続・青春VAN日記55
ケント社の巻 その22(1983年夏)
<石津謙介アイルランド漫遊記4、ここはどこ?>
さて先日の会長の“市営バスによる行き先不明のバス旅行提案”は、おもしろがりやのメンバー全員の希望で実行されることになった。
ただし、ツアーリーダー大泉課長とガイドのちふささんからはあまりの予定外の行動に、旅の安全を心配するご意見が出た結果、各人ばらばらではなく、まとまって行くことになった。(ガイドのちふささんのあきれた表情の面白かったこと!)
46番線のダブルデッカーの二階席は、楽しい修学旅行状態になった。
誰しも、このバスが何処へ行くのかも分からず不安なはずなのに、不安感はまるで無い。いったい何故なのだろう?
それは会長のせいである。
ツアーメンバーは肩書きある立派な立場の大人ばかりのはずなのに、まるで少年のガキ大将のような石津会長の気さくなお人柄が全員に伝染してしまい、皆、冒険少年団になってしまったのだ。
銀座の社長も、大学教授も、お得意様も、管理職も何も無くなった。
高木社長の奥様さえも、安田専務、宮川常務、鳴島社長、愛甲社長、大泉課長や私などと騒いでいるうちに女学生に戻ってしまわれた。
全員が中学生レベルの英語なのに、会長につられて恥かしさも忘れ、地元の乗客達に気軽に話しかけてはすっかり仲良くなってしまった。
ついには一緒になって車内でアイルランド民謡まで歌ってしまった。
YOUNG-AT-HEART万歳!
(・・・会長とはなんと不思議な方であろうか、きっと初期のVAN社内も、こんなムードだったのかもしれない。会長という方は、誰とでも友達になってしまうのだ。相手が、政治家の先生でも、俳優の方でも、スポーツ選手でも、音楽家でも、外国人でも、平社員の私でも・・・差別が無い。
だから、周りにどんどん人が集まって来てしまう。人を少年にさせてしまう、なにか不思議な力を持っている。会長とは、なんと魅力的な方なのであろうか!・・・)
さて、小一時間も乗ったであろうか、バスは終点に着いた。
そこはアイリッシュ海に面していると思われる港町であった。
見渡す限り一面の海であった。
“ここはどこ?私はだれ?”と、ドリフタ―ズ状態の一行であった。
『まさに、ドリフターズ(The Drifters : 漂流者たち ??)
・・・Dance with me !! 違っちゃたかな・・?』
「・・これが旅の面白さだよ!旅の楽しさはサプライズだよ!」
少年のように顔が輝く会長でありました。
そして又、地名を探そうとする人もいなかった。
「ここは、アイルランドだ!・・・それでいいのだ!」
それでも港に着岸している大型のフェリーボートから想像すると、どうやら200km先の対岸にあるリバプールとの連絡船らしかった。
思えば遠くに来たもんだ!
ダブリンの近郊都市と思えるこの街はとても垢抜けて見えた。アイリッシュ海を見下ろす石畳のお洒落な市街は多くの市民で賑わっていた。
清楚な装いの女性達は、ケバイ渋谷娘とは違い薄化粧で妖精の様だ。
若者達はこざっぱりとした装いで、汚いストリート系の姿など無い。
小さな子供達の無邪気な顔と声は、天使のように可愛い。
ツイード姿の老夫婦の表情はとてもやさしく暖かい。
なんと平和で素敵な街だろう!まっこと妖精の国アイルランドぜよ!
