青春VAN日記86
本社営業の巻 その29(1976年 年末)
<社内状況B>
とうとう社内は大混乱のまま年末を迎える事になってしまった。
年の瀬を迎えても、明るい見通しはつかなかった。
枯葉の舞う青山通りを、残業帰りの数人のVAN社員達が歩いていた。
「 いったいVAN社は、これからどうなるのだろう? 」
「 俺達は、この先どうなるのだろう?・・・」
吹き抜ける木枯らしに、思わずコートの衿を立てた男達は誰からとも無く、いつものように馴染みの“野里”の暖簾をくぐるのだった。
例によって、営業部丸井グループの同期仲間の面々であった。
どういう訳か、現場任務の同期の仲間達には労働組合員は誰もいなかった。
安心して何でも話し合える仲間達だった。
いつもとは違う、暗い表情の私たちを察したかのように、湯気の向こうから老夫婦が黙っておでんを出してくれた。
よく味のしみ込んだ大根をつつきながら、いつもの様に会話が始まった。
「 ところでさあ・・・俺達全員、野球は巨人ファンだけど、果たして 巨人軍が好きなのか、それとも長島が好きだったのか、どっちなんだろう? 」
お、きたきた、いつもどおりの包国君得意のアプローチ・パターンだ。
何の話に持っていきたいのかが、実に手にとるように良く理解できる。
きっと、今話題の、引退してしまった長島選手と巨人軍との処遇問題を例にとって、我々の、“石津社長とVAN”についての気持ちを聞こうとしているに違いない。
「 俺は、石津社長のVANに憧れて入社したんだ!社長とVANは一体だ。どちらが好きだなんて考えられん。石津社長あってのVANではないか! 」と金沢君。
昔、背番号3の野球少年だった佐野君がめずらしく長い話を始めた。
「 1974年5月22日、後楽園球場で巨人対阪神戦が行われた。阪神先発は伝説の江夏豊投手である。
天才打者3番長島の得意技は“長島流決めダマ狙い打ち”である。相手投手の決め球をわざと待って狙い打ちし、完璧に打ち勝つのだ。
並みの打者であれば相手の決め球をさけ楽な球を打つ。天才長島は違う。だからあの野村もため息をつき、正体不明だとさじを投げたくらいだ 。
この日は江夏も江夏で長島の腹は読んでいる。“俺の球が打てるものなら打ってみろ”2−3のカウントから、あえて決め球の内角低めの鋭く落ちるカーブ を投げた。
しめたとばかりに長島はバットを振った。しかし結果は空振り三振であった。
長島は、自分の力の衰えを実感せざるをえなかった。これが運命の打席となり、5ヵ月後のあの感動的な現役引退劇になってしまった。
天才長島であっても“盛者必衰”の理は変らない。
ことほどさように時代の先駆者たる我社も、
長島と同時代に創業以来の進撃を続けてはきたが、ここに至り行き詰まってしまった。“栄枯盛衰”は世の常である。
この上は初心に戻り、適正規模での縮小経営を目指すべきだ。
しかしながらVAN経営陣は実権を大商社に奪われてしまった以上、
我社の太陽である社長はなんらかの責任をとらされてしまうだろう ・・・。
だが石津社長の存在無きVANなどは、俺達には考えられない・・・。」
「 俺は、石津社長のいないVANだったら辞めてやる。 」と金沢君。
まあまあ、と話に入ってきたのが檜森君。
「 利潤追求の権化である大商社たるものが、経営悪化とはいえ400億 円のマーケットを持つVANと日本の業界の指導者たる石津社長のネーム・バリューを手放すわけがないじゃないか。 現段階ではある意味安心じゃないか?
まあ、これから先は何が起こるか想像がつかないが・・・、
俺達もいざと言う時の覚悟だけは決めておいたほうが良いかもしれないな。ところで、横田はどう考えてるんだ?・・・」
「 俺は、この世に石津社長とヴァン・ヂャケットが存在する限り、どん な事になろうとも、VAN復活を目指すつもりだ。
そのためには、楠正成や山中鹿之助や佐野源左衛門になろうともいとわない。 」
一同
「 よし!来年は人員整理や諸待遇の悪化、配置移動等の困難が予想さ れるが俺達同期は現場の責任を果たすべく、最後の最後まで頑張ろう! 」
「 よーし! 」・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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