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続・青春VAN日記59

ケント社の巻 その261983年夏)

<石津謙介アイルランド漫遊記8・ロンドンへ>

中世以降、“世界の七つの海に雄飛し、太陽の沈む事が無い” と
言われた広大な世界領土を持ち世界一の文明国であった大英帝国。

紀元前にケルト系ブリトン人が移り住んでブリテンと呼ばれた島は、シーザーのガリア戦記時代には“ブリタリア”と呼ばれていた。

9世紀にゲルマン系アングル人とサクソン人が侵入して王国を創ると、アングル人の国という意味で“イングランド”と呼ばれた。


大航海時代、ユニオンジャックの旗が世界に進出すると、ポルトガル語ではイングレス、オランダ語ではエゲレスと呼ばれた。長崎出島時代の日本ではオランダ商館をマネしてエゲレスと呼んだ。

そして、江戸末期のジョン万次郎などの米語・訳本時代には、ウォ-ターを“わら”と日本語で発音表示したように、イングリッシュ=“いぎりす”(英吉利洲国)と日本語で表記された。以後、日本ではイングランド名をイギリス・英国と呼ぶようになった。

(※私の勝手なイギリス国名由来説です。)


そして新大陸アメリカの覇者ともなった英国W・A・S・P。近世日本の文明開化の手本ともなった英国。そしてビートルズを生んだ現代の正式国名は、“グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国”だった。


さて、ダブリン空港を飛び立って空から眺める大ブリテン島は、鮮やかな一面の緑が印象的だった。雲間からはテムズ川の流れがはっきりと見えてきた。


825日、アイリッシュセッタークラブ一行はロンドンに到着した。
チャーターバスは軽い市内観光をしながらホテルへと向かった。


ロンドンでの目的は、五日間に渡って、かつての世界文明の中心地、トラディショナル大英帝国を見聞することである。
滞在ホテルはロンドンの中心地、ピカデリーホテルであった。


<ホテル・夕食後の会長よもやま話>

夕食後、まずはロビーでくつろぎ、ロンドンでの5日間の予定を確認する一行であった。



横田「会長、ロンドンの左側通行の道路は気持がほっとしますね。イギリスは、どことなく日本と似ているような気がします。」


会長「それはねえ、日本が真似をしたからなんだよ。明治時代の日本は、イギリスを文明開化のお手本にしたんだ。

たしか医学や法律はドイツ、文化や海軍はイギリスだったかな。
でも、それ以前から、似ている土壌があったんだよ。

それはね、中世の日本は武士の時代だったが、イギリスでは騎士の時代だった。心臓が左にあると人は何故右利きになるかはさておいて、右手の自由を確保するために、武士は大小の刀を左腰にさし、騎士は剣を左の腰に付けていた。

そして侍や騎士は、通行中に襲われても刀が抜きやすいように、また対向者と鞘当てすることがないようにと、道の左側を通行するようになったらしい。

だから同じ理由で、男の上着や着物の前合わせは左前になり、相対する女の前合わせは男の右手のために右前合わせになったと言われているんだ・・・。」



横田「それでは、欧州でも英国以外はなぜ右側通行なのでしょう?」


会長「う~ん、それは諸説いろいろあるらしいが、ヨーロッパの歴史は、攻防の歴史だったからとも言える。
封建諸侯の領土のせめぎあい、北方・東方からの相継ぐ侵略、十字軍での回教との戦い、ローマ法王権勢時代、カノッサ屈辱、宗教改革、カソリック・プロテスタントの宗教対立・・・、

特に王室が長年イギリスと敵対していたフランスなどでは、いろんな風習まで、わざと反対にしたという話もあるらしい。


・・・ああ、面白い話があったよ。

かのナポレオンが“左利き”だったという説だ。

欧州各地を占領していったナポレオンは、占領地の交通をイギリスに対抗してわざと右側通行にしたというんだな。

はっきりとした事は解らないが、その後の世界の交通は西欧列強の植民地支配によって、それぞれ右通行派と左通行派に分かれたらしい・・・。

だから、今でもタイヤのバルブの形式や工具のタイプなんかは、英国式だの仏国式だのと分かれているじゃないか。」


横田
「しかしそれにしても、日本と欧米では、いろいろな肉体的動作まで、なぜこんなにもサカサマなんでしょうか。
のこぎり、かんな、荷車・・・、日本人は引く動作なのに欧米では押していますヨねえ。


マッチの火の付け方、鉛筆の削り方・・・等、日本では押す動作なのに欧米では引く動作です。

ドアの開閉、錠や蛇口の廻し方にもサカサマのものがありました。

ヨーロッパは“馬を引く人種”と言われますが、東洋人は“牛を追う人種”とも言われます。

戦争のやり方なども、ヨーロッパではハンニバルやシーザーに始まって、アーサー王やナポレオンやチャーチルに至るまで“陣頭指揮”が常道ですが、その傾向は新大陸米国においても、第七騎兵隊のカスター将軍からハルゼイ提督・バックナー中将(沖縄上陸米第10軍指揮官・マブニで戦死)まで同様です。

しかるに日本では、義経、謙信等以外は、あまり前線には立ちません。特に帝国陸軍などは、前線のはるか後方に司令部を置き、中でもインパール作戦の牟田口中将などは、戦闘の最中でも、ビルマの後方避暑地メイミョ-で芸者遊びをしていたそうです。なぜこれほど違うのでしょう?」


会長
「君は、面白いことを考える男だねえ。
世界の風俗・習慣・言語の違いはいったい何故なんだろうか?