(・・・国内・国外と最近、色んな土地を訪れているが、私は危険がいっぱいの大都会よりもこんな街が大好きだ・・・。)
素敵な街のショッピング通りを散策していると、突然、会長の鼻が利き始めた。
「よ~し、ここで食事をしてみよう!」
それは、一軒の中国料理レストランと思われる店だった。
名も知らぬ街の、名も知れぬレストラン。
(・・・私はいままで数多くの失敗をした。沖縄名護の食堂でラーメンを注文したら、似ても似つかぬウチナーソバが出てきた。長崎浜町で江戸前蕎麦の看板の出ている店に入ったら、つゆの味がまるでダメ、そば湯も知らない長崎そばの店だった。ニューヨークで寿司を食べたら、鮨とは似て非なるものだった。)
ここは西洋の端のダブリンの、又その郊外の見知らぬ中華料理である。不安だ!う~ん、ここは会長の鼻に頼るしかない!何でも食べてやろう!幸いに店内には、中国人の給仕がいた。会長の中国語も通じた。
・・が、会長は、メニューを見る事とは、食事をするための一種の儀式に過ぎないと思っている方で、決してメニューどおりのオーダーをする方ではない。御自分の頭の中に御自身の世界のメニューが存在する方である。
「よし、ここの注文オーダーは全部私に任せなさい。皆の味の好みや食べる量を想像して、いい料理をたのんであげよう。残さず食べる上手な注文の仕方と食べ方を私が見せてやろう。
・・・中国式のマナーはこうだ。
まずテーブルにつく。ちょっとした店では白い紙がパッと出て、それから箸が置かれる。何のための紙かというと、箸は汚れているから紙で拭けということだ。中国には箸置きが無いからだ。
箸を置く時は、皿の端に置いたりせず、テーブルに直かに置く。それも横むきではなく縦に置くのが正しい。昔、日本のスパイが、この習慣を知らなかったために見破られ、銃殺になった話がある。
飯碗は手に持ってもいいが、皿は持ってはいけない。それから食べながら口から出した骨や種は、テーブルの上や、床の上に吐き出してもかまわない。
これは日本人には無作法なような気もするが、汚すほどに食事を楽しんだという事で、かまわないのだよ・・・。」
・・・ダブリン郊外のレストランにとっては非常に珍しい日本人の金持ちとおぼしきグループ客である。
しかも、“大人(たいじん)”とおぼしきリーダー格の日本人は中国語をべらべらと喋り、料理にうるさそうである。
そして次から次へと原語の料理名で注文を出してくる。・・はたして?
厨房内には混乱を生じているのが手にとるように分かった。
中国生活経験者である会長の、本場式の注文がよく理解出来ない様だった。(白い紙は出て来なかった。これならば銃殺される心配は無さそうだ・・・。)
厨房だけでなく給仕までがオロオロとし始めた。どうやらここは、ナイフとフォークで食べるアイリッシュ式モディファイド中華料理店であった様だ。
会長の注文とは似ているが非なるものが続々と登場してきた。たのんだ餃子が焼き餃子でなく水餃子であったのは当たり前としても私が漢字で書いて注文した“米酢”も無かった。ビネガーが出てきた。
キッコーマンも無かった。ドレッシングソースが出てきた。味付けが微妙に異なっていた。老酒と氷砂糖だけが本物だった。
「え~!」 「なんだこりゃ~!」 「いや~ん!」
高木社長の驚きの声、奥様の悲鳴、一同の大笑い・・・、円卓はまれに見る“面白い”晩餐会となっていった。
・・・それでもさすがは会長である。料理を無駄にはしない。
出てきた焼飯“風”のライスには、スープ“風”の汁をぶっかけて、ザ-サイ“風”のものを乗っけて、食べてみろとおっしゃる。
(そして、なんとポケットからは携帯用の“醤油”を取り出された!・・・“僕は海外旅行に行く時は、いつもコレを持って来るんだ”・・)
さすが、さすが八郎!これがけっこういけた。全員の好評を得た。
転んでもただでは起きない会長であった。
そして1時間後、お店の方には「楽しませてくれてありがとう。」と、ていねいに御礼をする会長でありました。
・・・会長との食事は、いつでも、食器とナイフの音が良く聞えるような静かなディナーはありませんでした。
いつも会話と笑い声とが絶えない食事でした。
・・・さても会長流美味しい食事の秘訣とは、“豊富な話題の楽しい会話、テーブルの雰囲気作りにあり!”“会話も味の調味料!”と、しっかり勉強した私でありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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