、保全管理人の新口座の連絡。et


翌日から、日本中の混乱する売場に対して、私達営業社員の必死の行動が開始された。

残存社員達の再建への奮闘はさらに6ヶ月間続いた。

そして半年後の197810月、悪夢の13日の金曜日であった。

全社員の努力もむなしく、VANの会社更生法申請は、東京地裁において却下された。

完全破産であった。

今年の正月に感じた“祇園精舎の鐘の声”は正夢となってしまった。

私達、残った1000余名の社員は、生活のすべを完全に失った。

ヴァンヂャケットの終焉であった。





あとがき

石津会長や管理職の方々は、破産後の社員達に対して、“再就職”に向けての努力を惜しまなかった。

Kent杉山部長は、私ごときを新メーカー設立に誘ってくれた。

しかし、私はヴァンヂャケットへの想いを断ち切ることが出来なかった。

「・・・・・・・・・・・

部長、申し訳ありません。
VANは私の青春そのものです。消滅は絶対に許せません。私は、この世に石津会長とVANの名が存在する限り、VAN再建を目指します。

明日からは、破産財団ヴァンヂャケットの残務処理作業員として、再建の道を探ります


・・・・・・・・・・・・長い間、ありがとうございました。」

          


                    青春VAN日記 終わり

        


無くてはならないVAN JACKETの復活へ向けて!!








1976年だったと思います。
石津副社長がVAN JACKET社員に宛て、組合問題ほかで混乱の真っ只中にあった社内の融和を図る為、全員に配布した手書き文。

・・・・・荒れた現代の、企業環境へ・・・・・。

1 2
3 4







参考 POPEYE 1978年6月10日号


続・青春VAN日記へ・・・・・・



“VAN SITE”SEISHUN VAN NIKKI 100
Copyright(C) IDEAKONA. All Rights Reserved.