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青春VAN日記88

本社営業の巻 その311977年 初夏)

<体制変るA> Lover Come Back To Me

1977年6月

・・・・・・・・・嗚呼諸行無常。・・・・・・・・


創業以来、唯一・只一人であった私達のヴァン・ヂャケット社長が、とうとう丸紅の“見知らぬ方”に交代となってしまった。

そして77年度VAN新体制が発表された。

私たち社員一同の、夢と憧れであった意味でのVANは、その一時代を終了した。

ついに“シャドウ”丸紅が表舞台に出てきた。

ここに至りヴァン・ヂャケットは、ついに完全に丸紅の軍門に下った。


    社長交代は、全社員にとって一大ショックであった。


これからのVANは、いったいどうなるのだろうか?

もうVANは“学校”では無くなってしまうのだろうか?

“におい”や“らしさ”“味わい”などの“夢”を売り続けてきた我社は、これからは、利潤追求第一のあたりまえの企業になってしまうのだろうか?

それにもまして、私達社員の現実の生活はどうなるのだろうか?

石津社長はかわいい一般社員の首切りなどはしなかった。

しかしながら新経営者は、当然経営回復のために様々な合理化政策を行うだろう。人員削減、減給、諸待遇の悪化などが目前に現実味を帯びてきた。

「これは現場の私達であっても、いつ“肩を叩かれるか”わからんぞ。」

「自分の人生を考え直して、進退の覚悟をしておいた方が良さそうだ。」

新体制となった会社組織の発表を見るにつけ、私達社員一同の不安感は、いっそう増していくのだった。


1977年新体制 

<新役員>

代表取締役会長    石津謙介

代表取締役社長    佐脇鷹平(丸紅)

代表取締役副社長   根川博 (丸紅)

専務取締役      石津祥介

取締役        戸田俊雄、伊藤八郎、早川和夫、滝川克巳、
           高木一雄
伊藤義澄、       

相談役        大川照雄

営業副本部長     倉科 誉(丸紅)

<新役職者>

牧尾裕輔 東京支社長

高見 敏 営業1部長 宮川部長代行、本田1課長、堀2課長、石川3課長

杉山今朝弥 営業2部長  竹中・深沢1課長、田口2課長

伊部季顕 営業3部長 田中部長代行、藤島1課長、竹野2課長、西山3課長

柴田公雄 販売部長 鈴木課長

今井 商品管理部長・・・etc


私達丸井グループは営業3部2課に所属することになった。

私は、丸井取引の全ブランドの商談を担う事になった。

( 76年からの度重なる組織変更、配置移動とは実は人員整理策だったのか?
・もう所属部の数字表記はいやだ、キャップ補の候補になるよりも、私はKentの横田でありたいのだ! )


そして新人員配置が発表された時、最も恐れていた動きが起こってしまった。

会社の将来に見切りをつけた、たくさんの仲間たちが退職していったのである。

全盛期2600名を数えた社員数は1500名に激減していった。

私の大切な同期仲間からも、7月付けで、金沢重信君、宮代雅史君、そして藤代幸至先生が・・・、9月付けで、マドンナ千葉幸子先輩が・・・、

    
        入社以来の私の大切な友人達がどんどんいなくなってゆく。
                        
             ・・・おお神よ!!・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

           


VAN PRESS 1977年7月1日号。

既にVAN JACKETの“らしさ”がそのタイトル・ロゴ デザインからも消え失せています。

VANの意匠関係に携わった人が、このような書体(Goudy Heavyface Italic)をこのような形で、タイトルに使う筈がなく、取り敢えず間に合わせで作ってみました、といった趣・・・。とてもさびしい思いがします。

佐脇さんという方は私良く存じません、しかし“CAPTAIN THE LAST”などと最初から言っているようでは、まずVAN JACKET丸の沈没ありきで社長職に就いたと言われても仕方がないのでは。・・・

どのような言葉を並べ、何をどう取り繕おうとも、VAN社員達は既に見透かしていたのです、と今更ながらですが、言っておきましょう。

お人柄はとても良さそうな方なのですが。
別のシチュエーションでお会いできたら、諸々通じ合うお話が出来そうな方でした。・・・・・飽くまでも推量ですが。











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