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続・青春VAN日記115

ケント社の巻 その82(1985年夏)

<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行⑯>

VANと科学の話

さて、また話が少々横道にずれますが・・・、


このところ当日記の中で、私達の団塊世代は戦後文部省の
「平和と科学の教育」で育った、と何回か申しましたが、実は、この科学的教育とVANの発展には関係性があったのです。(いつもの勝手な横田説です)

・・・私達世代が子供の頃の有名な科学者と言えば、天馬博士、お茶の水博士(アトム)敷島博士(鉄人28号)を筆頭にアインシュタインや湯川秀樹・糸川英夫博士達でした。

少年達は、科学とは何のことか、よく解かっていませんでした。
科学とは、すごい発見や発明をすることかと思っていました。

そして、モノ心が付いて、本を読み、ささやかな勉強をしてようやく科学というものは、ロボットやロケットを作る事ではなくて、毎日の勉強のやり方や、学び方の事である、と気付きました。

「科学とは、(文字通り)物事の現象・原理を系統的に科して研究し、組織立てる学問である」by国語辞典)

つまり物事をテーマやジャンル別に区分けして研究するやり方である。

(したがって文部省の科学教育とは、生活に必要な様々な自然科学の勉強を、数学・物理・生物・化学・現国・古典・歴史・政治・経済・・・と言うように教科を分けて教えるやり方のことでした。)

「科学的な方法とは、まずは研究対象を分析・調査し、結果を整理し、新たな知見を導き出し、正しさを立証するやり方の事である。」

この基とは、17世紀フランスの近世哲学や合理主義の祖と呼ばれたデカルトの「方法序説」の原則である。

1、「明証」明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。
2、「分析」解決可能な要素に分解して考察する。
3、「総合」単純なものから複雑な物へと順番に解決・認識する。
4、「吟味」見落としがないか十分に確かめ全体を再構成する。


この勉学の組み立て方は、現代の各種論文やレポートにおいての作文の書き方、“起承転結のセオリー”なのでもあります。

そして私達世代はこの科学する教育方法で育ったのです。

「科学する心」とは、過去の知識を分析して新しい真理を知る事。
・・・つまりは“温故知新”の事でもあります。

そして、戦後服飾界に彗星のように登場した石津謙介先生は、科学的教育で育ち文化の薫りに飢えていた若者達の知的探究心をたちまち鷲掴みにしたのです。

それは、今までは“感覚”の世界のものであった捕え所のない「ファッション」なるものを、“科学的”に分析して、男の服飾の概念を論理的かつ体系的に解説してくれたからでした。

「服装というものには、形・色・柄・素材にもそれぞれに人間社会の歴史・文化のバック・グラウンドというものがある・・・。

紳士服というものはすべからく、その事を理解し身に付けた上で、
始めて着こなせるものだ。
」・・・石津謙介


「モノを理解するためには、表面に現れるカタチだけではなく、その裏側に隠れている精神を知らねばならない。」・・くろすとしゆき


従来は、“男子たる者厨房に入らず”であり、服飾やお洒落などの話は男子の口にする事ではないと言われた不文律の時代に、石津先生は、社会生活や人生における男の服飾の重要性を訴え、その複雑だった規則やセオリー・マナー等を明解に大系化して、男に必要な知識教養として科学的に提案したのである。

「・・人間は、何事であっても努力しなければ一流にはなれない。貴方が格好いいかどうかを判断するのは貴方で無く社会である。

社会には不文律やきまり事や常識がある。身だしなみというのがこれである。おしゃれとは身だしなみから始まる。

身だしなみとは社会人の常識である。

世界の洋服着用民族の常識とは、TPOでありFOPのことなのである。

先人からの社会のルールを知った上で、初めて自分流をつくる。
これをおしゃれという・・・。」


これらの男の服飾のあり方についての古い業界概念へ対するアンチテーゼは、服飾界の維新でもあった。


石津謙介とは、従来、自然科学の法則的知識を教える事が最優先である学校では教える事の出来なかった・・、現代世界の文化・風俗・思想等のスタンダードを教えてくれる、現代社会科学の先生であり、日本中のドラ息子にとっての、しつけを教える父親でもあった。

