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続・青春VAN日記13

破産財団の巻 その13

<1979年・VAN再建を目指す各界の様々な動き>


1、マーケット

私達の再建を目指す販売活動を、100倍にも盛上げてくれたのは、有名各誌、各業界の第一期・二期のアイビー世代の先輩達の力と、その力によって新たに生まれた日本中のアイビーファンの力だった。

その力はVAN社のみならず、トラッド業界全体に力を与えてくれた。

街中は“トラッドにあらずばヤングにあらず”状態となり、
日本中の全国各地に、社会人から大学生、高校生に至るまでいたるところに“アイビークラブ”が結成され、小売店は回復し、

メンクラ誌の“くろす街アイ”取材陣はファンに取り囲まれ、
これらの創始者である“石津謙介とVAN”の再登場を待ち望む声が
全国津々浦々、日増しに高まっていくのであった。


この大きなムーブメントは、再建にたずさわる様々な関係者達へも、大口債権者である巨大商社へも、強力な追い風を与えるのであった。


2、巨大商社

当初はどこ吹く風と、労組による抗議活動にも知らぬ顔を決め込んでいた巨大商社達であったが、世論、マーケットからの強力な風向きを無視する事は出来なくなり、再建問題解決に向かわざるを得なくなっていった。


3、労組

管財人への協力を同意し、ヴァンの復活にかけた組合であったが、PICK-UP店、PX店の成功に自信を深め、この年の10月には、ついに“販売会社ヴァン・カンパニー”を設立して、VAN直営店・全国展開構想を計画するようになる。

その手始めとして、旧・東北仙台営業所、大阪支社、静岡営業所の3地域に直営VANSHOPを立ち上げていくのであった。


4、VAN役員達

旧役員の中で、倒産から破産、残務処理と終始御苦労をされたのは、
財務担当取締役、早川和夫氏である。

早川部長は
「私は根っからの経理屋、社内でもっともヴァンにふさわしくない人間だ。」と御自称されていた。(ご謙遜です。社内1責任感の強い御方です。)

「幸い、私には子供がいないので、夫婦二人ぐらい食っていくのはなんとか
なる。この会社から与えてもらった物をすべてお返しするつもりでやれば活路は開ける。」・・・と早川部長は、旧役員の中でただ一人、一貫して破産管財人を補佐してきた御方なのである。

そして
その“新社構想”計画を打ち出された時から、新たなる御苦労が始った。



新社構想とは、「旧VAN関係者による自主的な経営が保証されること」が前提条件である。・・・ヒト、モノ、カネをいったいどうするのか?


・・・79年31日、強力な助っ人が登場した。破産申し立てとともに会社を去っていた、あの牧尾裕輔・東京支社長が、「新会社によるVANの復活」を心に秘めて「管財人室付き」の肩書きでヴァンに戻られてきたのである。


「・・・カネを出してくれる人がいないならば、我々が調達できる範囲の小さな会社を作ればよいではないか。大きな会社より、かつてのVANイメージを守れる会社をまず作るべきだ・・・。我々が復活させねば、必ず誰かがこのブランドを使うに違いない。そうなればヴァンの香りをまったく失わせてしまいかねない・・・。」

・・・かつてのVAN武者達の活躍が再び始った。


そして、新社構想が浮かび上がる度に複雑な思いに胸を痛めるのは、
創業者である石津謙介会長だった。


「実質経営者は丸紅であったとはいえ、破産の責任はまぬがれない。」と私達のラブコールにも簡単には応じられない苦しい状況だった。


石津会長の元には、国内大企業よりの引き抜き工作が後を絶たなかった。

  「ぜひ、VANブランドを我社に売ってくれ!」


  「我社の新ブランドの顔になっていただけないだろうか?」

  「当社の専属デザイナーをお願いしたい!」



しかし、石津会長は、これらの要望をガンとして受け付けなかった。


あるメーカーの場合は一ヶ月にわたって交渉が続けられた。

石津会長は、相手企業のオーナー・幹部の居並ぶ会議ではっきりと言った。

「今さら、VANのブランドで儲けようなどという、そんなケチくさいことは
考えないでもらいたい。あなたのところには、誰でも知っている立派なブランドがあるじゃないか。新しい事業を起こすと言うなら、ゼロから始めるべきだ!・・・。」



会長は、その胸奥底のお気持ちをけっして表明されることはなかったが、日本中からの再建に向けての気持ちを、必ず分かっていてくれるはずだ、と固く信じる私達であった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

        














1979年当時、毎日、報知、東京新聞はじめもろもろの媒体で取り上げられたVAN SHOP(PICK-UP、PX)の販売が好調に推移することを掲載した記事。





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