旧約聖書にバベルの塔の話で、その理由は書いてある。実際にはもちろん気候や風土の違いによって、異なった生活様式が発達していったからなんだろうが、ボクが若い頃中国に行った時にも、違いを感じたことがある。
日本人と中国人は動作がサカサマだったんだ。
食事作法の箸の置き方一つとってもそうだったが、礼儀作法でもそうだった。


座っている人に向かって立ったまま物を言うのは、日本人には失礼になるが、向こうでは逆だった。

その時ボクは思った。


・・・かつて遠い昔の日本は中国に比べ劣等国だった。
日本の為政者達は、なんとか中国の文明に追いつき、先進中国に対抗しようとした。遣隋使・遣唐使・百済聖明王・仏教伝来。

そして次には、自分の国は中国の真似ではない立派な確立した国家である事を見せかけようとした。国風文化の創造だ。

そこで為政者たちは、日本民衆に対してなんでも中国とは異なる反対の動作を無理やりに教えこんだのではないか?

そうしないと、文字や彫刻、音楽とか、みんな模倣をしているから、劣等国と思われてしまう。日本の指導者はそこで違った風習を対抗手段として教え込んで、日本が独立の国であると見せかけようとしたのではないか?つまりサカサマの文化創りだよ。


・・・かつての江戸幕府に対する琉球国の過度の中国風文化つくりや、薩摩国の方言つくりもそうだったのではないか?

もしかしたら、明治の文部省も、西欧諸国に対してそういった意図があったかもしれない。

20世紀、世界の植民地独立運動の中でも、各国独自の文化作りの底には、そういった意図が働いていたはずだ。

だから、かつての西欧諸国内の各国の文化・風習の形成においても、意図的な“反対の文化・動作造り”が無かったとは言えない。

本来、文化・風俗・習慣とは、それぞれの地方の自然環境・気候・風土・の違いの中で、その地で生きるための適応された生活様式が、歴史の中で時間をかけて発展して行ったものだが・・・、時には、国家の政策や権力者・為政者の目的遂行のために意図した計画で作られた物もある。

ある意味においては、文化、科学、衣服、言語、兵器、全ての発達は、他国との競争や戦争によって進歩発達した物、とも言えるだろう。

特に国が隣接しあう西欧諸国の歴史においては、いつなんどき、だれにやられるか、まったく予断をゆるさない。だから少しでもその気配が見えたら先手を打たなくてはならない。

そんな緊張感が常にあるからこそ、各国独自の個性的な文化・風俗・習慣が発達して、またそのレベルも非常に高くなったのだろう。

したがって、ヨーロッパでは“個人主義”や“プレステージ”といった考え方が当たり前である。いっせいに並んで田植えをし、共同作業をせざるを得なかった農耕民族の“コンフォーミティ”とは価値感が異なるのだ。

西欧では、衣服は個人を表わすツールである。

イートンの紋章も、タータン柄も、騎馬連隊のレジメンタル柄も、グレナカートチェックも、自分の人生とは無関係と思う者は、身に付けない。

バーバリーとアクアスキュータムのどちらがカッコイイとか、グッチとヴィトンのどちらがより高級品だとか、ゴードン家とマッケンジー家のどっちのタータン柄が素敵だとか、アランの編み柄は誰さんの編んだものが本物だとか・・・、

そういうことで選ぶのではない!のである。

服装、というものには、形・色・柄・素材にもそれぞれの歴史、文化のバックグラウンドと言うものが常にある。

それぞれの品は、それぞれの人々にとっての社会機能を果たす物だったのである。服というものは、そのことを理解し、身に付けた上で、初めて着こなせるものだ。


ヨーロッパ伝統の貴族文化・社会がわかってもいないのに、いきなり見栄と世間体でヨーロピアン高級ブランドに飛びつくという日本人は、いかにも無見識で恥かしい事だ。

西欧の伝統商品は、日本人客の成金趣味を満足させるための物ではない。
・・・ボクはスノッブ気取りは大嫌いだ。

そして農耕民族であった日本人には西欧文化を理解するのはなかなか難しい。

かつての鹿鳴館は仮装行列だった。


日本人に解りやすい服は、アメリカントラディショナルだ。

アメリカは現世界の政治・経済・文化の中心地でもある。
勉強は、すぐれたものを手本にするのが自然の成り行きだ。

そして日本人には、英米伝統文化と通じる歴史・思想がある。

騎士道に通じる武士道の思想がある。


フェア精神に通じる恥の文化もある。


アイビーリーグ校にも通じる弊衣破帽のバンカラ精神がある。


他者を思いやる質実剛健精神がある。

日本人が理解できる思想のバックボーンがある。

だからボクは、西欧上流階層のための、型・素材・色柄をいじくりまわして流行をつくる芸術的感覚のファッション・モードの世界ではなく、英米の実社会の中で、人々に脈々と受け継がれてきた思想・文化を着るトラディショナルの世界を広めたかったんだ。

だからボクは、アイビースタイルにしたんだ。


それが「ファッションではなく、風俗を創る。」ということだヨ。」




Taramoa Dyu社


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく









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