学問の世界では「正統は論理、感覚は異端」である。・・・が、ファッション界とは自由なデザインの“感覚”と“好き嫌い”の世界である。

石津謙介は、そこに“論理”の概念を持ち込んだ。


トラディショナルとは、衣服の様々な因縁や蘊蓄や歴史を研究し、過去の時代からの社会における衣服の概念や規則や習慣を伝える、もともとが文化人の教養・知識を必要とする論理の服である。

・・・この、ある意味、理屈っぽいめんどくさい衣服の世界が、戦後のアメリカ文化に憧れ、日本復興に燃え、より高所を目指す科学教育で育った若者達の知的探究心の波長にピタリと適合した。

まさしく文化国家を目指して教育水準も経済力も上昇していった、日本でこそ起こり得た、ともいえる現象でした。


男は、幾つになっても科学する心を持って生きたいものです。

トラッドとは、科学する心を持った男のスタイルなのであります。

YOUNGATHEART!」



(・・・と、強引な“横田節”も出た所でハワイ旅行の話に戻ります。)



憧れのハワイ航路3~帰国

もしかしたら、かくのごとき時代に育った私達の世代は、従来の農耕民族コンフォーミティ体質が特徴だった日本人の中では、ちょっと変わった人間なのかもしれない。

生まれついてのアマノジャクなのか、はたまた石津先生とVAN教育のせいなのか、本田宗一郎さんのせいなのか・・・?

・・・「他人とは違う事をやりなさい」なのです。

したがって、ローカル・レトロ・ノスタルジーの好きな、
1型人間の私がハワイのオアフ島で夢中になったものとは・・・、・・・夜のカラカウア通りの“アッソバナ~イ?”のお姉さん方や、アラモアナショッピングセンターや免税店でのステキなお買い物、・・・では、ありませんでした。(※買い物は、日本語も通じるABCストアが私の御用達でした。)

ホノルルを最初に訪れた時も、やっぱり“ビショップ博物館”を見学して歴史を勉強してしまう私でした。(科学教育のたまもの?)

(※・・・おまえは修学旅行の学生か!と言われてしまいそうなので、キャプテン・クック上陸話やカメハメハ大王の戦い・カラカウア王の訪日話、そして日系移民や大日本帝国海軍の東郷平八郎提督の登場話などなど、面白い話がたくさんあったのですが、誌面の残りも少ないので、今回ハワイの歴史は書きません。・・・悪しからず・・・。)


そんなわけで、島内1周のドライブで見た島の北部の村や集落の人々の生活の姿や、カイルア、サンセット、ワイメア等の美しい大自然の海の姿が、まさしく心に残る最高の御土産でありました。(腰ミノを買いました)

もし許されるなら、こんな楽園に住んでみたいと思うのでした。



追伸
ポリネシアン文化センターでの炎と水をふんだんに演出した大スぺクタルのポリネシアン歴史ミュージカルショーや、各島スタイルのフラダンス、ファイアーダンスショーや、ハワイアンの大御所ダニー・カレイキニのショーは最高でした。


あのプレスリー映画「ブルーハワイ」の感動が甦ったものです。

そしてハワイ村での、フラダンス講習会、ココナッツ割りや火起こし体験の実習は、実に楽しかった。本気で、衣服のいらない裸に腰ミノの生活に憧れてしまった。

(・・・待てよ、そうすると洋服で食べさせて頂いている私などは、飯が食えなくなるし、ノウガキも垂れられない?そうだ!定年にでもなったらハワイに住んでガイドでもして暮らそう!本気でそう思ったのだが・・
現在は赤城山のガイドの?・・私でありました。)


嗚呼、魅惑のハワイよさらば!

会長、ありがとうございました!



                                    つづく    







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