青春VAN日記60
本社営業の巻 その3(1976年3月)
<70年代・VANの時代背景考察>
振り返ってみれば、1951年、石津社長が大阪の北炭屋町で有限会社VANを始めてから20年が経つ。
70年代に入ると急激な発展の結果、年商300億超の大企業にまで成長した。
ここにいたるまでには、延数千人を越すVAN社員と関係者の努力があった。
彼ら先輩たちは、持てる知力と体力のあらんかぎりを会社に捧げた。
アイビーの流行も、フォークソングやジャズやアメリカンフットボールの流布も、社長を筆頭に全社員の血と汗と涙で創り上げたものである。
石津社長を“頭”として毎日の業務に励んでいる限り、健全な経営と相まって、VANの発展は永久に続くものだと、私達は信じきっていた。
だが、1970年代に入ると、日本繊維業界は大構造不況に陥った。
戦後の物資の無い時代には飛ぶように売れた繊維製品は、20年を経過して“もはや戦後ではない”時代になると、市場は飽和状態を迎えていた。
必然的に、糸の消費は停滞し、川上と呼ばれる繊維業界は不況となった。あふれる失業者をかかえて国家は苦悩した。
ところが、この時に、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続ける業界があった。
VANを筆頭とする川下と呼ばれるアパレル業界である。
国民生活不安の火種となった繊維業界問題に悩む政府・通産省は、躍進を続けるアパレル業界に目をつけた。
アパレルが売れれば、布の消費は増加し、糸の消費も増えるはずだ、と。
通産省は、銀行や商社に指示を出し、VANを筆頭とするアパレル業界に巨額の資本を投入させる策を執った。
しかし、VANの服は国民服ではない。趣味嗜好品・ファッションである。国民全員が着る大衆衣料品ではない。
作ればなんでも売れる訳ではない。無理である。
もともと石津社長は“VANは学校である”と位置付け、大企業になることを目的としていたわけではない。
しかしこの時のVANは、通産省の指導・大商社の介入に対し、あえて「NO!」と言う勇気を欠いて、巨大化する「愚」を冒してしまった。
・・・VANのターニングポイントであった。
そこには、「我々なら出来るだろう」、「巨大企業に成長してみたい」、という過信と欲があったのかもしれない。
そして、会社は「SCENE・Niblick」ブランドの大展開によって、より大きなマーケットを目指し、大型大量生産企業へと運命を賭してしまった・・・!
(※ 以上は、まったく、1アイビー狂い社員の私個人の考えであり、 推測であります。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
横田氏の意見は、全くはずれているとは言えない、否、こんな事が裏で有ったかと思わせる見方です。
VANの大きな衰退要素の一つは、“アメリカン・トラディショナル・・アイビー・リーガーズ・スタイル”をその基本コンセプトとし、『 流行ではなく、風俗を創り上げる 』と標榜していた・・にも拘らず、VAN内部、特に本社の計画及び営業中枢が、『アイビーは古い、マーケットが広がらないと』、それまでの積み上げた実績を否定するように、中心商品群を“流行”として判断してしまった点も大きいと思われます。
リカバーの為、自ら行うべき“市場動向と今後の展望調査”なども、某大手広告代理店に多大な予算のもと投げてしまい、本来はVANが自らの持てる知識と経験則に照らして判断できる事を、机上のマーケティング理論だけは大層なエージェントに委ね、その資料を元に判断してしまった点も、この時期迷いに迷ってしまっていたVANの実態が現れていると思う。
もっと各地域の現場の声に耳を傾け、意見を吸い上げ、適度に時間をかけ、冷静沈着にマーケット判断が出来さえすれば、きっと今でもVAN JACKETは“VAN
TOWN AOYAMA”にその本拠を置いた状態だったと思えてならない・・・・・のだが。
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