続・青春VAN日記126
ケント社の巻 その92(1987年秋)
<スポーツの秋>
御幼少の頃は無鉄砲で暴れん坊のワタシであったらしい。
数年前に小学校の同窓会があって出席したのだが、予想もしないギャフンという目にあった。
自分では、真面目でおとなしい子供だったと思っていたのだが、同級生の元子供達の評価はどうも違っていたようだった。
児童会の放送委員をやっていた事からその場で司会をやらされたのだが、円卓に着席して昔の女子児童達と会話して驚いた。
「私2年生の時、横田君にいじめられたんだけど、憶えてる?」
「ヨコタ君、職員室で暴れて金魚鉢を壊したのよねえ。」
「市会議員になった○○君と喧嘩して、いつも職員室に呼ばれていたわよねえ。」
・・・げげげ!じぇじぇじぇ!・・・。
「エっ!ほんとに? ボクは覚えてないんだけど・・・、忘れた事とは言いながら、・・・なんともごめんなさい!」
変な所で、私はペコペコと謝ることになってしまった・・・。
想い返してみればその頃、いったい天罰が下ったのかどうか?
私は腎臓病を患い、小学校を長期欠席することになった。
3か月間、毎日注射を打たれ天井板の木目を見ては夢想する寝たきりの毎日を送る事になってしまった。(そして本を読むようになり、考える子になった。)
やがて、なんとか留年だけはまぬがれようと小学校に戻った時、かつての暴れん坊は激変していた。私は体力の無い、ひ弱な、青白い児童になっていた。
教室での授業にはついていけたが体育の時間は全く駄目だった。
かけっこ、鉄棒、跳び箱、マット運動・・・等々、「わ~い、あんな事も出来ないんでやんの、カッコ悪ル~!」
昨日の強者は今日の弱者。子供世界は残酷だ。私は運動の苦手な子供になっていた。
幸い、学級委員で勉強の方はソコソコだった私は、表立って虐めに会う事はなかったのだが、思春期を迎えた時「このままではいけない」と自覚・発奮した。
そして“文武両道”を唱える古典的・質実剛健高校に進んだ。(※1型のバンカラ伝統男子校である。)
生徒自らが自治活動を行う元旧制中学とは実にありがたかった。
その行事は、激烈な体育祭・球技大会・水泳大会・マラソン大会・恒例の金山登山に止まらず・・・、体育授業では柔道が必修であり、連日の校庭外周持久走、・・と、ひ弱だった私は、すっかり体力を回復する事ができた。
又、生徒会購買部長で学用品や軽食の仕入れを経験させてもらい、マネージメントの勉強もする事が出来た。
実にありがたきものとは母校である。
(※この高校は県立普通科進学校であったが、今日では珍しい明治の気風を残す県下最古のラグビーを行ったバンカラ校でもあり、そのクラス編成は単純な成績順で1組から7組までが決められていた。
入学時は1組だった私は、勉強以外の活動に熱中してしまった結果、3年時には見事6組であった・・しかし、その青雲の大志を抱く伝統精神はしっかりと身に染みついたのだった。)
人の一生は、食って寝て繁殖する事だけではない。男なら、世のため人のために何かを成さねばならない。そのためには、まずは健康な身体が必要である。“健康な体にこそ健全な精神が宿る”のである。遅ればせながらもスポーツの重要性を知る私でありました。
スポーツとは、人間が人間のために考案した、肉体鍛練・遊戯・競争の要素を含む身体と頭脳を使う行為の総称である。その語源は古フランス語のDESPORT(気晴らし、遊び、楽しむ)といわれている。
・・かつて人間は生きるために必要な、様々な生活技術や手段を発展させてきた。そして身体能力を進歩させてきた。
走力、跳躍力、石投げ、馬術、弓矢や刀槍術、格闘技・・等々。
・・やがて生存活動に余暇の時間が出来て平和な時間が得られると、これらの技術は次第に独立した身体文化やスポーツに発展した。
古代ギリシャのオリンピアにも見られた各種の身体競技は、中世ヨーロッパでは一部の特権的上流階級の遊びであったが、中世都市国家とは自治権を持つ自律した共同体でもあった。
ギルド手工業者達や市民は都市防衛のために、剣術や弓馬の道、格闘技に励み、ダンスやフットボール等のゲームも発達した。
やがて貨幣経済の進展とともに運動やレクリェーションは次第に市民のものになっていった。
かくして19世紀の“各種クラブ”の発生した英国においては、ブルジョアジーの近代合理主義に基づいたスポーツ文化が根付き、人間の“身体運動による人格形成論”が台頭し、保健や体育の学問・研究も発達を遂げ・・・、19世紀末にはフランスのクーベルタン男爵が、古代ギリシャのオリンピアの祭典を元にした世界的なスポーツ大会を開催する事を提唱した。(・・デカルト的科学的思考の賜物)
ここに専門組織による“整備されたルール”に則って運営される紳士的・科学的な“近代スポーツ”の世界が誕生したのである。
・・・そして20世紀、私が就職した企業とは・・・、東京五輪以後の若者達のスポーツマインドを先導する、「COME ON SPORTSMAN」「WE LOVE SPORTS」を標榜し、アメリカンフットボールを筆頭に各種スポーツを社員自らが実践する会社であった。(※1964・東京五輪選手団ユニフォームは石津社長デザインである。)
夏も終わりを告げる頃、石津事務所で秘書の高田さんから嬉しい情報を聞いた。
「あの東京ヴァンガ―ズやオーバーサーティーズの皆さん方が、ヴァンガ―ズを再結成して、試合をするらしいですよ!」
これは第一回パールボール応援団員の私としては黙っていられない。
早速V社SPORTSの権化・五十嵐さんに電話するのだった。
「先輩!私をボールゲームに連れてって下さい!」
あの倒産から9年後の1987年9月とある東京郊外の米軍基地に、体格の良い中年男達が集合した。
長嶺氏を筆頭に、数々の栄光の歴史を創り上げて来た、実業団最強
“東京ヴァンガ―ズ”のメンバー達であった。
そして、彼らの前に毅然と立っているのは、栄光の100番、石津謙介総監督のお姿であった。
米軍チームと戦っている選手達の目は、皆、輝いていた。
YOUNG―AT―HEART!
ともあれスポーツにも、見るモノやるモノからプロ・アマまで各種あるが、大原則としては自分が体を動かすのがスジである。
それをわざわざ他人がやるのを見るのは、そこに素人には絶対に見られない格上の技術を見たいがためである。
プロならば収入に見合うだけの技術とショーを見せねばならない。
そしてそれはプロのビジネスマンにおいても同じ事なのである。
(※そして、2013年9月8日。ブエノスアイレス五輪委員会総会で56年ぶり2回目の東京オリンピック開催が決定された!
・・・ここに至るまでの長い道のりの途中には、かつての不健康なマージャン学生達に“週に1日はスポーツを!”と、スポーツのあるライフスタイルを長期キャンペーンで提案し続け、社長を筆頭にして社員達自らが、それを実践し続けて来た、無形のVANの遺産の力もあったのだ。・・・と勝手に信じる私でした。)
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